年度が変わって春。無事に看護師の国家試験を突破し、私は晴れてヒーロー資格を持った看護師として前途洋々、意気軒高な日々を過ごしてる──などということは当然ながらなく、私は日々追われるようにしてへろへろになりながら毎日を過ごしていた。
 私が就職したのは専門学生時代の住まいからそう離れていない、とある大学病院である。そこは地域の中ではもっともヒーローと連携した救助救援活動に力を入れており、リカバリーガールが定期的に慰問におとずれている古巣でもある。
 ヒーロー資格保有看護師の採用枠を設けているのも近隣ではこの病院だけであり、半ば消去法ではあったものの、私が目指すべきヒーロー像を叶えるためにはもっとも適している病院といえた。
 四月いっぱいを新人研修にあてた後は、新人看護師たちはそれぞれの診療科に配属されていく。私の場合は当然ながら緊急出動を主とした救急医療室に配属になり、さらに一か月の研修を経てから実践に入る──のだが。
「で、何を分かりやすくしょぼくれてんだい」
 慰問のため病院に顔を出していたリカバリーガールとともに、仕事終わりのコーヒータイムとしゃれこんでいる私だが、今まさにリカバリーガールに指摘されたとおり、恐らく私の顔には覇気のかけらもない。
 病院内に併設されたカフェテラスも、夕方を過ぎたこの時間にはほとんど人の気配はない。おかげで周囲を憚ることもなく、私は深々と溜息をついた。
「いやー、自分の何もできなさにさすがに落ち込むといいますか……ヒーロー科で三年、専門で二年も学んだのにこのザマという事実に打ちのめされているといいますか……」
 吐き出した言葉には嘘偽りはひとつもない。私が落ち込んでいるのは正真正銘、己の使えなさに辟易としているためだった。
「誰も新人のあんたに即戦力なんか期待なんてしてないよ」
「それは私が普通の新人だったらの場合じゃないですか」
 リカバリーガールの慰めも、今の私には泣き言を言いたくなるだけだ。
 そも、私はただの新卒看護師ではない。ただ看護師資格を持っているだけではない、ヒーロー資格を持った看護師だ。看護師の資格をとることが容易いとは思わないが、ヒーローの資格をとることはさらに難しく狭き門だった。ふたつの資格を備えた人材となると、全国的にもけして多くはない。リカバリーガールの教え子だという評判もあって、私は鳴り物入りの新人も同然だった。
 しかしながら、資格をふたつ持っているということがそのまま私の能力の高さをあらわすわけではない。求められるのは資格の証明書ではなく、その資格を有していると断言するのにふさわしい「経験」だ。
 ヒーローとしても看護師としても、私は普通の新卒程度の能力しか持ち合わせてはいない。端から即戦力となりうる優秀な人材を期待していた先輩たちが、私の凡庸さにがっかりするのも、周囲の期待に応えられない自分に私ががっかりするのも、そのどちらも仕方がないことだった。
「頑張ってはいるんですよ? 勉強だってしてる……でも、やっぱり経験を積んでいくしかないことだってあるわけで……」
 今にして思えば、学生時代の私をリカバリーガールがどんどん現場に連れ出しその場で色々なことを私に教えてくれていたことが、どれほど貴重な勉強の機会だったか、痛いほど実感できる。あの時はあの時で必死だったものの、今となってはもっともっと学ぶことができたのではないかと思わずにはいられない。
「まあ、最初はだれでも落ち込むもんさね」
「リカバリーガールもそうでした……?」
「そりゃあそうだよ。私のときなんか今ほど『個性』やヒーローってもんに理解もなかったからね」
「そうですよね、私も頑張らないといけないんだけど……」
 自分を励まそうと試みても、だからといっていきなり立ち直れるわけでもない。そんなに簡単に立ち直ることができるのなら、今こうしてリカバリーガールの前で情けなく泣き言を連ねたりはしていない。
