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 勤務を終えて更衣室にたどり着く。途中、廊下の窓から見えた外の風景は何とも寒々しく、この後屋外に出ていくのがまったく嫌になりそうな天気である。今年は近年まれにみる冷え込みが日本列島を襲っているそうで、まだ十二月だというのに早くも雪の降り出しそうな空の色をしていた。
 現在時刻は昼の十一時。夜勤明けに何かとたまっていた雑務を片づけていたら、すっかり太陽は高い位置まで上っていた。雑務をやっと片づけてようやく更衣室までたどり着くと、ロッカーに入れてあった鞄から携帯を取り出す。変な時間のためか、更衣室には私以外には誰もいない。着替えを取り出しながら、私は電話を掛けた。身体は熱っぽいのに、指先は妙に冷たくて感覚に乏しい。
 今日は非番のはずの爆豪くんは、ツーコールののち「あ?」と通話の第一声らしからぬ声で応答した。
「あー、もしもし、爆豪くん?」
 誰もいないことは分かっていても、なんとなく声をひそめて私は言う。周囲への配慮や遠慮もあるが、それ以上に今は少しでも大きな声を出すと喉が痛んで仕方がない。
「申し訳ないんだけど、今日の約束なかったことにしてもらっていい? 席のキャンセル代はちゃんと払うので……」
 一言喋るごとに喉を何かざらざらしたものが逆流していくような気がする。ずびっと洟をすすると、爆豪くんが電話の向こうで舌打ちをする音が聞こえた気がした。話しているあいだになんだか耳までぼんやりしてきたので、もしかしたら舌打ちの音は私の聞き間違いだったかもしれない。
「てめえ今どこだ」
「職場だよ。夜勤終わって、今から帰る……」
 鼻声で答えると、今度ははっきり舌打ちの音が聞こえた。
「二秒で帰って寝とけ。二度と電話してくんじゃねえぞ、電話かけてきたらまじでぶん殴んからな」
「ええ……」
 虫の居所が悪いのか、今日の爆豪くんはいつにもまして凶悪な言葉で私を脅すのだった。
 それきり電話が切れてしまったので、私はしばらくぼんやりしてからやっと着替えに取り掛かった。仕事中はぎりぎり頑張れていたものの、仕事が終わって緊張の糸が切れたためか、急速に頭がぼんやりとして働かなくなってきている気がする。半ば無意識に吐き出したため息は、恐ろしいほどに熱を持っていた。

 高校時代に身体が資本であると叩き込まれたためか、普段からそれなりに健康に気を配った生活をしている方だと思う。日常的な飲酒はしないし、喫煙もしない。勤務の関係でとてもではないが規則正しいとはいえない生活だが、それでもできる限りしっかり睡眠時間を確保することにもしている。
 必要以上に無理はせず、そのうえで公私ともにベストを尽くす。そういう基礎は高校時代に培った基本的な生活習慣のたまものだ。
 しかしここ数日急に冷え込んだことと、そんななかで野外での救援活動が多かったこと、ついでに夜勤が続き食生活と睡眠が若干おろそかになったせい──かどうかは定かではないものの、私は久しぶりに風邪らしい風邪を引いていた。
 あまりにも具合悪そうな顔をしていたらしく、職場で医師が「風邪だね」と診察してくれ、ついでに処方箋まで出してくれた。夜勤が終われば今日の残り半日と明日明後日は休みである。そのため気合で雑務を片づけてきたが、そこで元気は尽き果てた。
 夜に約束していた爆豪くんとのごはんもキャンセルし、私はへろへろになりながら帰路につく。普段は自転車通勤をしているが、今日ばかりは自転車を職場に放置してタクシーを拾った。そのくらい、なんだかもう限界だった。
 タクシーに揺られること数分、どうにかこうにか自宅に帰りつくと、ほとんど這うようにして部屋の中に上がった。昨晩家を出たときから調子が悪かったので、部屋の中は何とも雑然として散らかっている。が、今はそんなことに構っている場合ではなかった。
 とりあえず、ライフラインとなる食料のチェックのために冷蔵庫を開く。
「冷蔵庫……冷凍ごはんと玉子はある……」
 回らない思考を補うように、自分しかいない部屋で声出し確認をした。
