「正直、卒業してからだったら私よりも爆豪くんのが名前ちゃんと会ってるだろうし、それなのにわざわざ私に名前ちゃんの話するからには、爆豪くん自分では名前ちゃんに聞きにくい何かがあるんかなと思って、それで……なんか、余計なお世話だったら本当にごめんなんだけど……」
 指先をボブヘアーの中に突っ込んで呻きながら髪を掻きまわす様子は、高校時代のお茶子ちゃんとまったく変わるところがない。お茶子ちゃんの昔と変わらない優しさと、それから余計なことはしないようにという距離感の気遣いに、私の心の真ん中がじわりと、途方もなく熱くなった。うっかりすると泣いてしまいそうになるのを、必死で堪える。
 爆豪くんの優しさが分かりにくくあたたかいのと同じように、お茶子ちゃんの優しさはいつも控え目だ。それでいてふたりとも、たしかに救いの手を差し伸べてくれている。
 彼や彼女のように、私も誰かを救けたくて──それで、この道を選んだはずだった。ただヒーローになるだけでは足りない部分を埋めるため、誰かを救けたいそのために、私は今の道を自分で選んだはずだったのに。
 けれど今、私を救ってくれているのは、ヒーローとしてではない、友人としての爆豪くんと、友人としてのお茶子ちゃんだ。
 目先のことに気ばかり急いて、私は多分、このあたたかさを見失っている──見失っていた。
 すでにヒーローになって三年目の爆豪くんたちと、たった一か月あまりしか現場を知らない私。今すぐに爆豪くんたちに追いつくことができないなんて、そんなのは当たり前のことのはずなのに、追いついてない、追いつけない自分が情けなく、恥ずかしいのだと思っていた。
 ──自分の体面ばかり、ずっと気にしていた。
「ごめんね、お茶子ちゃん。それと色々気にかけてくれてありがとう。その、私のこともだし、爆豪くんのことも」
「いや、爆豪くんのことは全然気にかけてへんよ」
「ええ? そんなことないと思うけど……」
 茶化して笑うお茶子ちゃんに、自分がどれだけ余裕なくあくせくしていたか思い知らされたような気分になる。けれど不思議なもので、爆豪くんに対しては見せられない、見せたくないと思っていた自分の情けない一面も、今ここでお茶子ちゃんに対してならば見せられるような、そんな気がした。
 もちろんそれは爆豪くんがどうという問題ではない。あくまでも私の問題だ。私が勝手に爆豪くんに対して抱いている憧れとか劣等感とか、そういうものがないまぜになった持て余し気味の感情が、私が爆豪くんにこの情けない姿を見せてもいいかと思う気持ちの邪魔をする。
 けれど、今ここでお茶子ちゃんを相手になら、そういう見栄にも似た何かを感じず、素直にすべてを話せる。そんな気がした。
「実はさ、本当に情けない話なんだけど、ちょっとなかなか仕事に慣れないというか、自分の至らなさばかりが目について落ち込む日々というか……」
 テーブルの上に残されたおつまみとお酒に手を伸ばしながら、私はぼそぼそと少しずつ打ち明けることにした。
 専門を卒業すれば、自分もみんなのように当たり前に誰かの役に立てるものだと思い込んでいたこと。リカバリーガールの教え子として、これまで培ってきたものに少なからず自負があったこと。
 そうして胸に秘めていた自負や自信は、いざ現場に出てみればまったくといっていいほど何の役にも立たなかったこと。
「もちろんそれが自分の傲りだってのは分かってるんだけど、なんかその傲ってたことがもう恥ずかしいというか、余計みじめというかさ……」
「いやいやいや、そんなの一年目なんやし当たり前だよ! 私だって一年目のころなんかもう毎日全然だめだめだったし! いくらインターンとかで経験積んでるって言っても、やっぱプロの現場と学生のインターンじゃ全然違うし」
「それはそうなんだけど……だけどほら、私の場合ヒーロー資格もちの看護師ってことで、こう周囲の期待値もね……ガンガンに上がってた、みたいな……」
「ああ、そういう……それはたしかに」
 そうなのだ。ただ一年目であるだけならば、もしかしたら今の私でもよかったのかもしれない。
 けれど私はヒーローでもあって、看護師でもある。
