翌週の金曜の夜、お茶子ちゃんが我が家へとやってきた。その日は定時上りが決まっている日だったので、部屋の片づけなどもろもろ済ませておく。その間に勤務を終わらせてからうちに来るお茶子ちゃんが買い出しを済ませてくる、という手はずになっていた。
 何を食べるかも何も決めていなかったけれど、まあ何とかなるよね、というゆるさで当日になってしまったのは、お茶子ちゃんのゆるっとした雰囲気らしくもあったし、三年間ともに寮で生活したなかで培われた互いへの信頼感のなせる業でもある。
 十九時を少し回ったころ、インターホンが鳴った。ディスプレイにうつるお茶子ちゃんはマンションのエントランスを背景に、すでに夏の装いだ。私のよく知るにこにこ天真爛漫な笑顔をインターホンのカメラに向けている。
「玄関の鍵あいてるからそのまま入ってきてー」
「はーい」
 ぷつんと切れたカメラを横目に、玄関周りと水回りの最終チェックをする。このマンションに住み始めてすでに三年目だけれど、その間にこの部屋に上がったのは実家の両親と爆豪くんくらいのものだ。爆豪くんが部屋の汚さに文句を言ったことはないのでまず大丈夫だとは思うけれど、それでも女の子の友達を招くとなると緊張する。男の人と女の子ではチェックする部分も厳しさも何かと違うだろう。
 最終チェックを済ませていると、ほどなくして「お邪魔しまーす」という声とともに玄関の扉が開いた。両手にしっかりエコバッグを提げたお茶子ちゃんが、ひょこりと顔を出す。
「いらっしゃい、重くなかった?」 
「ん、大丈夫やよ。途中から『個性』使ったし! とりあえず色々買い込んできたんだけど、名前ちゃんちって鍋あるよね?」
「あるよー。土鍋もガスコンロもある。ホットプレートとかもあるから一通りのことはやれるかな」
「やったー! じゃあ鍋やろう、鍋。ていうか名前ちゃんちおしゃれー!」
 うきうきと買い出してきた荷物を開封するお茶子ちゃんは、部屋に入るなりさっそく食事の準備に取り掛かる。時間も時間だし、仕事のあとでお腹もすいているのだろう。
「鍋はあるけど──もう初夏だよ?」
 キッチン下から鍋用具一式を取り出し、私はお茶子ちゃんに声を掛ける。準備も手軽なので鍋をすること自体はかまわないのだが、季節外れなのは否めない。
 そんな私の疑問へのお茶子ちゃんの答えはいたってシンプルだった。
「だってクーラーつけて鍋なんて大人って感じしない? なんたる無駄、なんたる贅沢……私最初にクーラーつけて鍋食べたときとエアコン聞いた部屋でアイス食べたとき、あまりのセレブさに気失いかけた」
「お茶子ちゃんらしいねえ」
「ねっ、だから早く食べよう! あと鍋におもち入れていい?」
「いいよー」
 普段は静かな部屋が、お茶子ちゃんを迎えたことで途端に華やかな空気になる。高校生のころはずっと近くにいたはずなのに、なんだか同性の友達のきらきらした雰囲気にあてられるようで心の底の方が妙にむずむずとした心地になる。
 専門学校時代のクラスメイトたちとも、最終的には普通に付き合えるだけの距離感まで至ったものの、彼女たちとはやはり最後まで薄い膜を一枚隔てたような、何とも言いようのない隔たりがあった。それは私の感じ方だけの問題ではきっとなく、目には見えなくても歴然とそこにあった何らかの「差異」だ。
 今お茶子ちゃんに感じているのは、そういう隔たりのない屈託ない距離感だ。彼女がすでに注目を集めるヒーローだとか、自分がまだまだ未熟な新米看護師だということだとか、そんな肩書めいたものはどこかに吹き飛んで行ってしまったような、そんな空気。
 ただ私とお茶子ちゃんである、それだけの空気。こういう空気を感じること自体、もう随分と久しぶりだった。

 ★

 お茶子ちゃんの言うところの「クーラーつけて鍋」をたっぷりと満喫し、のんびりとテレビを眺めながら缶チューハイをちびちび飲む。お茶子ちゃんもすっかりリラックスした様子で、食事の前に私の貸したジャージでソファーにくったりとくつろいでいる。
 こういうのっていいなあ、とお茶子ちゃんのその様子を眺めながらぼんやり思った。爆豪くんの前でも大概くつろいでいる私ではあるけれど、やはり女の子相手となるとそのくつろぐレベルがさらに一段上がるような気がする。
