「いいなあ、名前ちゃんと爆豪くんの関係」
 ぽつり、お茶子ちゃんが胸のうちの言葉をこぼすように呟いた。その「いいなあ」の示す意味を理解しあぐね、私は曖昧に「そう?」と返す。
「お茶子ちゃんだって、同じヒーローとして爆豪くんに認められてるじゃん」
「それもそうだけど」
 お好み焼きをはぐはぐ食べ進めてから、お茶子ちゃんははふうと溜息をついた。
 高校に入学して真っ先に爆豪くんに苗字を呼ばれた女子は多分お茶子ちゃんだったはずだ。私は一年の秋になるまで苗字を呼んでもらえなかったし、今でもめったなことがなければ名前はおろか苗字も呼んでもらえない。
 同じヒーローのたまごとして──今は同期の同職者として、お茶子ちゃんは爆豪くんに認められているし、お茶子ちゃんもまた爆豪くんを認めている。
 ただ私が彼らと同じ土俵に立っているのかといえば──近い場所ではあるけれど、同じ場所にいるというのとはまた少し違うような気がする。
「名前ちゃんに場合は、認められてるのとはまたちょっと違うというか。なんか、信用されてるよね」
 お茶子ちゃんの言葉に「信用ねえ」と私は口の中で呟いた。今度は自信満々にお茶子ちゃんが頷く。
「だって信用してない人間に留守まかせたりしんよ? 爆豪くんち上げてもらうのに三年かかったって、この上鳴くん言ってたし」
「そ、それは上鳴くんだからだよ……。だって切島くんは引っ越しの手伝いに駆り出されて、そのまま初日に家に上がってったって前に爆豪くんに聞いたよ」
「それを言われると」
「ね」
 なんだか話が微妙にずれたところで、デザートのアイスがテーブルに届く。溶けてしまわないうちにとスプーンを挿し、そういえば冷凍庫にアイスの大きなケースが入っていたことを思い出す。爆豪くんが買い置きしておいたものだろうけれど、あれは私も食べていいのだろうかと、そんなことを考える。
「さっきの信用の話だけど」
 と、再びお茶子ちゃんが口を開く。少し視線を彷徨わせていただけだというのに、お茶子ちゃんのアイスはあっという間になくなっていて、すでにアイスが載っていたガラスの皿は溶けたアイスも残らないほどにきれいになっている。その食いしん坊なお茶子ちゃんが言う。
「こういう仕事してるとさ、いろんな人のやさしさとかあたたかさみたいなの感じるけど──でもやっぱ、それと同じくらい嫌なところも見るしさ。本当に信頼できるひとが周りにいてくれるって、そういうのはたぶん、結構大事な支えになったりすると思うんだよね」
 お茶子ちゃんによって何気なく発されたその言葉は、ここ暫く嵐のように傷病者と対峙していた私の心にすっと入り込んでくるようだった。
「その気持ちは、ちょっと──分かるかも」
 最近の身の回りでの出来事を思い出しながら、私はスプーンを咥えたままで小さくうなずいた。
 ヒーローの仕事も、看護師としての仕事も、根本にあるのは誰かを救けたいという精神だ。まったく不自由していない、どこも悪いところのない人を相手にすることはほとんどなく、たいていは救けを求めている人たちに少しでも救いの手を差し伸べたいという思いで働いている。
 人から感謝される仕事。
 立派な仕事。
 けれどそんなきれいなばかりではないことを、働き出して数年経った私たちはすでに嫌というほど知っている。
 誰かを救けたい、ただその一心で寸暇を惜しんで働いているというのに、私たちの仕事の果てにあるのは必ずしも感謝されるばかりではない。どれだけ最善を尽くしたところで、どうにもならなかった不足を責められることだってある。実力不足・知識不足を必死に補おうと自分の時間を削って努力して、それでも結果につながるとは限らない。
 救けられて当たり前じゃない。
 被害ゼロで済むことなんて、本当は尊い奇跡のようなものだ。
 それなのに、ひと度私たちが出動すれば、誰もかれもを救けることが当然なのだと思われる。力及ばず救けることのできなかった被害者がいるときには、場合によっては犯人以上にひどく責め立てられる。
 あるいは折角救けた命であっても、救けないでほしかったと言われることだってある。
 救けた命が、また罪を重ねることだってある。
 そうやって自分のしていることが何なのか分からなくなったとき、無条件に信用できる、信頼してくれる人がそばにいてくれるありがたさを、私は身に染みて実感していた。私にとってそれは家族でありお茶子ちゃんであり、爆豪くんでもある。
「爆豪くんが私のことどう思ってるかは別として──私はたしかに、爆豪くんのこと信頼してるかな」
「信頼してなきゃ爆豪くんちにお世話になんかなれないもんね。昔からふたり、仲いいし」
「もちろんそれもあるけど」
 お茶子ちゃんの言葉に苦笑して、私はそっと視線を伏せた。
 爆豪くんのことを信頼しているのは、何も重ねてきた時間だけが理由ではない。対人的な面では、ヒーローになって五年も経つのに未だ課題だらけの爆豪くんではあるものの、とはいえ性根が悪い人ではないことは彼の周りにいる人ならば大抵みんな知っている。
 私は爆豪くんと過ごしている時間がほかのみんなより少しだけ長いから、特に爆豪くんの人間性が世間で言われるほど悪くはないことも、やはりみんなより少しだけよく知っている。
「爆豪くんってさ、私に彼氏がいるときとかさ、絶対に私の彼氏の悪口言わないんだよね」
 脈絡なく──けれど私の中ではたしかに先ほどの話題からつながっている言葉は、お茶子ちゃんにも無事に意図が伝わったようだった。一瞬目をまるくして、
「え、あの口の悪い爆豪くんが」
 とお茶子ちゃんが驚いて見せる。
「うん。あ、でも別れたらめちゃくちゃ言うけど。でも、付き合ってるあいだは絶対、私が大事にしてる人の悪口言わない」
 これまで誰にも話したことがなかったけれど、それは私が爆豪くんのことをいい人だと思っている──尊敬しているところのひとつだった。
 普段から口が悪く粗野粗暴な爆豪くんだから何かと勘違いされやすいことではあるけれど、爆豪くんはあれできちんと自分の中の線引きができているひとだ。面と向かって私に暴言を吐くことはあっても、私が大切にしているひとや大事にしているもののことを悪しざまに言ったことはこれまでほとんどない。
 私の進路についてだって、なんだかんだ言いながらも「そんな道」と嘲り切り捨てることはしなかった。ヒーローを目指しそれ以外の道に見向きもしない爆豪くんならば、私の選んだ進路を邪道で、逃げた結果の取るに足らないものだと思ってもおかしくはないのに。
「そういうところがある、というか、そういう類の嫌な部分がないことを知ってるから、嫌なこと言われてもなんだかんだで許しちゃうんだよね」
 なんとなく気恥ずかしくてそんなふうに誤魔化すと、お茶子ちゃんはふくふくと笑う。
「そういうのって分かりにくいけど──でも、なんか爆豪くんっぽいね」
「でしょ。こう、分かりやすい親切はないんだけど、分かりにくくて後から嫌な気分になるような、そういうことは言わないししないでくれるよね。それを知ってるから、爆豪くんのことは信頼できるかな」
「そっかぁ」
 食事を終えたこともあって、お茶子ちゃんがしみじみとお茶をすすった。その微笑みの中にはどこか楽しげで満足そうなものが含まれていて、何となく、今の会話の流れからはそぐわないような表情を浮かべているように見える。
「お茶子ちゃん?」
 思わず首を傾げれば、お茶子ちゃんはえへへ、と頭をかいた。
「実は、友達同士の話聞いただけなのにのろけ話聞いた後の気分になってしまいました」
「ええ? それは違うでしょ」
「そうかなぁ」

