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挿話・才あるものの劣等、
あるいはいつかの月夜、
向日葵の見える窓辺

「要するに、僕へのあてつけということか?」
 長々と話をさせたわりには、ファウストの反応はそっけなかった。なんとなく鼻白み、グラスをおざなりに傾ける。ファウストがついでくれた酒はとうに枯れ、自分の手酌でついだ二杯目だった。
 窓の外にはしんしんと夜が積もっている。
 ファウストと腹を割って話すのは、随分久しぶりのことだった。夜更けの魔法舎の中庭で、魔法舎を去ろうとする彼を引き止めた日以来だろうか。
 過去の話をし、アレクの話をした。その流れでファウストに「どうして彼女を弟子にしたんだ」と聞かれたので、それに答えたのだ。現在は南の国と中央の国を行ったり来たりしている彼女は何度か魔法舎にも顔を出しており、引きこもりのファウストも顔を合わせたことがあるようだった。
 どんな話をしたのだろうかと、ふたりの弟子の邂逅を想像し、不思議な気分になる。案外ウマが合うかもしれない。ファウストとナマエは時折、そっくりなことを言うのだ。
 とはいえ、ファウストが彼女に対して好意的ではないことも、そも俺がふたり目の弟子をとったことを良く思っていないのだろうことも、今しがたの彼の言葉から容易に想像がついた。わざとらしく溜息をついてから、俺はうっすらと笑った。
「ええ? 今の俺の話を聞いていてどうしてそんな卑屈な解釈になるの?」
「あてつけ以外に受け取りようがないだろ。僕とは違って従順で、あなたのことを一番に考えて、あなたに生涯を捧げたいと願っている愛弟子ができたって話なんだから」
「そういうつもりじゃなかったんだけどな」
 というより、聞かれたことを話しただけだった。それなのにあてつけだなんだと言いがかりをつけられても困る。
 どうしたものかと、思案する。すると何を思ったのか、ファウストはグラスに残っていた酒を大きく呷り、ぽつりと呟いた。
「……彼女にはもう話したのか」
 そこで何をと聞くほど、俺も野暮ではなかった。それが俺の命が残りわずかであること、弟子であるナマエにそのことを伝えているのかどうかを問うているのだということは、わざわざ聞き返さずとも明らかだった。
「まだだよ」
 笑みを崩さず、答える。ファウストの眉が上がった。
「何故」
「だって、二つ目の『約束』があるからね。口では何と約束していたって、本心で覚悟が決まっているとは限らないだろ? それなのにいきなりもうじき俺は死ぬよ、なんて突き付けるのは、あまりにも慈悲がないじゃないか」
「あなたに慈悲なんてあったのか」
「あるよ。だって俺は南の国の優しいフィガロ先生だからね。若い子たちが俺に向ける眼差しを見ていたら分かるだろ?」
「猫をかぶるのが病的にうまいということがか? それとも人を欺くのが好きなのだということが?」
「うわ、辛辣……」
 どうやら四百年会わないうちに、昔の可愛らしさやいたいけさはすっかり消え去ってしまったらしい。ファウストの容赦ない言葉に苦笑した。
 ふと、窓の外へと視線を転じる。ランタンの光を写した窓の向こうには、暗闇に沈んだひまわり畑がどこまでも広がっている。そういえば彼女がうちにやってきてから、診療所に花が絶えたことはない。夏になるたび一体どこでもらってくるのか、毎年嬉しそうな顔をしてひまわりを飾っていたことを思い出す。
 二百年も一緒にいると、日常ばかりがいたずらに積み重なっていく。日々の中に劇的な出来事など、ほんのひと握りすらもない。ファウストと俺の師弟生活の方が異常だったのだろう。ファウストと過ごした時のほとんどが慌ただしい時間だったのに対して、ナマエとの師弟生活には日常ばかりが増えていく。
 だからといって、ナマエとの生活の中で俺の孤独が薄らいだのかと言われれば、けしてそういうわけでもない。もちろん、孤独のような虚無のような、質感のないうつろな感情が胸に去来する日はたしかに減ったが。
「そもそもさ、彼女は別に俺を一番に考えてなんかいないよ。あの子がかわいいのは徹頭徹尾自分自身さ」
 笑いに乗せてそう嘯けば、ファウストがむっと眉根を寄せた。
「だけど、」
「君の目にそう見えるのも分かるけどね。多分、本人もそう思ってるんだろう。俺のことを一番に考えている、って。そう思い込んでるんだ。自己暗示とでもいうのかな。そうしないと、自分の足だけで立っていられないような弱い生き物なんだよ。まあ、そういうところが可愛くて手元に置いているんだけど」
「悪趣味だな」
「これだけ永く生きているとね。ただ綺麗なだけのものや愛らしいだけのものにはもう飽きちゃっているんだよ」
 言いながら、俺は二百年前の夕方のことを思い出す。うちの玄関の前で力尽きていた、痩せ細った哀れな魔女。身にまとう衣服は襤褸と成り果て、俺が救わなければきっとあのまま石になっていたに違いない。