「いやー、食べましたなぁ……」
 満足そうにおなかをさするお茶子ちゃんの、本当によく食べていた様を思い出し、思わず私は笑いだしそうになる。
「お茶子ちゃん相変わらずよく食べるよね。見てて気持ちいいよ」
「働き出してからは本当、食べられるときに食べておかないとって思って食べ過ぎちゃうんだよね」
「たしかに身体が資本だもんねえ」
 そういえば爆豪くんもよく食べるな、と頭の片隅で思い出す。彼の場合は男の人だからということもあってあまり気にしていなかったけれど、たしかにヒーロー業をしていたら食べられるときにしっかり食べるというのは基本中の基本だろう。
 今はストレスのためか食欲減退気味の私ではあるものの、本来ならば私もよく食べよく眠りよく働くという習慣をつくっていかなくてはならないのだと思う。
「そうだよね、やっぱりちゃんと食べないとだ」
「うん。でも今は本当は夏に向けてダイエット中なんだけどね」
「ええ? お茶子ちゃんダイエットしなくていいよ、そのままで可愛いもん」
 社交辞令ではなく本心からそう言うも、ソファーの上のお茶子ちゃんはむんと眉間にしわをつくった。
「だって爆豪くんとかさ、顔合わせるたびに丸顔って呼ぶ……私のヒーロー名知らんのかな……」
「爆豪くんかぁ……」
 流れで飛び出した名前に、私はやや声のトーンを落とし呟いた。
 爆豪くんの暴言に関しては、はっきり言って気にするだけ時間の無駄でしかない。お茶子ちゃんも高校三年間でそのことはよく分かっているはずなので、だから多分本心から気にしているというわけではないのだろうと思う。そこの部分については私は何の心配もしていない。ただ、爆豪くんという名前が出ることそのものについて、今の私はどうにも神経質になっていた。
 喧嘩をしたわけでもなければ、爆豪くんに何らかの非があるわけでもない。今もしも顔を合わせたとしても、爆豪くんはきっといつもと変わりない態度で私に接するのだろう。そのくらい、爆豪くんにとっては私の醜態を見るなんてことは学生時代の焼き直しのような、大したことではないことなのだと思う。
 それでも、爆豪くんに情けないところを見られたという事実は私にとって、「そういうこともある」と割り切るにはやや重たいことなのだ。自分の不甲斐無さはよく分かっていて、もっと頑張るしかないのだということも分かっていて──
 それでも私は、爆豪くんにだけはダメなところを見られたくなかった。
 少しでも早く爆豪くんに追いつきたいと──高校時代のように爆豪くんと、お茶子ちゃんやほかのみんなと同じ場所で、同じように世界を見ていたいと、その思いでやっと就職までこぎつけたのだ。
 爆豪くんに醜態を見られたのは、その思いを挫かれるようなものだった。
 先ほどまでの楽しくゆるんでいた気持ちが、見る間にしゅるしゅると萎み落ち込んでいく。手にしていたチューハイ入りのグラスをテーブルに戻し溜息をつくと、おもむろにお茶子ちゃんがソファーから下り私の隣にやってきてしゃがみこんだ。
「あのね、名前ちゃん」
「は、はい」
「こういうの、私いろいろと隠しながら話するの苦手だから、最初に全部ぶっちゃけてしまうんだけども」
 脈絡なく不穏な切り出し方をされ、私はごくりと息をのむ。急にお茶子ちゃんが真面目な顔をするものだから、うっかりほろ酔い気分だったのも醒め、ついでに今まさに気分が落ち込んでいこうとしていたことさえも私の頭からはすっぽりと抜け落ちた。
「何なりと……!」
 固い声で返事をする。お茶子ちゃんは難しい顔をして、それから私の隣にしゃがんだまま、ずいっとこちらに身を乗り出した。
「この間急に名前ちゃんに電話して、それで今日こうして一緒に鍋を食べているのは、もちろん私が名前ちゃんと久しぶりにごはん食べてお話したかったとか、名前ちゃんの就職のお祝いしたり近況聞きたかったっていうのもあるんだけど、その──爆豪くんが」
「爆豪くんが?」
「ちょっと、名前ちゃんのことを気にしてる感じで」
 思ってもみなかったお茶子ちゃんの言葉に、私は驚いたりするより先に、単純に意味が分からず首を傾げた。
 爆豪くんが私のことを気にしている?
 あの爆豪くんが?