 充実した食料とまでは言えずとも、これならば最悪どうにか飢え死にすることはない。水分は職場で持たされたスポーツ飲料がある。ひとまず、死ぬことはなさそうだった。
 冷蔵庫のチェックを終えると、そのまま部屋の奥まで進み、力尽きるようにベッドへと倒れこむ。布団はすっかり冷え切っていたけれど、それすらもどうでもいいことだった。コートだけ脱いで布団にもぐりこむと、寒さで歯ががちがち震えた。
「孤独だ……」
 頭から布団をかぶると、暗闇のうちにそんな本音がこぼれる。しかもその本音が思いがけず体調不良で弱った心に刺さってしまい、うっかり泣きそうになった。
 高校入学を期に実家を出てからというもの、考えてみれば病気らしい病気には一度もかかったことがない。ちょっとした頭痛や微熱くらいはあっても、大抵は薬を飲んで寝ていれば治ったので学校を休むほどのこともなかった。そもそも雄英高校での授業も専門学校での実習も、一日でも休むと途端に単位が危なくなったり授業についていくのが厳しくなるようなものだったから、ちょっとの体調不良は気にしないことにしていた。
 布団の中で膝を抱えるようにしてぎゅっとまるまり、私は長く深い溜息をつく。
「気のゆるみ、なのかなあ……」
 それは誰でもない自分自身への問いかけだった。
 ようやく仕事にも身体と頭が慣れてきて、少しだけ生活の中に余裕が生まれてきた頃だった。最近は職場の同期や先輩がたともうまくやれていると思う。本当に少しずつではあるけれど、ヒーローと看護師──その両方の責を担うものとして、だんだんと自分の在り方、やりようが見えてきたような、そんな気がしてきていた。
 それでも、今こうしてひとりで布団にくるまって熱にうかされ震えていると、心許ないような気持ちになって仕方がない。ここのところ少しずつ身に着け始めていた自信のようなものはぼろぼろと剥がれ落ち、残されるのはただ自分という人間のちっぽけさだけだ。
 寂しいし、不安になる。
 こんなとき、頼れる相手がすぐそばにいてくれないこと──こんなときに頼ろうと思える相手がすぐに頭に思い浮かばない自分というものへの心許なさに胸がぎゅっと押しつぶされるような気持ちになりながら、何かから逃げるようにぎゅっと目をつむった。
 そうしているうちに、いつのまにか私は気を失っていた。

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 夢も見ないほどにぐっすりと眠ったのは久しぶりだった。
「ん……」
 眠ったというよりは気を失ったというのがやはり正しいのだろう。起床してもいまいち気分はさっぱりせず、頭も体も鉛のようにずんと重い。眠りにつく前からうまく回らなかった頭は、寝起きということもあってさらに回転を鈍らせているようだった。
 声を出そうとして、うまく喉が開かないことに気付く。咳払いをして無理やり喉を開くと、自分自身の状況把握もかね、思考をひとつひとつ声に出していくことにした。
「あー……頭痛い……寝すぎ? いや寝る前から頭は痛かったか……薬飲んだはずなんだけど効いてないのかなぁ……」
 言いながら、なんとか腕の力だけで上体を起こした。
 と、身体を起こした拍子に何かがずるりと額から剥がれ、そのままベッドの上に音もなく落ちた。それを無造作に手に取り、まじまじと見つめる。部屋の中は薄暗く、いまいち自分が何を拾ったのかも判然としない。
「ん? 何これ、冷えピタ?」
 手の中でくてりとしてぬるくなったものは、間違いなく発熱時に額にはる冷えピタだった。
 しかしなんでこんなものが、私の額の上に乗っかっているのだろう。自分でこんなものを貼り付けた記憶はない。が、もしかしたら朦朧とした意識のなかで、何とかこれだけ貼ったのかもしれない。いや、でもそもそもこんなもの我が家に常備してなかったはずだが──
「独り言がうるせえんだよ」
「ヒャッ!?」