 俺と同じ姓を持つ天涯孤独の魔女。ファウストと同年代というわりに、彼女は随分幼く見えた。いつも何かを怖がっている。誰かの死を、誰かの生を、彼女はいつでも怖がっていた。俺に見限られることも。
「別にあの子には俺じゃなくたってよかったんだ。強くて、庇護の下に入れて、ついでに魔法を教えてくれる存在なら誰だってよかった。それがオズでもよかったし、スノウ様でもよかった。もしかしたら君でもよかったのかもしれない。だけど彼女はたまたま俺の居場所を知っていて、だから彼女は俺を選んだ。選んだ気になった。誰だってよかったんだ。『フィガロ様』じゃなくたって」
「……それでも彼女があなたを選んだことに代わりはないだろ。それにあなたは、彼女を選んだ。受け容れたじゃないか」
 ファウストの言い分ももっともだ。たしかに俺はあの子を受け容れた。五年の試用期間を経て、正式に弟子いりさせた。それは事実だ。
 けれど、それだけが事実ではない。
「時々、アレクさえいなければと思うことがあったよ」
 脈絡のない俺の言葉に、ファウストは一瞬呆気にとられたような顔をした。それからすぐ、訝し気に目を細める。
「は?」
 眼鏡の奥の瞳が、探るように俺を見た。
「まあ、何の意味もないことだけどね。アレクがいなければ君は俺に弟子入りなんかしなかっただろうし。そんな仮定は無意味どころか破綻してる」
 ただ、と。ファウストが何か言うより早く、俺は言葉を継いだ。
「あの子はね、ファウスト。『アレク』を持たなかった君だよ。君のなりそこないというのかな。だから俺は彼女を弟子にしようと思ったんだ。『アレク』のいない弟子となら、うまくやっていけるかもしれないと思ったから。『アレク』さえいなければ、すべてがうまくいくのかもしれないと思ったから。まあ、結局思っていたのとちょっと違うことになっちゃったけどね」
 ファウストが絶句しているのが分かった。しかし弁解するつもりはない。何故ならそれは、俺にとって揺るがしがたい事実だったからだ。
 どんなに言葉で取り繕おうと、俺がナマエを弟子として認めた最大の理由はそれなのだ。「アレク」を持たない弟子となら、うまくやっていけるかもしれなかった。「アレク」を持たない弟子となら、幸福な日々の再現を続けていけるかもしれなかった。そんな希望が、実験のような好奇心が、俺にふたり目の弟子をとらせた。
 もちろん、最初からナマエが「アレク」を持たないと知っていたわけではない。最初は北の国の故郷の土地を取り戻したいというのが、ナマエにとっての「アレク」のようなものなのかとも思った。
 しかし違った。あの子にとっての故郷の土地は、彼女を縛るものではあったかもしれないが、けして彼女の心の拠り所、彼女を支えるよすがではなかった。
 彼女にとって北の国の故郷の土地は、捨てたくても捨てられない枷のようなものだった。
「まあ、それも当然だよね。そもそもあの子は北の国の故郷に帰りたいなんて思ってなかったし」
 ファウストが小さく呻く。理解できないとでも言いたげなその顔に、俺は笑ってしまいそうになった。分からないはずがないのに。ナマエもファウストも、人間に石を投げられたという意味では同じようなものだ。
「当然だよ。だって拾ってくれた養父母への恩があるといったって、彼らは既に土の下だ。生きてもいない人間への義理立てのために、自分をブラッドリーの手下に差し出そうとした人間たちの暮らす村に戻りたいなんてことがあると思う?」
「……それは、」
「まあでも、人が嫌いで、憎くて、恨んで、それで引きこもっちゃった君とは違うかもね、ファウスト。あの子はひとりになりたいなんてこと、これっぽっちも思っていないんだ。ただ、ひとりぼっちの場所しか知らなかったというだけ。それしかないから、それを捨てたらどうしたらいいか分からなくなるから、だから捨てなかっただけだ」
 だから俺は、それを捨てる手伝いをした。ナマエにとっての故郷は「アレク」ではなかったが、重い枷であることには変わりない。外してやれば自由になれる。自由になって、その先どうなるのかを知りたかった。
 結果は俺の予想したとおりだった。
「寒くて孤独で嫌な思い出が蘇る土地と、厳しくてちょっと駄目なところもあるけど優しくてかっこいいお師匠様がいる土地。どっちがいいかなんて、考えるまでもないよ」
 へらりと笑って、俺はまたグラスに口を付けた。
 とはいえ、ナマエが南の国に戻ってくるかどうかは、正直に言えば結構な賭けだった。もしかしたら俺への未練などほとんどなく、あっさり北の国に帰るかもしれないとも思っていたのだ。
 何せ、俺たちの別れの晩餐はこれ以上ないほどに美しくて潔かった。ファウストとはきちんとした別れもないままに関係が悪くなってしまったから、その反省を踏まえて次の弟子とはきれいにお別れしようと決めていた。その美しい別れがどう転ぶか、弟子との美しい別れを経験したことが無かった俺には分からなかった。
