車はほとんど信号に引っかかることもなく、すいすいと滑るように進んでいく。車内にはラジオの洋楽専門チャンネルから、聞いたことのないおしゃれな音楽が流れていた。
 最後に爆豪くんの車に乗った日と変わりのない位置にある助手席のシートに深く腰掛けて、私はぼんやりとフロントガラスにうつる景色を眺める。
「あれ以来、変なの沸いてねえか」
 ゆったりとハンドルを切りながら、ふいに爆豪くんが口を開いた。意識を散漫にさせていた私は「ああ、えっと」ととりあえずの言葉を返しながら、爆豪くんに問われた言葉の意味を考える。
「あれって」
「週刊誌」
「ああ、うん。大丈夫」
 それに関しては本当に何もおかしなことはないので、私ははっきりと頷いた。
 爆豪くんの事務所と先方でどういう話が付いたのか、私はその辺りのことを何も知らない。一応のところは私も巻き込まれた当事者のひとりなのだろうが、爆豪くん本人すら話し合いの場から締め出されていたのに私が事の仔細を知りえるはずがない。
 後日爆豪くんの事務所からお詫びの品という名目でお茶菓子が送られてきたけれど、結局はそれきりだった。それ以来、爆豪くんが今日にいたるまで事件の話を蒸し返すことはなく、当然ながら私の元恋人やその後ろにいたと思われる人たちからの接触もない。
 仕事が忙しいのは相変わらずでも、しごく平和で、いつも通りの日常だ。
 私の返事に満足したのか、爆豪くんはかすかに肩に入っていた力をゆるませ、それからまたいつものように鼻を鳴らす。
「大体てめえは隙が多いんだわ。だから変なのに目つけられんだよ」
「目つけられてたのはどっちか言うと爆豪くんだけどね」
 まだ微妙に残っているアルコールが、私の口を軽くした。
 口に出してから、もし余計なことを言ってしまっただろうかと気付く。ちらりと爆豪くんの方を盗み見れば、むっつりと口をへの字に曲げてまっすぐ前を見つめていた。いつもと変わりのないその様子からは、私の失言ともとれる言葉が気に障ったようにも見えるし、どうでもいいと受け流しているようにも見える。
 ラジオから流れる音楽が、ふつりと途切れる。
 その隙間を埋めるようにして、私は爆豪くんに尋ねた。
「爆豪くん、もしかして罪悪感みたいなのある?」
 爆豪くんからの返事はない。この無言が肯定なのか否定なのか分からず、
「その、私のこと巻き込んだとかそういうのに対して、だけど」
 と、一応の補足らしきものを付け足した。あまりにも言葉が足りていなくて意図が伝わっていないのかと思ったのだ。
 上鳴くんと話をするまで、私は自分が一方的に爆豪くんに迷惑を掛けた側だと思っていた。申し訳ない気持ちもあったし、何となく爆豪くんに顔向けできないとも思っていた。防ぐことが難しかったとはいえ、やはり私に付け入る隙があったのは事実だったのだろうし、ヒーローとしてのリスクマネジメントも不足していたと思う。いくら専業ヒーローではないといったって、私の立場は完全な一般市民とは一線を画す。そのあたりの意識が不足していたと言われれば、私には否定のしようもない。
 だから爆豪くんが私に対して罪悪感を持っているというのなら、そんなものを爆豪くんが抱く必要などどこにもない。
 爆豪くんの立場を考えてみて、私も自分が一方的に悪かったと思うのは違うのではないかと思ったけれど、だからといって爆豪くんだけが悪いということにはならない。そういう認識の差があるのならば、ちゃんと早いうちに埋めておきたい。そう思って、私は先ほどの問いを口にした。
 大事な話だから、言葉足らずでうまく伝わらないのは困ると思った。
 けれど爆豪くんの沈黙は、どうやら私の言わんとするところが分かりかねる、というわけではなさそうだった。
 爆豪くんは横顔からも分かるくらいに眉根を寄せ、表情をかたくしていた。それは不機嫌だとか不愉快だとか、そういうある意味では見慣れた爆豪くんの表情のパターンのひとつではなく、もっと何か、胸のなかだけで練り上げていたものが知らず識らずのうちに表情を形作っているような──そんな確固とした表情のように見えた。
 しかしそんなことを考えていたのも束の間。
 運転席の爆豪くんは突然舌打ちをしたかと思うと、急に右折レーンへと車線変更する。
「え?」
 車の交通量が少ないのをいいことに、そのままさっさとUターンをすると、今来た道を引き返すようにアクセルを踏んだ。
「あれ、なんでUターンするの? 家帰るんじゃないの?」