「気にしてる、とは」
 一体どういう意味での気にしているなのだろうか。単純に理解ができず、私はさらに首を傾げる。
 そもそも爆豪くんは基本的に他人に対してそこまで興味がない。絶対的な指標を己の中に持っている人だから、自分と自分以外の他人、くらいの大雑把な仕分けの仕方が爆豪くんの根底にはある。私は爆豪くんの友人ではあるけれど、それは爆豪くんにとっては、ぎりぎり名前がついたモブくらいの意味でしかない。
 だから仮に爆豪くんが他人興味を持ったところで、その興味の対象に対して積極的に自ら相手に関わっていこうとするタイプではないはずだ。人付き合いもけしてうまい方ではない。
 こうしてお茶子ちゃんから「爆豪くんが気にしている」と言われたところで、だから私はいまいちぴんとこないとしか言いようがないのだった。爆豪くんにとっての私──他人を気にするというその言葉と、私が知る爆豪くんの間には、つながりのようなものが感じられない。それが正直な私の感想だった。
「いや、名前ちゃんが不思議がるのも分かるんだけどね」
 そう前置きをして、お茶子ちゃんは少し悩むように視線をさまよわせた。何からどう話すべきか迷っているのだろう。開けたばかりの缶ビールにひと口だけ口をつけると、お酒で勢いをつけたかのようにお茶子ちゃんは「よし」と小さく呟いた。
「この間、デパートでの立てこもり事件あったやん?」
「え? 立てこもり──ああ、うん。あってね。ちょっと前に」
 脈絡のない話題転換に一瞬リアクションが遅れたが、それがすぐに最近あったもっとも大きな事件の話だと理解した。
 お茶子ちゃんが言う事件とは、休日の真昼間にオープンしたばかりのデパートで起きた立てこもり事件のことだった。犯人は単独犯だったものの厄介な「個性」を有しており、デパートのワンフロアの半分ほどもあるゲームセンターで、そのゲームセンター内にいた客を閉じ込めたままその場を占拠・籠城したのだ。
 結局人質が解放されたのはまるまる三時間も経ってからだったが、幸いにして怪我人や負傷者はなく、また犯人も怪我一つしていない状態で無事に捕縛され逮捕に至った。
 私はその日は休日だったので事の次第は自室のテレビで中継を見ていただけだったものの、もしも勤務日だったら出動していた可能性もある。最終的な被害こそなくても、そのくらい緊迫した現場だった。
「うちの事務所、そのデパートのすぐ近くで、そんで爆豪くんとたまたま現地で一緒になって──、それで仕事が全部終わったあとにちょっと話もしたんだけど。そのときね、爆豪くんに最近名前ちゃんと会ったかって、急に聞かれて」
「ええ? 爆豪くんに?」
「そう。で、最近はほとんど会えてないよって言ったら、じゃあいいって言って、そんで話は終わったんだけど……でも、それって爆豪くん的には名前ちゃんの安否を気にしてるんじゃないかなーと」
 そう思って。そこで一度言葉を切って、お茶子ちゃんはこちらを窺うように視線を寄越した。私はどう返事をしたらいいのか分からず、その視線から逃げるように目をそらす。
 デパートの立てこもり事件があったのは、爆豪くんと最後に現場で顔を合わせた数日後のことだったはずだ。気分がひどく落ち込んでいたから、そのことはよく覚えている。テレビの中継映像にはきびきびと働くヒーローの姿がはっきりと映っていて、それでまた私は性懲りもなくへこんだりしていたのだった。その時はお茶子ちゃんや爆豪くんの姿までは確認していなかったけれど、サイドキックとして画面の外側できっちり自分たちの仕事をしていたに違いない。
 そして私の知らないところできっちり自分の仕事をした爆豪くんが、お茶子ちゃんに私の話をしていたという。あの爆豪くんが。その場にいない人間の噂話など、まったく興味がないであろう、あの爆豪くんが。
「まあ、そうだね……爆豪くんならその程度でも一応『気にかけてる』の範疇と言えなくもないけど……」
 というよりこれでもしも私の話だと聞かされていなかったとしたら、私だって間違いなく爆豪くんが誰か特定の人物の話をするなんて気にかけているとしか思えない、と思っただろう。そのくらい爆豪くんは他人の話をしない。こちらから話を振れば二言三言くらいは返してくれても、爆豪くんの方からそういう話題を持ち出すなど滅多にないことなのだ。
 お茶子ちゃんもそのことを分かっている。だからこそこうして忙しい日々の合間を縫って、私に会いに来てくれたのだろう。

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