 ふと視線を向ければ、昼間よりもいくらか照明を落とした院内を、スタッフたちが忙しなく行きかう姿が目に入る。誰もかれもがしっかり自分の職務をまっとうし周囲に貢献している立派な人たちに見えて、なおさら自分がみじめに感じられる。
「……ちょっとは気分転換した方がいいね。最近は爆豪やほかの友達には会ってんのかい?」
「まあ、ちょこちょこ……」
 答えながら、私はやや口ごもる。
 最後に爆豪くんと顔を合わせたのは半月前のことだ。期間としてはそう昔のことでもない。しかし顔を合わせた場所は緊急出動の先の現地であり、しかも悪いことに私はそこで大きなポカをやらかしていた。
 幸いにしてそのポカは負傷者が増える類のものではなく、どちらかといえば私が勝手にちょっとした怪我をしただけのことなのだが、それでもがっつり現場担当に叱られている姿を見られてしまい、それで何となく爆豪くんを避けてしまっているのだった。すでにヒーロー三年目の爆豪くんの前で情けない姿を見られたのは、我ながら地味にショックだった。
「でもどのみち爆豪くんだけじゃなく、近場の友達とは現場で顔を合わせますから」
「そんなのは気分転換のうちには入らないじゃないか」
「それでも、顔を合わせたことには変わりないですもん」
 それに今爆豪くんやほかの友達と顔を合わせても、楽しく時間を過ごすことができるとは到底思えない。今はとにかく仕事で少しでも足を引っ張らないようになることが、私にとっての最大の願いであり現状を打破する唯一の方法だった。

 そんなある日のこと。日勤を終えて部屋へとたどり着くと、玄関のドアを閉じたのとほとんど同時に鞄の中の携帯が振動を伝えた。てっきりDMか通知だろうと無視していたが、振動はいつまでも止むことなく、断続的に私を呼び続ける。不思議に思ってようやく鞄から携帯を取り出し確認すると、そこには思ってもみなかった人物からの着信が表示されていた。
「も、もしもし!」
 慌てて電話をとると、
「名前ちゃん久しぶりー! 元気?」
 すぐに朗らかな可愛らしい声が私に呼びかける。
「お茶子ちゃん! 久しぶりー!」
 電話の主は高校時代一番の仲良しだった女の子、麗日お茶子ちゃんだった。
 お茶子ちゃんは今、都内のとある事務所でサイドキックとして働いている。彼女もまた高校時代のインターンの頃からすでに顔と名前が知られていたタイプだったので、卒業後もヒーローとしてのキャリアが軌道に乗るのは早かった。少なくとも、私の目にはそう見えていた。
「元気してた? 名前ちゃんたしか今年就職だったよね」
 電話の向こうのお茶子ちゃんの声は弾むように明るい。くたくたになった身体をひとまずソファーに沈め、私はあはは、と乾いた笑いで返事をした。
「それにしても、お茶子ちゃんどうしたの? 何か急ぎの用事だった?」
 お茶子ちゃんとこうして個人的に連絡をとるのは随分久しぶりのことだった。そうでなくても大抵の連絡ならばメッセージひとつで事足りてしまうだろう。わざわざ電話がかかってくるなんて、何かあったのかと思わずにはいられない。
 今度はお茶子ちゃんが乾いた笑いを返してくる。
「いやー、えへへ。特にこれという用事はないんだけど!」
「あ、そうなの?」
「いやー、まあ何もないというわけではなく……もしかしたら近々実家の方に戻るかもしれんというかごにょごにょ」
「えっ、お茶子ちゃん実家帰っちゃうの!?」
「あ、いやもしかしたら! もしかしたらの話! 全然決定とか具体的な話とかではない!」
「そうなんだ……よかった……」
 よかったというのが正しいのかは分からないが、勤務後の疲れた脳みそでは発する言葉を吟味する能力も乏しい。思ったことをそのまま口にして、私はほっと息を吐いた。
「えっと。うん。それでというか、とにかくそういうことだから、名前ちゃんの就職のお祝いもかねて久しぶりに一緒にごはんでもどうかなと思って誘ってみたんやけど……」