 まだ日付が変わるまでには少し時間があるものの、とはいえすでに夜更けと呼べるような時間帯であることには違いない。何の説明もされないまま進路を変更されてはさすがに困惑する。
 しかしそこは爆豪くんだ。
 たとえ同乗者が友人の私だからといったって、彼には自分の思考をわかりやすく説明して共有してやろうなどという気持ちはさらさらない。
「山」
「え?」
「山行くぞ」
 爆豪くんの説明はそれだけだった。
 どうして、なんて説明は当たり前のように存在せず、伝えられたのはただの目的地だけだ。いや、どこの山とすら言っていないのだから、正しく目的地すら教えてもらっていない。助手席に座った私は意味も分からず困惑するばかりだ。
「え? 山? 山って今から?」
「てめえどうせ明日の勤務夕方からだろ」
「そうだけど、っていうかなんで知ってんの」
「うるせえ」
 正当なはずの私の疑問はばっさりと切り捨てられてしまった。ハンドルを爆豪くんが握っている以上、私はもはやただただ爆豪くんの気の向くままに目的地まで運ばれていくことしかできない。
「足使って上るとか言わないよね? さすがに車で登れるところだよね?」
 頭に浮かんだ疑問のうち、どうにか爆豪くんが答えてくれそうな疑問を厳選して尋ねれば、
「当たり前だろーが」
 とだけ返事が返ってくる。その返事に少しだけ胸をなでおろし、私は運ばれるがまま、どこにでも連れていかれる覚悟を決めたのだった。

 ★

 小一時間ほど車を走らせたすえ、私と爆豪くんが到着したのは山──というかちょっと小高い土地にある森林公園のような場所だった。とはいえ地名にはちゃんと「山」の字が入っているし、そのいただきにあたる現在地は市街地からそう離れていないにも関わらず、野生の生物がかなりの数生息していそうな雰囲気を漂わせている。
 停められた車から下りて、身体を動かしがてら車の周囲をぐるりと見て回る。
 外の冷たい空気から逃げるように車内に戻ると、途中の自販機で買ったホットコーヒーで手をあたため、言った。
「山だね」
「……」
 運転席の爆豪くんは何も言わない。
「外、雲かかりすぎて夜景もなんも見えんけど」
「……」
 やはり、爆豪くんは何も言わない。
 夏ならば、あるいは天気が良ければさぞきれいな星空が見えたのだろうと思われる上空には、厚い雲が立ち込めているせいで月の光すら薄ぼんやりとしか見ることができない。街の方はそう天気が悪いわけでもなかったので、山の天気は何とやらということなのだろう。今にも雨か雪が降ってきそうなどんよりとした夜空だった。
「ていうか、寒いね。冬の山」
「うるっせえんだよ!」
 ようやく爆豪くんが沈黙を破り、大声で怒鳴った。車内に爆豪くんの怒号がわんわんと響く。しかしそんなふうな威嚇攻撃をされたところで、どんよりした曇り空の広がる極寒の山に連れてこられた、という爆豪くんらしからぬ行動の面白さが薄れるわけではなかった。
「あんまり叫ぶとくまが起きてくるよ」
「起きねえわ! つうかいねえわ!」
 ふっふと笑う私と、心底腹立たしそうにしている爆豪くんだった。車内の空気はどちらかといえば私の面白く思う気持ちに傾いているため、それでもかなりあたたかい。
 そもそも爆豪くんはどういう意図でこんなところまで私を乗せて車を走らせてきたのだろうか。深夜の山というとどうしても犯罪のかおりがぷんぷんしてしまうのだが、さすがにこの期に及んで爆豪くんに山中に埋められることもないだろうから、この場合はその可能性は捨ててもいいはずだ。
 となると、やはり市街地を離れて気分を、あるいは雰囲気を変えたかったのだろうと思う。こんな天気でなければきっとさぞ素敵な星空を見ることができたはずの場所だ。ここに来ることは急遽決まったのだろうから、この曇天は爆豪くんにとっても計算外のことだったに違いない。爆豪くんにしては随分詰めが甘いと思う半面、そういう爆豪くんの爆豪くんらしからぬ部分を見られる立場でよかったとも思う。
 私が情けなかったりどうしようもなかったりする部分を、これまでも数限りなく爆豪くんに見られてきているのと同じように。
 爆豪くんの「らしくない」詰めが甘かったり格好悪かったりするところを、こうやってそばで見られたらいいなと思う。

 フロントガラスに白いものがふわりと舞い落ち、消えた。透明な水の粒になったものをぼんやり眺める。私と同じように、運転席でぼんやりとフロントガラスを眺めている爆豪くんの呼吸の音が、しずかに車内の空気に伝わって、私のもとまで届く。