 ★

 お茶子ちゃんと別れ、厄介ごとに巻き込まれることのないようさっさと爆豪くんのマンションに戻る。自分が借りていたマンションや職場の寮よりもずっとしっかりしたセキュリティを抜けて部屋に入ると、部屋に入った瞬間、思わず靴をはいたままで足を止めた。
 部屋の中に、気配がひとつ感じられたような気がした。
 ごくりと唾を呑み込む。
 ここ暫くの落ち着かない世間の様子を思えば、空き巣や暴漢のたぐいが出たとしても何もおかしいことはない。もちろん爆豪くんのマンションのようなセキュリティのしっかりしたマンションを狙って入る空き巣は少ないだろうが、だからこそ富裕層を狙っての犯行という線だってあり得ないわけではない。
 分不相応な部屋を借りているだけで、私はまったく富裕層なんてものではないのだけれども──しかしながら今はそんなことを考えていられるような状況ではない。
 今現在、この部屋を借りて管理を任されているのは私だ。もしも部屋の奥にいるであろう空き巣が、ここをプロヒーロー爆心地の住処と知っての侵入を果たしているというのならば、私は敵を鎮圧し、どうにかしてこの部屋の治安を守らねばならない。
 廊下の向こうからガタンと物音がする。
 立て続けに廊下の向こう、閉じられたドアの向こうで部屋の電気が点くのがドアのガラス越しに見えた。ひとまず、玄関に置かれていた靴ベラを手にとる。戦闘向きの「個性」ではない私だけれど、最低限の体術は高校時代に修得している。実戦から遠のいて数年という心許なさはあるものの、ここはどうにかなると信じるよりほかにない。
 靴を脱ぎ、くつべらを棍棒よろしく身体の前でかまえる。できるだけ音を立てないようすり足で廊下を進むと、やがて奥のリビングのドアの前までたどり着く。すう、と呼吸を整えてから、私は勢いよくドアを開けた。
「い、いざ尋常に──おおお、お縄につけっ!」
「アホか」
 ドアを開けるなり飛び掛かった私の渾身の一撃を、そこにいた盗人はいとも容易く受け止め、逆に私に反撃を仕掛ける。
 ──しかしそれが反撃と気付いたのはすべてが決着してからのことだった。気が付けば私の身体はくるりと宙で回転し、そのまま私はうつ伏せに床に落とされた。顎を床にしたたかに打ち付け、私は声にならない呻き声を上げる。直後、間髪を容れずに盗人が私の背中の上に馬乗りになり、私の手を背の上で捻り上げた。今度こそ、私ははっきり悲鳴を上げた。
 その悲鳴に、背上の人物が一喝する。
「うるっせえ! 雑魚が、自分の『個性』ガン無視した特攻しかけてんじゃねえ! 戦い方がズブの素人なんだよ、てめえは!」
「そ、その声とその暴言は……」
 何とか絞り出すように発して、私は涙目になって無理やり首をひねる。天井の照明から発された光を背負うようにして、この部屋の本来の主──爆豪くんが不機嫌そうに私を組敷いていた。

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