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うつくしくひかるものの嗚咽

 たまごをボウルにふたつ割り入れると、魔法を用いてコンロに火をつける。本当は手で点火した方が早いのだが、折角使えるようになった魔法だ。隙あらば使ってみたくて仕方がない。
 まったく、もう二百年──いや三百年ちかく生きているというのに、やっていることはほとんど新しい言葉を覚えたばかりの子どもと変わらない。自分でも自分の浮ついた心に苦笑する。
 熱されたフライパンにたまご液をどろりと注ぐ。廊下の軋む音が聞こえ、キッチンの出入り口を振り返る。
「おはようございます、フィガロ様。今朝はスクランブルエッグですよ」
 寝間着姿でキッチンを覗いたフィガロ様が「そんなことより、また意味なく魔法を使ってるの?」と苦笑した。

 魔法使いが自らの年齢を口にするとき、長く生きれば生きるほど、その数え方は大雑把になっていく。長命の魔法使いともなればそも正しい年齢を記憶している方が珍しく、百年単位でざっくり齢を数えるのが普通だ。
 生きれば生きるほどに一年の重さは軽くなり、一番大きな桁の数字だけ伝わればそれでいいだろうということになる。フィガロ様など、もう一体いつから「二千歳くらいかな」と言い続けているか分からないという。
 私はといえば、つい先日ようやく「二百歳くらい」から「三百歳にはなったはず」と齢に関する文言を変更したところだ。
 この世に生まれ落ちて三百年。
 二百歳の頃に生まれ故郷を追われ、こうして南の国のフィガロ様のもとで住み込みの弟子として暮らし始めた。あれからすでに、百年が経過していた。

 スクランブルエッグにするつもりでフライパンに割り入れたたまごは、フィガロ様の「俺オムレツがいいな」という言葉によって急遽オムレツに姿を変えた。そのせいでずいぶんと不格好なオムレツになってしまったものの、味の方には何ら問題はない。強いて言えばフィガロ様が「なんだかおかしなオムレツだね」ともの言いたげにしているくらいだが、そんなことを言われたところで、スクランブルエッグをオムレツにしろと言ったのはフィガロ様なのだから仕方がない。そのまま食べてもらうしかない。
 私には一度焼き始めたものをもとの状態に戻す魔法など使えない。百年かけてようやく習得した魔法は結局、ほんの初歩の初歩までが限界だった。少しでもややこしい魔法を使おうものなら、私に従う不思議のちからはたちまちうんともすんとも言わなくなる。修行自体は継続しているものの、ここ数年なんとなく頭打ちの感があるのは否めない。
 これではブラッドリーの手下から故郷の土地を取り戻すことなど、夢のまた夢。しかし百年も経てばすでに、故郷への思いもかなり淡くなりつつある今日この頃だ。このまま南の国に居着くのも悪くはないかなとすら思い始めている。
 この頃は魔法使いや魔女でも、安住の地を求め南の国に移住するものも少なくない。それもこれも、フィガロ様の長きにわたる誘致活動がようやく実を結び始めているということなのだろう。
 そのフィガロ様は不服そうにオムレツを食べていたかと思えば、「そういえば」と唐突に口を開いた。
「明日は少し、北の国に顔を出す用事があるんだ」
 ちょっと散歩くらいの気軽さで、フィガロ様は大陸縦断の話をする。
「北の国ですか。それはまた、ずいぶんと遠いところまで行かれるんですね」
「スノウ様とホワイト様に呼び出されていてね」
 スノウ様とホワイト様といえばフィガロ様の師匠筋にあたる古の大魔法使いだ。私がかつて暮らしていた村も彼らの支配下にあったため、一度か二度くらいは私もお目にかかったことがある。
 もっとも言葉を交わしたと言えるほどの接点はなく、彼らの方は私のことなど覚えていないに違いない。
「北の国まで帰られるとなると、何泊かしていらっしゃるんですよね。泊りでしたら支度はいつもの鞄に詰めましょうか」