「私もさ、いろいろ考えてたんだけど」
「てめえはいっつも、ぐだぐだぐだぐだぐだぐだぐだ、どうでもいいこと考えてんだろ」
 切り出した瞬間に話の腰を折られた。しかもそれが子供のような悪口だったので、私は思わず脱力して笑う。
「どうでもいいかなあ」
「俺にとっちゃどうでもいい」
「まあ、そうだね。大抵のことはそうだろうね」
 私が何を考えているかなど爆豪くんにとってはほとんどどうでもいいことばかりだろう。爆豪くんが何を考えているかだって、私にはよく分かりもしない。
 けれど、これまで私たちはそうやってうまくやってきたつもりだし、そのことは多分、これから先もずっと変わらないのだろう。変わらないで在れたらと思う。
「爆豪くん、結婚しよっか」
 道中用意してきたはずの言葉は、結局そんな面白みも雰囲気もない散文的な言葉として発せられた。
「は、」
 言葉を失う爆豪くんに、私はさらに畳みかけるように繰り返す。
「私たちさ、結婚しちゃおっか」
「……てめえ正気かよ」
「だって、その方がなんかもう話がはやくない? 私、爆豪くんのこと好きだし」
 別にそんなつもりはなかったし、今だって結婚願望があるわけではない。
 爆豪くんと恋人同士になりたいのかと言われたら、それすらもはっきり頷けるわけではない。
 けれど。
 病めるときも、健やかなるときも。
 富めるときも、貧しきときも。
 いついかなるときでも愛し合い、敬い、慈しむのが夫婦だというのなら、なるほど私にとってその相手にふさわしいのは爆豪くんをおいて他にはいないだろう。結婚したいわけではないけれど、夫婦という関係に求められるものを当たり前にすでに持っている誰かがいるのなら、それは私にとってただひとり爆豪くんに他ならない。
 愛しているかと言われれば──正直よく分からないと言うしかない。
 そもそも爆豪くんのことをそんなふうに意識する時代はとうに通り過ぎてしまった。胸がどきどきして、彼のことを考えるとどうしようもなくそわそわして、嬉しいけれど泣きたくなる──そんな時間を私たちは経験してこなかった。
 けれど、必ずしも燃え上がるような愛情でなくてはならないわけではないのだろう。
 こうしてそばにいることが当たり前で、互いに互いのそばが心地よくて、相手がいれば何となくそれがどこであってもいいと思えるような愛だって、きっとひとつの愛のかたちだ。
 そういう意味での愛情ならば、私はもうずっと、爆豪くんには持っている。
 多分、爆豪くんも。
「……好きって、いつから」
 低く、慎重な声音で爆豪くんが尋ねた。
 落ち着いた響きはどこか、私の言葉を予想していたようでもある。ついぞ恋にはならなかった私の気持ちを知っていて、爆豪くんはそのうえで私に問いかけているような──そんな気がした。
「いつからって言われると分からないよ。だって何かのきっかけがあってどうこう、みたいなものではないから。でも、恋人が夫婦になって恋心が家族愛に変わるなら、別に先に友情とか家族愛みたいなものがあって、そこから恋心にクラスチェンジしてもいっかなって、そう思ったというか」
 自分の中の曖昧で定まらない思考を整理しながら、私はひとつずつの思いを口にしていく。爆豪くんは黙って聞いていた。ひと呼吸置いて、私は続ける。
「それに、フリーでいるとまた変なことに巻き込まれるかもしれないし。どうせ巻き込まれるなら、いっそ結婚してた方が何かにつけ納得も理解も、それから諦めもつくかなって」
「どんな理屈だよ」
「ええ? だめかな」
 納得も、理解も、諦めも。責任も。
 対等に分かち合って、受け容れていきたいと──受け容れていけると、そう思ったから。
 そして何より。
「私、これからも爆豪くんと一緒にいたいんだよね」
 だから、これが一番正しいと思った。
 どうせ最後まで爆豪くんと一緒にいるのなら、結婚しちゃえばいいじゃないかと思った。子供みたいな理屈だけれど、シンプルで無駄のない思考や理屈は、私や爆豪くんにはこれ以上なく最適なのだ。今更、ロマンチックな展開なんてなくたっていい。
 シンプルに、一緒に在れる生活があれば、それでいい。
「って言っても、この結論に至ったのは割とついさっきだし、ついでにいえば爆豪くんがどう思ってるかは別としての話ではあるんだけどね。今まではまあ、私では役不足とか、せっかく育んだ友情がどうのとか、そういうこと考えたりもしたんだけど。でも結局──って、爆豪くん?」