 自分しかいないと思っていた暗い部屋の中に、唐突に自分のものではない声が響いた。思わず悲鳴を上げると、ワンルームのドアの前に、マスクを装備した爆豪くんが壁に寄りかかるようにして立っていた。爆豪くんの背後には煌々と電気のつけられた廊下が見える。室内の薄暗さ──暗くても何となくのものの輪郭をとらえることができる程度の明るさは、どうやら廊下とワンルームを隔てるドアの向こうの電灯が光源だったらしい。
 しかし今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
 何故爆豪くんがここに。
 どうやって。仕事は。
 というかやっぱり、何故。
 何の目的で。いつから。
「えっ、な、ば──ごほっ」
 回らない頭に浮かんだ疑問の数々が頭と喉の間で渋滞を起こし、私はごほごほと勢いよく咳き込む。元からかすかすの声しか出ないくらいに腫れた喉では咳き込むのもつらく、はやく咳を止めたいと思う気持ちのせいでさらに咳き込む。
 そんな私に何を言うでもなく、爆豪くんはくいと口元のマスクを上げただけだった。なるほど、ヒーローとして風邪対策は万全ということらしい。
 ようやく咳がおさまったところで、私はひとまず、
「なんで爆豪くんがここに? 仕事は?」
 と最たる疑問を口にした。咳き込んでいる間に思い出したが、爆豪くんはいざというときのために私の部屋の合鍵を持っている。どうやってこの部屋に入ったかについては、その合鍵を使ったのだろうということで一応は解決だ。
 私の問いに、爆豪くんは面白くなさそうに眉根を寄せた。鼻から下はマスクで覆われているが、多分口元はへの字に曲がっているのだろうことは想像に難くない。
「んなもんとっくに終わったわ。何時だと思っとんだ」
 何ともぞんざいな口調で爆豪くんは答えた。
 枕元にあった携帯を確認すれば、すでに現在時刻は夜の十時を回っている。ついでに携帯のホーム画面には着信履歴がいくつも残っており、そのすべてが爆豪くんからだった。最後の着信は二時間前。大体爆豪くんの勤務が終わって一時間ほどというところだろうか。
「ガスガスの声で死にそうな電話かけてきやがって、そのうえこっちから掛けても出やしねえ。死んどんのかと思うだろ、普通」
「死んでると思われてたんだ……」
 たしかに昼間、爆豪くんに今日の夜の約束を断るための電話を入れたときには、すでに相当身体の調子が悪かった。爆豪くんはこれでなかなか面倒見がいいところがあるので、あの電話以降私の体調を多少気にかけてくれていてもおかしくはない。私が爆豪くんでも、やはり大丈夫なのかと気にかけるくらいはするだろう。一人暮らしの体調不良ほどつらいものもない。
 そして気にかけてくれた爆豪くんがわざわざ電話をくれたのに、気を失って爆睡していた私はまったく気付かなかった。連絡のつかない私の身を案じて様子を見に来てくれるというのも、昔の爆豪くんではありえなかったかもしれないが、それでもヒーロー三年目の爆豪くんならば十分にあり得ることだった。合鍵を任せている以上、有事の際には自分がどうにかしなければという意識が爆豪くんにはあったのかもしれない。
「安否確認ありがと」
 小さく咳き込みながら感謝をのべれば、爆豪くんも小さな舌打ちで返事を寄越した。
 と、爆豪くんがおもむろにこちらに歩いてきたかと思うと、ベッドサイドに置かれた私には覚えのないビニール袋をがさごそと探り始めた。その間に私は枕元に置いていた照明のリモコンを操作して電灯をつける。いつまでも廊下の明りだけを頼りにしていては何かと不便だ。
「熱」
 爆豪くんが、どう見ても買ったばかりの真新しい体温計をこちらに突き出した。
「はい。ていうかこれ、買ってきてくれたの?」
「どうせてめえの部屋に体温計なんてねえだろ」
「まあ、なかったけど……」
 図星をつかれ、私は控え目に肯定した。
 けして自分の体調管理をおろそかにしているわけではないのだが、一人暮らしをはじめてから今まで、体温計を必要とする場面に遭遇したことがなかったのだ。高校一年で寮に入るまでの短期間の一人暮らしでは風邪を引いたことはなかったし、寮生活のときには寮の備品である救急箱の中のものを使えばよかった。そうでなくても保健室に行けば体温計なんていくらでもあった。