 直近の往診の予定がどうだったかを思い出し、私はこの後の算段をつける。往診ならば私がフィガロ様の代打をつとめるとして、旅の支度の方も整えなければならない。北の国に帰るときはもちろん、フィガロ様はいろいろな宴や会合に招かれるため、時々私をおいてひとりで出掛ける。その際の旅の支度を整えるのも、弟子である私のつとめだ。
 しかしフィガロ様は「いや、今回は日帰りの予定」と短く答え、それからつと、視線を私に寄越した。
 淡い翠の瞳に見つめられ、思わずごくりと喉が鳴る。フィガロ様を師と仰ぎ百年になるが、この底知れぬ瞳に見つめられることには未だ慣れようもない。
 何ですか、と。呻くように発しかけたそのとき、
「折角だし、ナマエも一緒に行く?」
「えっ」
 フィガロ様からの提案に、私は驚いて目をまるくした。かちゃんと音を立て、フォークが皿に落ちる。フィガロ様が「あーあ」と呆れて発したが、それどころではなかった。私にとって、北の国に一緒に帰るかと問われるのはそのくらい衝撃的なことだったのだ。
「私が同行してもいいんですか?」
「いいって何が?」
「だって、スノウ様とホワイト様にお会いになられるんですよね? おふたりはフィガロ様のお師匠様ですし、その、私なんかを連れて行っても……?」
 もごもごと口ごもりながら、私は何とか言葉を繋いだ。
 フィガロ様に弟子入りして百年。この百年のあいだ私は一度も、フィガロ様の弟子として何処かに連れていかれたことなどなかった。チレッタ様やレノックスとは面識があるが、それは彼らがフィガロ様の家を訪ねてきたからだ。そうでなければわざわざ紹介などされなかったに違いない。
 驚き見つめる私の視線を受けながら、
「ああ、まあ、うん」
 フィガロ様は歯切れの悪い返事をした。
「というか、そろそろ君を連れてこいってスノウ様とホワイト様に言われてるんだよね。弟子の顔見せっていうのかな。その催促も百年くらい無視してたんだけど」
「無視なんてそんな、お師匠様でしょうに」
「だってねぇ。自分の師匠に弟子のお披露目なんて、自分のこと以上に気恥ずかしいじゃない」
 片眉を下げて笑うフィガロ様の顔に、何とも言えないもやつきをおぼえた。それはつまり、私が出来損ないの落ちこぼれ魔女だから、他所に出すのが恥ずかしいという意味だろうか。これが兄弟子ファウストの紹介だったなら、フィガロ様は喜び勇んでするのではないだろうか。
 一瞬そんな思考が胸を掠める。しかし私がそれを表情に出すより先に、
「言っておくけど、弟子がナマエだから連れて行かなかったとか、そういう話ではないよ」
 とフィガロ様が言葉を足した。百年も一緒にいるためか、私の考えていることなど大抵はフィガロ様には筒抜けになっている。
 「とにかく」と、フィガロ様が話の軌道修正をした。
「そういうわけだから、君が一緒に行きたいなら連れて行ってあげる。今回は向こうからの呼び出しだから、箒で行かなくても塔が使えるんだ。塔を使うためのマナ石を、おふたりが出してくれてね。まったく便利な時代になったものだよ」
 そう言うと、フィガロ様は窓の外に視線を転じた。
 この国にも何十年か前に建てられた塔は、別の国の塔へと瞬時に移動することができるという凄まじい建造物だ。近年は魔法科学分野の進歩も目覚ましい。塔にもまた、その魔法科学の技術が採用されていると聞く。
 とはいえ動力源が高価なマナ石だけあって、誰でもおいそれと使えるというものでもない。私も塔を見たことこそあれど、使用したことは一度もなかった。
 南の国から北の国に箒で行くとなると、移動だけで数日を要する。それをひとっ飛びに行けるというのであれば、使わない手はない。
 使用したことはない塔に思いを馳せていた私に、フィガロ様はこほんと咳払いをひとつした。
「もちろん行きたくないなら無理にとは──」
「お供させていただきます」
 食い気味の返事をすると、師からは苦笑が返ってきた。
「それじゃあ明日は朝食を食べたら支度をしよう。一応きちんとした恰好をするんだよ。かしこまった恰好をしろとまでは言わないけど、普段の君はお世辞にもきれいな恰好をしてるとは言い難いから」
「は、はい……」
「去年の誕生日にチレッタに贈ってもらった衣装があっただろ? あれを着ていくといい」