 話の途中──しかも結構大事な話をしている最中だったけれど、私は言葉を一時停止して爆豪くんを見た。爆豪くんはといえば、話を聞いているんだかいないんだかもよく分からない顔をして、ごそごそとジーンズのポケットを探っている。
 やがてポケットから携帯を取り出すと、隣に私がいるにも関わらず、爆豪くんは平然とどこかに電話を掛け始めた。
「え、うそでしょ……」
 さすがにあまりにもひどい扱いに呆然とする。
 たしかにここまでの流れは私が一方的に「こうだったらいいな」と思っていた話をしていただけであり、そこに爆豪くんの意志や希望といったものは一切含まれていない。私にとっては大事な話でも、爆豪くんにとっては「いきなり何だこいつ」レベルの話だった、という可能性もまったくあり得ない話ではない。
 しかし、その可能性は限りなく低いと踏んでいたのだ。なぜなら相手は爆豪くんだから。私と長年得にもならない友達関係を続けてきて、互いに相手のことはそれなりに大切に思っている、そのはずだという認識があった。上鳴くんからのダメ押しのお墨付きだってあった。だから、さすがに快諾とまではいかずとも、爆豪くんにとっても一考の価値ありくらいの話をしていると、そう思っていたのに。
「爆豪くんの友達歴もそろそろ結構長くなってきたけど、今が今までで一番ショックかも……」
 がっくりと項垂れた私に、爆豪くんが携帯を耳に当てたまま「おい」と呼びかける。携帯からはかすかに呼び出し音が聞こえていた。
「グローブボックス」
 短く指示されるままに、私は釈然としない思いを抱きながらもグローブボックスへと手を伸ばす。中には車や車検関連と思しき書類やポケットティッシュが、爆豪くんらしく整然とおさめられていた。
 その中にひとつ、書類の重しかと見まがうような小さな水色の箱がひとつ、袋などに包まれることもなくぽんと無造作に置かれている。
 その箱を手に取るのと、爆豪くんが電話の向こうに声を掛けるのはほとんど同時だった。
「社長か。俺」
 不遜な爆豪くんの声を聞きながら、私は箱の蓋をゆっくりと開ける。
「結婚する」
 箱のなかには小さく輝く石のついたリングが、ちょんと上品なたたずまいでおさまっていた。
 思わず、息をのむ。その間にも爆豪くんは電話ごしの会話を続けていて、隣にいる私にも聞こえるくらいに狼狽する電話の向こうの相手──事務所のボスを相手に、半ば強引に話を進めていく。
「おー、おう、おう。そう。前に言った通り。また詳しいことは東京戻ったら話す──あ? 今? 千葉だよ千葉。あ? チッ、分ーっとるわ。おう、おう、あーもううっせえ! 切る!」
 最後の方は完全に面倒くさくなって電話を切ってしまった爆豪くんは、舌打ちとともに携帯を後部座席に放り投げる。後部座席のシートの上に置かれた爆豪くんのコートに携帯がぽすっと小さな音を立てて着地したのを確認してから、私は爆豪くんへと視線を戻した。
「ねえ爆豪くん」
「んだよ」
「これ指輪だよね」
 念のため蓋を開いた状態でリングが見えるようにして、私は手の中の小箱──リングケースを爆豪くんの方へと見せる。爆豪くんはリングを一瞥すると、ただ一言
「見たら分かんだろ」
 と鼻を鳴らした。
 もしかしたら私に取れと言っていたのはグローブボックスの中にあった書類か何かかもしれないと、そんな用心深い疑念はこれで完全に打ち砕かれたことになる。
 そしてまた、爆豪くんがこれを私に取れと言った以上、このリングは間違いなく、私に渡すために用意されたものなのだろう。爆豪くんは「個性」柄指にアクセサリーをつけることはしないし、大体このリングはどう見ても女性用のものだ。
 爆豪くんからリングへと、ゆっくりと視線を下す。
 ひと粒ダイヤは薄暗い車内にあっても、かすかな光を受け止めきらきらと輝いている。こんな輝きを発する指輪を爆豪くんが女性に贈るというのなら、それはきっと、人生に二度とあるものではない、特別な瞬間のはず。
「なんでこんなの用意してるの」
 やっとのことで絞り出したのは、そんな可愛げのかけらもない質問だ。
 その問いに対する爆豪くんの答えは、やはりシンプルなものだった。
「クソ雑魚の分際で俺と同じこと考えてんじゃねーよ」

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