 しどろもどろになったまま、お茶子ちゃんが言葉を繋いだ。
 けれど。
「あ──」
 すぐさま返事をしようとして、しかし私は返答に窮した。
 自分の今の状態で、果たしてお茶子ちゃんと楽しく食事などできるのだろうか。自分のことすらままならない状態で、お茶子ちゃんに気を遣わせずに一緒に時間を過ごすことができるだろうか。
 久しぶりの友達との会話を、泣き言や愚痴に塗れずにこやかに交わすことができるだろうか。
 その問いへの返事はわざわざ考えるまでもないことだ。
 正直に言って、そんな自信はまったくなかった。
「ごめん、お茶子ちゃん、今ちょっと色々立て込んでるというか……」
 申し訳ないけれどこのお誘いは断ろう。そう思って口を開いた私の言葉を遮るように、電話の向こうのお茶子ちゃんが待った! と声を上げる。
「ちょっとだけ! ちょっとだけでいいんで! 何なら名前ちゃんちとか私んちとか、そんなんでちょこっととかでもいいし!」
「お、お茶子ちゃん……?」
 思いがけず食い下がられ、私は思わず目を丸くした。
 高校時代からいつも優しく明るいお茶子ちゃんだ。そのお茶子ちゃんがこんなふうに強引に話を進めようとするのは、長い付き合いの中でもこれがはじめてのことだった。たしかにお茶子ちゃんは芯の強い女の子ではあるけれど、彼女は基本的にはその手の強引さとは無縁の子だ。人の話を遮ってまで何かを言うことは少ない。
 そのお茶子ちゃんが、どういうわけか必死に私を誘っている。
「わ、わかった、……大丈夫だよ。一緒にごはん食べよう」
 半ば押されるようにして頷けば、
「本当!? よかったぁ……」
 と顔の見えない電話の向こうのお茶子ちゃんが、あからさまにほっと顔を綻ばせたのが分かった。そのあまりにも分かりやすすぎる声音の変化に、申し訳ないけれどちょっとだけおかしくなってしまう。お茶子ちゃんは変わらない。たとえヒーローになっても。
 此度のお誘いに関しては、一体何がそこまで彼女を突き動かしているのかは甚だ疑問でしかない。けれどもしも本当に実家に帰ることになってしまうというのならば、多少無理をしてでも友達と会っておきたいお茶子ちゃんの気持ちは分からないでもない。
 私も別にお茶子ちゃんに会いたくないわけではないし、こういうタイミングでさえなければ寧ろこちらから会いに行きたいくらいだった。
 ともあれ。
「来月いっぱいまでは私、平日の昼間しか仕事ないんだ。だから土日とかなら大丈夫」
 そう伝えると、お茶子ちゃんはわかった、と笑う。
「私も明日来月の勤務出るはずだから、そしたら予定合わせよう!」
「了解だよ」
「それじゃあまた連絡するね!」
 本当に用件はそれだけだったらしい。通話の切れた電話を、私はぼんやりと眺める。
 お茶子ちゃんからの連絡もお誘いも嬉しい。ヒーローとして多忙な日々を過ごすみんなにこちらから声を掛けるのは何となく憚られるものがあって、卒業してからというもの、私は爆豪くん以外のクラスメイトたちとはすっかり疎遠になっている。
 理由がどうあれ、これでリカバリーガールの言うところの気分転換になればいい。今の私にそんなことをしているだけの余裕があるのかは別としても、もう約束してしまったことだ。
 思いがけず掌を差し出されたような気分で、私はじっと携帯電話を見つめる。
 しかしそれもほんの束の間のことだった。ソファーにくったりと沈んだ私のお腹が、ぐうと声高に主張する。ここのところはあんまり食欲もなかったけれど、どうやらお茶子ちゃんの明るい声を聞いたことで久しぶりに胃腸がやる気を出したようだった。
「冷蔵庫、なんかあったっけ……」
 這うようにキッチンへと向かい、誰にともなく呟く。呟いた声に返事をする者がいるはずもなく、私の大きな独り言はしんとした部屋の中にあっさり散って消えた。

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