「はい」
「それにしても久し振りだな、北に帰るのは」
 君も、俺も、と。呟いたフィガロ様の瞳はもの言いたげだったような気もしたが、直後玄関のドアを叩く音が聞こえ、その話はそこで終いになった。
 昨晩から熱が下がらないという子供を背におぶった母親が、診療所の玄関前でフィガロ様の診察を求めている。フィガロ様に取り次いでから、私は急いで診察の準備に取り掛かった。
 手足は百年の間に習慣と化した仕事を淡々とこなす。さながら機械じかけのように仕事を進めながらも、頭の中では百年帰っていない故郷の村がどうなっているだろうと、そんなことをぼんやり考えた。

 ★

 翌朝、私はフィガロ様とともに南の国を発った。発つといっても、実際には塔に設えられた狭い部屋のような場所に入っただけだ。どういう仕組みで大陸を縦断しているのか、皆目見当もつかない。
 マナ石を塔の石板に嵌めこむフィガロ様の手元を、私はじっと見つめる。
「これで西や東の国にも行けるんですよね?」
 南の国には雲の街に塔があるが、諸国にもそれぞれ塔が建てられている。大抵はその国の首都か、雲の街のようにもっとも活気がある場所に塔はある。
「そのはずだけど、マナ石を食うよ。時間さえあれば箒を使った方がいい。特に君は、箒での飛行が唯一得意といえる魔法なんだから。それすらしなくてどうするんだい」
「それもそうですね」
 思いがけず小言をもらってしまい、旅の気分が少ししょぼくれた。三百歳を数えても、師匠の小言には落ち込むものだ。
 そうこうしているうち、両開きの引込み戸が閉まった。かと思えばあっという間にまた開く。戸が開いた途端、たちまち冷たい空気がしのび込み、露出した肌から温度を奪い始めた。北の国に到着したのだ。
 北の塔を出た私の視界にまず飛び込んだのは、白銀に覆われた凍てつく大地だった。ついさっきまでからりとした土地の南の国にいたはずなのに、本当に一瞬で北の国に飛んできてしまったのだ。寒暖差のためか、腹の底がむかむかとした。
「大丈夫? それだけ着こんでいるから寒くはないと思うけど」
 隣のフィガロ様が気遣うような言葉を口にする。ここからスノウ様とホワイト様の城までは、しばらく箒で空を行くことになる。フィガロ様の魔法のおかげで吹雪にわずらわされることもないが、寒いものは寒い。
 しかし何となく調子が悪いのは、この気候のためだけではなさそうだった。
「ナマエ?」
 フィガロ様が、再度私に問いかける。
「……すみません、ぼうっとしてしまいました。寒さなら平気です」
「うん。それじゃあ行こうか。このまま待っていても吹雪が止みそうにはないしね」
 悲鳴のような吹雪の音の中に、地響きにも雪崩にも似た低い音が混ざっている。鼻腔に吹き込む冷たい空気は、鋭い痛みとともに清らかな氷のにおいを伝えている。
 長らくこの地を離れていたからだろうか。北の国独特のにおいや音が、いつになく私の感覚を圧迫している。
 先導すべく空へと舞い上がったフィガロ様に置いていかれぬよう、私も慌てて箒に跨り浮上する。眼下に広がるのは果てしない雪景色。
 美しくも人の息吹が極端に薄い雪原を見下ろしながら、フィガロ様がこの地を離れた理由を何となく理解したような気がした。

 小一時間ほど吹雪の中を飛び続けると、ようやく太古の魔法使いが塒とする古城に到着した。地上の正門ではなく、建物の二階部分から張り出したバルコニーに降り立つ。するとまるで私たちが到着するのを待ち構えていたかのように、バルコニーに小さな人影がふたつ現れた。
「よく来たの、フィガロ」
 よく揃った少年の声がフィガロ様を出迎えた。フィガロ様の師匠にして太古の魔法使い、スノウ様とホワイト様だ。
「お久し振りです。スノウ様、ホワイト様」
 フィガロ様が腰をかがめ、恭しく礼をとる。一見演技めいた仕草にも見えるが、長身のフィガロ様が幼い師匠に礼をとるためには必要な仕草なのかもしれない。
 フィガロ様の挨拶を鷹揚に受けると、スノウ様がひょこりと身体を曲げる。そうしてフィガロ様の後ろに控える私を覗き込み、無邪気な子どものように微笑んだ。
