職業柄、思いがけない展開に対する適応や咄嗟の反応はそれなりに早い方だと自負している。
 それでも、さすがに言葉を失わずにはいられなかった。
「ええと……つまり──」
 私は利用されていたってことですか。
 何とか絞り出した言葉は随分と理解に欠けたものだった。その場の男性三人の顔を順番に見つめるけれど、誰も何も言ってはくれない。その沈黙こそがつまりは肯定の返答のようなもので、私は自分がどうしてこの場に呼び出されたのかをようやく理解した。
 彼は爆豪くんの弱みや醜聞を掴むため、爆豪くんと仲がいい私に近づいた。そうとも知らず、私はまんまと彼の思惑に乗ってしまった。
 今夜この場で彼の行いが明るみに出たのは、彼が爆豪くんの周辺をさらに嗅ぎまわろうと動き回ったからだ。本来ならば部外者がそう易々と入ることのできるセキュリティではないマンションで、彼はこともあろうに爆豪くんの部屋への侵入を試みた。
 それは私と付き合っていたことで、私の部屋の合鍵を持っていたから──私が、彼をマンションの中に引き入れたから。
 改めて、私は爆豪くんの隣に座る彼の顔を見た。憮然とした表情の彼の顔からは、彼が何を考えているのか推し量ることはできない。私と視線を合わせようとしないのは多少なりとも私を利用した罪悪感を感じているためなのか、それとも単に、私を利用しようとして失敗したことで、もう私に関心があるふりをする必要がなくなったからなのか。
 いずれにせよ、すでに彼はヒーローに身柄をとらえられている。爆豪くんが被害届を出すか否かで彼の今後の処遇は決まるのだろうが、今後二度と私の目のまえに姿を現すことはないのだろうことだけははっきりしていた。
 誰に何と声を掛ければいいのか分からず、私は暫し黙って場の成り行きを窺っていた。壁に掛けられた時計の針の音だけが妙に耳につく静寂のなか、ようやく口を開いたのはこの場の最高責任者である爆豪くんのボスだった。
「苗字さんもまだ多分、多少動揺していると思う。騙されていたとはいえ、恋人がこんなふうにヒーローに捕縛されれば、動揺するのも無理からぬことだと思うよ」
 そう言ってボスはちらりと彼の方に視線を向けた。彼は相変わらず憮然とした表情をしていたけれど、それでも「恋人」という言葉がボスから発されると、かすかに眉根を動かし反応を見せた。
 その反応がどういう心境を示すものなのかは、やはり私には分からない。そもそも私が知っていた彼はきっと「苗字名前をひっかけるのに最適な男性」の役に徹していた彼であって、素性をあらわした彼と私とではほとんど初対面のようなものだ。
 ボスの言葉は続く。
「本当は現行犯で取り押さえている時点で、こうして君のことを呼び出す必要はなかったんだ。だけど君の知らないところで何もかもが終わっても、苗字さんの寝覚めが悪いだろって爆心地がね」
 言われて私は爆豪くんの方に視線を向ける。
 むっつりと不機嫌そうな顔をした爆豪くんはこちらを見ることもなく、ふんと鼻を鳴らして見せた。私をここに呼びだし事情を説明するようとりなしてくれたのが爆豪くんだということ自体への否定はない。だからボスの言うことは事実なのだろう。
「話はそれだけだよ。すまなかったね、夜分遅くに呼び出したりして」
「い、いえ。こちらこそ気を遣っていただきありがとうございました」
 きっと私をここに呼び出す手間がなければ、もっと迅速に話は片付いたに違いない。私に事情を説明するくだりだけでも、それなりにきちんと時間を取ってあった。いくら今が夜だといったって、この規模の事務所ならばそうゆっくりしていられることもないはずなのだ。
 話が済んだのを確認して、私はふかふかとしたソファーから腰を上げる。
 とその瞬間、思いがけず足元がぐらついた。うまく膝に力が入らずにその場にしゃがみこみそうになったのを、ボスが慌てて腕を伸ばして抱きとめてくれる。
「大丈夫かな」
「あ、はい。すみません」
「いや、いきなりの話だったからまだうまく消化しきれていないのかもしれないね。今夜はゆっくり休むといいよ。もちろん君もヒーローだから、そうも言っていられないのかもしれないけれど」
 ゆっくりと私を立たせたボスは、まるで子供をなだめるときのように鷹揚な態度で私をやさしく諭した。なんだか爆豪くんの直属の上司とは思えないような人柄に、私は先ほどまでの動揺と別の意味で面食らう。けれどこういう人だからこそ、爆豪くんを五年間も下で働かせ、爆豪くんの礼儀知らずにしか見えない態度も大目に見ることができているのかもしれない。 
「爆心地、お前が苗字さんを家まで送っていってさしあげろ」
「あ゛ァ!? なんで俺が」
「なんでって、お前ももう退勤するからだよ。同じマンションに住んでるんだからもののついでじゃないか」