 実家を出てから就職でひとり暮らしをするまでの間に、中途半端に寮生活を挟んでしまったことで、本当に自分一人だけの暮らしになるにあたって新たに買い求めなければならなかったはずのものをぼろぼろ取りこぼしたままここまで来てしまっていた。そのことを爆豪くんに見透かされていたことが、なんだか恥ずかしい。
「爆豪くんって、本当にいろいろよく気が付く人だね」
「てめえが気付かなさすぎんだよ。どこ見て生きてんだ」
「うっ……私視野、狭いのかなぁ……」
 自分と爆豪くんとではもともとの人間としての搭載スペックが違うことは分かっている。けれど日常生活の、こうした些細なタイミングでまでそのことを見せつけられるとさすがに落ち込むものがあった。特に今は体調不良でメンタルが弱っている。いつもなら普通に流せるところも、なんとなくずしんと心に重く感じられた。
 束の間、室内に沈黙が落ちる。しかしそれを気まずく思う間もなく、脇にはさんだ体温計が電子音を鳴らした。
「何度だ」
「はちどさんぶ……」
 体温計の表示が見えるように差し出すと、爆豪くんは露骨に顔をしかめた。
「飯食ってさっさともっかい寝ろ」
「はい」
「薬は」
「仕事帰りにもらってきてるのがある」
 体調不良の真っ只中、ふらふらになりながらもらいにいった薬である。本当は一刻も早く帰って横になりたかったところだったが、わざわざ病棟の医師に処方箋を書いてもらった手前厚意を無下にすることもできず、渋々調剤局まで出向いたものだった。そのときは薬なんてどうでもいいから早く帰らせてくれと思っていたが、今にして思えば薬をもらいに行っておいて本当によかった。そうでなければ今頃爆豪くんにさらに怒鳴り散らされていたに違いない。体調不良に爆豪くんの怒鳴り声は刺激が強すぎる。
 まとまらない思考でそんなことを考えていると、ふいに爆豪くんがくるりと踵を返した。
「……あれ、もう帰っちゃうの」
 ここにいても爆豪くんには得はないのだろうが、思わず尋ねずにはいられなかった。眠りにつく前の寂しさのようなものが、今もうっすらと尾を引いている。
 振り返った爆豪くんはぎんと目を怒らせてこちらを睨んだ。
「コンビニ! てめえのクソ部屋にゃ食えるもんがねえんだよ!」
「あ、はい、すみません」
 咄嗟に謝ると、爆豪くんはつまらなさそうに舌打ちをした。
「その間にさっさと着替えとけ」
 今度こそばたんと音を立てて玄関を出ていった爆豪くんだった。廊下に続く部屋のドアは開けっ放しになっていて、ベッドに座っていても玄関のドアが閉じてしまったのが見える。
 爆豪くんが出ていったあとのしんとした室内で、私はベッドから起き上がるために視線を足元へと下げる。そのとき、自分の着ている服が視界に入ったことで、ふいに気が付いた。
「あ、そうか。着替えとかしなきゃいけない私に、気を遣って出ていってくれたっていうのもあるのか……」
 ふらつく身体をなんとか引きずり、クローゼットを開く。そこから取り出したパジャマを携え、やはりふらふらと洗面所へと向かった。
 夜勤明けに帰宅してから、私はまだ着替えもしていなければ化粧も落としていない。まったく帰ってきたままの状態で布団に倒れこんでいた。そんな自分の病人ぶりを思い出し、私は力なく苦笑した。きっと駆け付けてくれた爆豪くんもびっくりしたに違いない。もしかしたら半ば本気で死んでいるかと疑われていたのかもしれない。
「やっぱり、迷惑かけてるなぁ」
 いつだったか爆豪くんに言われた「てめえからは迷惑しか掛けられてねえんだよ」という言葉が脳裏によみがえった。その時はそんなこともないでしょ、と笑っていたけれど、今にして思えばそれもまったくの間違いではないような気がする。
 爆豪くんが帰ってきたらちゃんとお礼を言おう。そして風邪が完治した暁には焼肉でもカニでもご馳走しよう──
 着替えをしてようやく少しだけさっぱりした頭で、私は先ほど出ていったばかりの爆豪くんに対し私ができる、最大限のお礼について考えた。

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