「して、後ろのがフィガロの秘蔵っこのナマエじゃな」
「ご、ご無沙汰しております」
 慌ただしく口を開くと、用意していた挨拶が喉につっかえた。無様にどもり、赤面する。
 きょとんとした顔をするスノウ様とホワイト様に、「ナマエはおふたりの治めている地の端っこの出身なんですよ」とフィガロ様が説明してくださった。
「そう言われれば会ったこと、あるかも?」
「そう言われれば挨拶されたこと、あるかも?」
「また適当なことを……。かしずいてくる者たちの顔なんて、いちいち覚えていらっしゃらないでしょう?」
「人聞き悪いことを言うでない」
 愛らしく怒って見せるスノウ様に代わって、今度はホワイト様が私の顔を覗き込む。仕事柄子どもを相手することには慣れているが、このおふたりは見た目こそ愛らしい童であっても、私など遠く及ばない年長者だ。顔を覗き込まれたところで、ただ緊張するばかりだった。
「ナマエよ、フィガロに虐められたりはしておらぬか?」
 ホワイト様の問いに、今度はどもらないようゆっくりと、言葉を選んで返事をする。
「フィガロ様には大変よくしていただいております」
「堅苦しい返事じゃのう。フィガロちゃんの仕込み?」
「違いますって。真面目な弟子なんですよ」
「真面目な弟子がおぬしに師事して百年も耐えられるとは、我ら到底思えぬ」
「俺も丸くなったんですよ。南の国のおだやかな気候が俺を変えたんです」
「そなたが南の国の地形を変えたんじゃなく?」
「言うほど変えてません」
「ちょっとは変えたんだ」
「変なところで正直な子じゃ」
 目のまえで繰り広げられる古の魔法使いたちの軽妙な会話に、私は口をつぐんで目をしばたかせる。フィガロ様がこうも可愛がられている様子を見るのははじめてだ。わが師よりも年長の魔法使いなど、この双子の魔法使いたちくらいしかいない。珍しいのも当然だ。
 弟子の私の前でさんざん可愛がられたためか、いささかばつが悪そうな顔をしたフィガロ様が咳払いをする。
「おふたりとも、再会の挨拶はこのくらいでいいですか?」
「なんじゃ、せっかちさんじゃのう」
「こっちも色々と忙しいんですよ。そういや今回はオズも呼んでるんですか?」
 フィガロ様からの問いかけに、ホワイト様が顰め面をした。
「いや、今回の件にはオズは抜きじゃ。事態が事態だけにあれを呼ぶと却ってややこしいことになるじゃろ」
「それもそうですね」
 オズというのがフィガロ様の弟弟子のあのオズであることは分かる。しかしどうにも話が見えなかった。もとより彼らの会話からは私に理解させようという気配も感じない。
 バルコニーから古城の中へと移動しながらの会話に、私は首を突っ込むことなくひたすら黙っていた。この三人の会話に口を挟めるほど、私は図太い性格をしていない。
 そうして黙って三人の後ろをついて歩いていると、おもむろにフィガロ様が振り返り、私を呼んだ。
「ナマエ。俺たちはちょっと大事な話をしなきゃならないんだ。君はあっちの、あの突き当たりを曲がってすぐ右手の部屋で待っていなさい」
 そう言ってフィガロ様が指さしたのは、今いる石造りの通路をまっすぐに進んだ、さらにその先だった。突き当りの壁には絵画が掛けられ、燭架がいくつも並んでいる。
 通路は突き当りで左右にふた又になっている。その先は死角になっていて見えないが、おそらくはいくつかの部屋の戸が並んでいるのだろう。城のつくりからして、ここは広間とは別の棟だ。
 私が返事をするより先に、スノウ様が異をとなえる。
「何じゃ、せっかく連れてきた愛弟子を同席させてはやらんのか」
 わずかな哀れみを含んだスノウ様の言葉にも、フィガロさまはにべもない。
「こちらにも色々と事情がありまして」
「ひとりだけはみごにしたら可哀相じゃろ」
「はみごじゃないです」
 ね、とフィガロ様がふたたび私に視線を遣った。どきりと心臓が跳ねる。フィガロ様は私の目と目が合うと、
「ん? 何か言いたいことでもあるかな」
 言葉とはうらはらの有無を言わさぬ調子で、私にそう問いかけた。
「いえ、何も」
「そう。じゃあもう行ってもいいよ。話が終わったら迎えに行くからね」