 しかしそれも杞憂に終わった。きれいな別れは、ともすればぐちゃぐちゃの修羅場よりもずっと、心に傷を残しかねない。ナマエの弱くて繊細な心に真っ直ぐきれいに傷が入ってくれて、俺は心底ほっとした。
 「約束」まではさすがに想像していなかったが、それはまあ嬉しい副産物だ。これでこそ師匠甲斐もあったというものだろう。
「だからこれは君へのあてつけの話なんかじゃない。まして、呪いでもない。勘違いで俺のために生きて死ぬことになっちゃった愚かな妹弟子ができたんだよっていう、君への報告だよ」
 そう話をしめくくり、俺はファウストに微笑みを向ける。一方のファウストは後味悪そうな顔をして、俺のことをむっつりと睨んでいた。
「そんな報告、僕には不要だ。僕はもうあなたの弟子でも何でもないんだから」
「俺にはいいけど、あんまりナマエにそういうこと言っちゃだめだよ。ナマエはファウストコンプレックスなんだから」
「……知らないよ、そんなこと」
 ばつが悪そうなファウストの表情を見るに、すでにその辺りのことは察しているのだろう。いよいよもってナマエとファウストがどんな会話をしたのか気になってくる。ナマエに聞けば教えてくれるだろうか。あの子は案外頑固だから、もしかしたら口を割らないかもしれない。
 ファウストが椅子から立ち上がる。そろそろ夜更けだ。明日のためにも、俺たちも休息をとる必要がある。先程階下で人の気配が動いたから、ミチルやルチルはベッドに入ったのだろう。
 と、ふいにファウストが発した。
「お節介を焼く気も、気にかける義理もないが、少なくとも数百年生きている魔女が思い込みや勘違いでそんな『約束』をするとは、僕には思えない」
 その言葉だけを最後に残し、彼はもう話すことはないと言わんばかりに階下に向かう。残された俺は、ひとりきりになった部屋でぼんやりと、十数年前の記憶を再生した。

 あれはミチルが生まれた日。チレッタが石になってこの世を去った日のことだ。ミチルを取り上げたのはナマエだったから、すべてが終わったころにはナマエはすっかり疲弊しきっていて、俺は仕方なく彼女を背負って帰ったのだ。何せナマエは箒に乗ることはおろか、ろくに歩くこともできないような状態だった。
 チレッタの住処──今日からは幼いふたりの兄弟の家と俺の診療所はそう離れていない。持ち歩いていたシュガーでどうにか疲労を誤魔化しながら、ナマエを背負って荒野を歩く。魔法でナマエの重さを消しているから、重荷を背負っているわけでもない。
 生まれたばかりのミチルの顔よりも赤く目元を腫らしたナマエは、背負う俺の肩越しに、消え入りそうな声で問いかけた。
「フィガロ様、もうひとつだけ、約束をしてもいいですか」
「いいよ、聞いてあげる」
 間を置かずに頷いたのは、俺もナマエ同様疲れていたからだ。古い友人であるチレッタの死に、さすがの俺も多少こたえていた。
 だからナマエの言葉を噛み砕き理解することもなく、適当な態度で聞き入れた。その百年ほど前にすでにナマエは俺にひとつの約束をしていたから、今更もうひとつ約束が増えるくらい何でもないことのような気もしていた。よく考えればそんなはずはないのだが、とにかくその日は俺もナマエも疲れ切っていたのだ。
 ふいに俺の首筋があたたかく濡れた。それがナマエのこぼした涙なのだと気付くのに、束の間を要した。まだ涙が涸れていないんだな、と意味の無いことを頭が勝手に考える。
 やがて、ナマエの涙声が言った。
「もしも数百年後か数千年後か、フィガロ様が石になるその日が来たら、私も必ず石となってお供をいたします」
 さすがにそれは、聞き流すことのできない約束だった。足を止め、呼吸を繰り返す。今しがた聞いた言葉を頭の中で繰り返してみても、それが聞き間違いだったとは到底思えなかった。
 俺がいつか石になったら、ナマエもすぐに後を追うと。
 彼女は泣きながら、そう言った。
「どうして?」
 そう聞くのが、その時の俺には精いっぱいだった。二千年生きていても、時には驚いて思考が追い付かないときもある。動揺する心を押し隠して問う俺に返ってきたのは、やはり疲れ切って枯れ果てそうなナマエの声だった。
「ひとりぼっちには、なりたくないです。それに、フィガロ様をおひとりにも、させたくありません」
 俺ももうそう長くはないんだよなんて、とてもではないが言い出せなかった。もしもそれを打ち明けたとき、ナマエがどんな顔をするのかと思うと恐ろしくて仕方がなかったからだ。
 できることなら最後まで、ナマエには俺の死期を知られたくはない。何も知らないまま石になり、そして俺と一緒に朽ちてくれたらいい。そうなったらそのときはじめて、俺はナマエのなかに何かを見つけられるだろう。

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