 どちらも新米でしかなかったとしても、ふたつの資格を有しているというそれだけで、最初から相応の能力を期待されるのは当然のことだった。
 まして、今の職場にはヒーローの資格を持つ看護師はいない。ただ看護師がいて、ただヒーローがいる。それだけだ。私しか、その両方の資格を持ち、両方の教育を受けた人間はいない。
 ロールモデルのいない新人の私をどう扱い、どう育てるか。きっと現場の上司や先輩たちもまだ決めあぐねている。決めあぐねているから、私がどこまでできるのかを見定めようとしているのだ。
 何ができて、何ができなくて、何をさせるべきか、何もかもが曖昧。それでも日々事件は起こり、市民やヒーローは傷つく。結局のところその状況に応じてできることをするしかない。今の私にできることは、せいぜい足を引っ張らないことくらいだ。その足を引っ張らないという最低限のことすら、時々できないことがある。
「で、自分でもくよくよしてたところに現場でちょっとしたミスをしちゃって。それでお叱りを受けてるのを爆豪くんに見られたりして」
「うわぁ……それはお互いにちょっと気まずいね……」
「うん。しかも私、そのとき結構泣きそうで何とか堪えようとした顔してたの、多分爆豪くんに見られてたんだよね。だからなんというか、爆豪くんと顔を合わせるのが気まずくて」
 あのとき爆豪くんは何を思ったのだろうか。
 一瞬だけ交差した視線は、爆豪くんがそっぽを向いてしまったことですぐに解けてしまった。それから爆豪くんとは一度も顔を合わせていないし、向こうから連絡がくることもない。これまでだって基本的には私の方から連絡することがほとんどで、だから私が爆豪くんを遠ざけようと思えば、私たちの距離はあっという間に開いてしまう。
 雄英高校を卒業してからの一年で、私たちがすっかり疎遠になってしまっていたのと同じように、今もきっと、このまま私が爆豪くんに連絡をしなければなんだかんだと離れていってしまうのだろう。現場で顔を合わせることはあったとしても、それだけの仲になる。
 仕事のことで悩み、爆豪くんとのことで悩み。
 爆豪くんとのことだって、結局のところ根っこは仕事のことではある。だから私がはやく仕事ができるようにならなければいけないだけの話なのだが、それこそがもっとも難しい解決策なのだからどうしようもなかった。
「そっかぁ、名前ちゃんもいろいろ悩んでたんだなぁ」
 缶ビールの缶の表面を指先でつつとなぞり、お茶子ちゃんが悩まし気に溜息をついた。原因も解決策も、すべては私の中だけにある問題だ。話を聞いてもらうことで多少頭と心が整理されたり気持ちがすっきりすることはあっても、お茶子ちゃんの手によって解決できることはきっとひとつもない。これもまた、やっぱり誰のせいでもない自分の問題だ。そのことが分かっているから、私は乾いた笑いをチューハイで飲みこむ。
 話を聞いてくれる。ただそれだけで、私にとっては十分だ。
「まあ、悩みはするよね。私なんてみんなと違う進路だし、全然周りに相談なんてできないし」
「相談してよぉ、友達やーん!」
「ええ? でもみんな私よりずっと忙しいじゃん。爆豪くんだって、このところどんどん忙しそうになってくしさぁ」
「爆豪くんはそりゃ忙しそうだし、私も負けとれんとは思うけど」
 爆豪くんもお茶子ちゃんも、それに一緒に卒業したみんなも、今を時めく注目の若手ヒーローたちばかりだ。そんな彼らの貴重な時間を私なんかに費やしてほしいと思うのは、やっぱりどうしたって傲慢なんじゃないだろうかと思わずにはいられない。
 爆豪くんとはもう一年以上交友関係が続いていて、そういう気がかりみたいなものはだいぶ薄れている。それでも時々はそういうことを思ったりもする。特に今の、どうしても後ろ向きになってしまう自分では、爆豪くんに会いにくい。
「爆豪くんにはさ、そういうの相談しにくい?」
 ふと、お茶子ちゃんが尋ねた。テレビから聞こえる観覧席の笑い声を聞きながら、私はゆるく首を傾げた。
「……どうだろうね。分かんないな」
「分かんないの?」
 不思議そうな顔をするお茶子ちゃんに、私はうん、と頷いて見せた。