「それでは、失礼いたします」
 不思議そうな顔をするスノウ様とホワイト様に一礼すると、私はフィガロ様に示された先の部屋へと足を向ける。歩き始めた私の背の向こうから、フィガロ様とおふたりの会話が聞こえた。
「何じゃ、結局恐怖政治ではないか」
「もうちょっと言い方とかやり方とかあるじゃろ」
「おふたりは今のナマエしか見てないからそういうことを言うんですよ。俺の生活習慣全般については、あの子はあれで相当口うるさいですよ。ただ、魔法使いとしての俺の指示には絶対に口応えしませんけど。要はメリハリです。切り替えがうまい子なんですよ」
「素直なよい子じゃな」
「おぬしやオズとは大違いじゃ」
「俺だって素直ないい子だったじゃないですか」
「どの口が言うか」
 気の置けない遣り取りは、まだ私とフィガロ様の間には存在しないものだ。私とフィガロ様の付き合いも百年になったが、長命の魔法使いたちにとっての百年など、さして長い時間でもない。
 一人だけ退席を求められたことへの不満はない。しかしフィガロ様とスノウ様、ホワイト様の間にある心安い雰囲気は、私の心に冷たい隙間風を吹き込ませるようだった。

 ★

 通路には似たような戸が並んでいたが、フィガロ様の示した部屋だけは戸が開いていた。おかげでほかの部屋に迷い込むこともなく、私はすんなりとその部屋に辿り着くことができた。
 室内の調度はどれも品がいい。手入れは魔法でしているのだろう。傷みもほとんど見られない。派手さはないが、ひと目見て高価だと分かるものばかりだ。
 ひとり用のベッドとサイドテーブル、安楽椅子と書き物机。一見してそれだけしか家具のない部屋には、もう何百年も置き去りにされたままのような古書が数冊残されていた。
 逡巡ののち、本を手に取る。ぺらぺらと頁をめくれば、現在ではほとんど使われていない古の文字で記された、年代物の魔導書だった。裏表紙には見慣れた筆跡でフィガロと署名がされている。どうやらここは、フィガロ様がスノウ様ホワイト様のもとで弟子として生活していた頃に使用していた部屋らしい。
 フィガロ様がいつ私を迎えに来るかも分からない。この部屋に通されたということは、室内のものを手に取ってもいいということだろう。そう解釈し、私は安楽椅子に腰をおろすと、魔導書に視線を落とした。フィガロ様の蔵書には相当の年代物も含まれている。弟子としてそれらにも目を通しているから、私も一通りは古の文字を読める。
 視線で文字を追いながらも、思考の一部は切り離す。考えるのはこの部屋で過ごしていた頃のフィガロ様のことだ。
 かつて、フィガロ様は弟弟子であるオズと手を組み、世界のおよそ半分を掌中におさめたらしい。私が生まれるよりも前の話なので、私にとっては古いおとぎ話と大差ない。
 今私が師事しているフィガロ様からは、世界を統一してやろうだとか何かを滅ぼしてやろうだとか、そういう気概や苛烈さを感じたことはない。しかし、実際にそういう過去はあったのだ。
 百年前に私がフィガロ様を訪れたとき、フィガロ様は「北の魔法使いのフィガロはここにはいない」とはっきり告げた。それでは、その北の魔法使いはどこへ行ってしまったのだろう。私は自分の師匠を南の国の魔法使いのフィガロ様だと定めているが、今彼が北の魔法使いとしての己を取り戻したら、私はどうすべきなのだろう。
 ふと視線を上げ、部屋の中をぐるりと見回す。
 この部屋には人の温もりの痕跡が薄い。長く部屋の主を失ったからという、ただそれだけが理由ではないだろう。ベッドマットの沈み方や、安楽椅子の肘おきの摩擦。サイドテーブルの脚についた傷。それに、けして消え去ることのない残り香。いずれも、人の住まいとしてはあまりにも薄く、乏しかった。
 私も長くひとりで暮らしていたから分かるのだ。人が生活をしている場には、どれだけ気を付けていようとも使用者の気配が必ず残る。魔法が使えない魔女でも、悪逆を恐れられた稀代の大魔法使いでも、それは変わらない。
 フィガロ様はここで、何を考え暮らしていたのだろう。
 どれだけ思考を寄り添わせてみようとしても、主の気配を持たない部屋では寄り添うよすがも見つからない。