「俺ァまだ帰らねえよ! このクソアンチから話聞いてねえだろ!」
「お前がここにいても話が拗れるだけだからだよ」
 爆豪くんのある意味当然の主張を、ボスはばさりと切り捨てた。
「さっきこちらの青年の雇い主には連絡した。じき先方も到着するだろう。そうなればそこから先は責任者同士の話し合い──ビジネスの話だ。正直、当事者であるお前がいても邪魔なだけなんだよ」
 それでもなお食い下がろうとする爆豪くんだったけれど、
「聞き分けろ」
 というボスの最後通告のような一言で、それ以上の反論は見事に封じられてしまった。爆豪くんも立ち上がり、ひとりずかずかとドアの方へと向かう。私も慌てて後に続いた。
「もろもろはっきりし次第連絡は入れよう。だから爆心地、今夜は苗字さんを送り届けてそのまま自宅待機すること」
 再度念を押すように言われ、爆豪くんは振り向きもせず「了解」とぶっきらぼうに答えた。ボスが笑っているのが視界の端に見える。いくら爆豪くんが優秀なヒーローだと分かっていても、その様子は寛大な父親と反抗期の息子のようにしか見えなかった。
 ドアを出る間際、もう一度室内に向き直り、私はボスへと声を掛ける。
「あの、今日はいろいろありがとうございました。それからご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありませんでした」
「いいよ。もとはといえば爆心地が自分で蒔いた種のようなものだし、苗字さんはどちらかといえば巻き込まれた被害者側だ」
「……いろいろ、よろしくお願いします」
「うん、そっちも爆心地をよろしくね。気をつけて帰るんだよ」
 そう言って手を振るボスにもう一度頭を下げると、私は静かにドアを閉めた。ドアを閉めきる間際、ほんの一瞬だけ振り向いた彼と視線がぶつかったような気がしたけれど、そのことには気が付かなかったふりをした。

 事務所を出てふたりきりになると、途端に重たい沈黙が私たちの間に落ちた。
 事務所の駐車場にとめてあった爆豪くんの車の助手席に乗り込み、できるだけ物音を立てないようにシートベルトを締める。そういえばこの助手席に座るのも、随分と久しぶりだった。春に恋人ができてからというもの、爆豪くんとは仕事中に現場で顔を合わせる以外ではろくに会話もしていなかったのだ。
 そうして距離をとることは、きっと爆豪くんにしてみれば私と私の彼氏に気を遣ってくれていたのだろうと分かっている。爆豪くんは爆豪くんなりのやさしさで、距離をもち、節度を守ることで友人として私の幸福の一助になろうとしてくれていた。
 しかしその優しさは、皮肉にも私と、そして爆豪くん自身を守ることにつながったのだろう。
 もしも私と爆豪くんが、私に恋人がいるにも関わらずこれまで通りの性差をこえた付き合いを続けていたのなら、遅かれ早かれ私たちの関係は面白おかしく捏造を盛り込まれたのち、週刊誌の一面を飾ったに違いない。爆豪くんは態度の悪さとはうらはらに潔癖な生活を営んでいるから、そうでもしなければ私の恋人──いまとなっては偽装恋人を演じていただけの彼が、面白いネタを掴むことなどなかったはずだ。
 爆豪くんと同じヒーローという身の上でありながら、私が付け入る隙になってしまった。
 夜を縫うようにして、爆豪くんの運転する車はするすると街を抜けていく。爆破事件の一件以降夜に出歩く人はめっきり減り、そのためか車はすいすいと進んでいく。
「ごめん、爆豪くん」
 運転席の爆豪くんに投げかけた言葉に返事はなかった。運転中なので当たり前といえば当たり前だが、爆豪くんの視線はまっすぐ前方へと投げかけられこちらに一瞥すらくれることはない。
「私の不注意のせいで爆豪くんに迷惑かけた」
 気にする必要はないと、爆豪くんの事務所のボスからは言われたばかりだけれど。それでも、まったく気にしないというわけにはいかなかった。
 気をつけていてどうこうなるものではなかったのかもしれない。もしかしたら、何の情報も与えなかったというこの現状こそが、私に可能だった最善だった可能性だってある。可能性の話を考えればきりがなく、またそれが考えても仕方がないことだということも、ヒーローとして少なからずやってきた経験から知っているはずなのに。
 それでも考えてしまうし、後悔もしてしまう。
 時分だけが傷ついたり害を被るのではなく爆豪くんに迷惑をかけた事実が、私に余計なことを考えさせる。
「迷惑かけて、ごめんね」
 繰り返した謝罪の言葉に、爆豪くんはほんの束の間黙った後、
「まったくだわ」
 と、ただそれだけ短く答えた。

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