「だって今まで、爆豪くんに何かを相談ってしたことなかったもん」
 爆豪くんの前でだって、弱音を吐くことは今までもあった。高校在学中、リカバリーガールのもとでの単位取得のための勉強とヒーロー科の二足のわらじがつらかったときも、卒業前の口頭試問とヒーロー免許取得の試験勉強が重なった時も。あるいは専門学生時代の実習と課題に追われた日々でも。これまでだって爆豪くんには数限りなく情けない姿を見せ続けてきた。
 けれど爆豪くんが持っているのは常に正解だけだ。爆豪くんには無茶苦茶な部分もたくさんあるけれど、大抵の場合、彼は正しい。少なくとも私が知り合ってからの爆豪くんはそうだった。正しい場所に身を置く努力をしている人だ。
 そして多分、今の私は爆豪くんの正論を受けて平気でいられるほど、強いメンタルを持っていない。その正しさが正しいことを知っているからこそ、正しさを理解したうえで実践できたいないことが分かっているからこそ、正論を叩きつけられたらきっと、私はしょげてしまう。折れてしまう。
 そうなったら今度こそ、爆豪くんと対等ではいられなくなってしまう。
「弱音吐いたところで、多分正論で返されると思う。今までもそうだったし、そういう爆豪くんのことを私は尊敬してるから。でも──」
「それだけじゃしんどいときもあるよね」
 お茶子ちゃんの声はしずかで、優しくてあたたかかった。
 私はまた、うん、とゆっくり頷く。
 爆豪くんは何も悪くない。彼は自分が信じ、自分が実践している努力という名の正しさを、常にひとつの尺度として胸に持ち続けているだけだ。それは悪いことでもなければ、非難されるべきことでもない。まして、私がどうこう言えるようなものでもない。
 けれど、私は爆豪くんじゃない。爆豪くんが自らに課す重みと尺度を当たり前のように私にも求めてくれることは嬉しいことでも、必ずしもその求めに応えられるわけじゃない。応えられなかったとき、「しんどい」思いをするのは私だ。だから爆豪くんには話せなかった。
 爆豪くんには、私が思い描く強くてたくましくて優しい──爆豪くんと対等でいられる自分を見せていたいから。
 それがたとえ、爆豪くんが望んでいるわけではない、ただの独りよがりな思いでしかなかったとしても。
「爆豪くんが悪いわけじゃないんだけどね。私の問題。私が、爆豪くんの強さについていくだけのメンタリティを保ててないだけで」
「名前ちゃん──」
 お茶子ちゃんが私の手をそっととり──そして、おもむろにぎゅっと手を握った。
「よし、今夜は飲もう!」
「えっ」
 先ほどまでとは打って変わったきびきびとした声音に、私はすぐにはついていけずに困惑してお茶子ちゃんを見つめる。しかしお茶子ちゃんはそんな視線を意にも介さず、ぶんと力強く握ったままの私の手を振った。
「飲んで全部忘れちゃおう! 何もかも! 素晴らしいことに、私たち成人してるんだし!」
「お、おー……?」
 なんだかよく分からないまま、お茶子ちゃんの調子に合わせて返事をした。
 ここまではほとんど食べて喋っているだけの会だったので、お茶子ちゃんが買い出しに行ってきたお酒はまだまだたんまりと残っている。
「まあ、たまにはこういうことがあってもいっか……?」
「いいよいいよ、そういえば私、名前ちゃんとはお酒飲んだことなかったね」
「言われてみればたしかに」
 思えば社会人になってからというもの、実家帰省時に両親の晩酌に付き合うくらいでまともに友達とお酒を飲んだこともない。爆豪くんと外で食事をするときにも、大抵は運転のためソフトドリンクしか飲まない爆豪くんに合わせて私もお酒は飲まないことにしていた。
 酔って気分転換をするのは、大人の特権のひとつだ。それにお茶子ちゃんのように気心知れた友人が付き合ってくれるというのであれば、それに乗っかってみるのも悪くはない気がした。
「よぉーし、今夜は飲むぞーっ!」
「おー!」
 改めて気合を入れなおし、私たちは本日二度目の乾杯をした。

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