「ナマエ」
 魔導書を一冊読み終えた頃、開けたままにしていた戸の向こうから、私を呼ぶ声がした。ゆるりと視線を上げれば、フィガロ様がやわらかな笑みを浮かべている。
「ドアを開けっ放しにするなんて君らしくないね」
「……慣れない場所ですから」
 本当は閉じ切ったこの部屋でひとりになるのが恐ろしかった、とは言えない。そんなことを言えば流石に失礼にあたるだろうし、そうでなくても三百歳の魔女の言葉にしてはあまりにも幼稚だった。
 読み終えた本を机の上に戻す。考え事をしながら読んでいたせいか、結局ほとんど中身は頭に入っていない。
「話は終わったよ。帰ろう」
「はい」
「食事に招かれたけど、それは断ったからね」
 そう言いながら、フィガロ様は私が部屋から出るのを待つ。自室だろうに、室内に踏み入ることもない。
「なにも断らなくても……。折角ですし、私のことは気になさらず」
「だって君、調子悪いだろ?」
 当然のようにそう問われ、私はつい瞠目した。たしかに北の国にやってきてからというもの、腹の底はむかむかするし、感覚は鬱陶しいほどに敏感になっている。食欲もない。しかしまさか、フィガロ様にそれを見抜かれているとは思わなかった。
 これでもフィガロ様のそばで医師の真似事を百年やっている。医師が患者のどういう部分を観察するかは知っているから、翻って体調不良を隠すのもうまくなった。
 フィガロ様は驚く私に、呆れた顔を向ける。
「俺が気づかないと思ったの?」
「すみません……」
「調子が悪いというよりはむしろ、調子が良すぎて体調が安定しないというのかな。北の国は大気中の魔力が濃いからね。精霊の質も南とじゃ違う。普段南の国の空気に慣れている君なら、久し振りの北の空気にあてられても仕方がない」
「でも、北の国で暮らしていたときには平気でしたよ」
「そりゃあ南の国にやってきてからの百年で、ナマエの魔法を扱う技術が向上したからだよ。要は感覚というか、身体の使い方がうまくなったんだ。身体の中で魔力をうまくコントロールすることも。それで今までは平気だった濃度の魔力に、身体が反応しすぎてるんだよ」
 そういうものだろうか。フィガロ様に言われて気持ちを集中してみると、たしかに大気内の魔力の濃度は南の国と段違いだった。圧迫感を感じて呼吸が苦しいのも、濃密すぎる魔力に身体が順応できていないかららしい。
「しばらくすれば慣れると思うけどね。まあ今日は慣らすよりも撤退しよう」
 そう言って、フィガロ様はバルコニーに向け歩き出す。窓から見える白い空では、太陽が低い位置でぼうっと輝いている。南の国と違い、その光はあくまで淡く控え目だ。
 スノウ様とホワイト様の見送りはない。フィガロ様によれば、彼らも彼らで忙しいらしい。
 来た時と同じように、バルコニーから箒で飛び立った。日が高くなったためか、吹雪は幾らかましになっている。
 並走して塔へと向かう最中、ふいにフィガロ様が、
「そうそう。君の故郷の村を見ていく?」
 私に向け、声を投げかけた。一瞬、心が揺れる。塔に向けて最短距離のルートをとれば、私の故郷の上空を通ることはない。しかしまるきり方角が違うわけでもない。地上を行くならばともかく、こうして箒で飛んでいく分には大した寄り道にもならない。
 フィガロ様が、じっと私の答えを待っていた。ややあって、私は答えた。
「……いえ、今日はやめておきます」
「そうだね。俺もその方がいいと思う」
 あっさりと首肯して、フィガロさまはおもむろに私を呼ぶ。今度はもう、視線をまっすぐ前方に向けていた。私から見えるのはフィガロ様の横顔だけだ。
「ナマエ、俺たちが何の話をしていたか知りたい?」
「……教えてくださるんですか?」
「いいよ。どうせ隠していてもすぐに知れることだし」
 そうしてフィガロ様は、ほとんど躊躇の間をおかずに続けた。
「ブラッドリーを捕縛することが正式に決まったんだ。スノウ様とホワイト様主導でね。今日はその段取りの確認だったんだよ」
「え──」
 思わず、言葉を失った。
 北の魔法使い。悪名高き盗賊団の首領。我が故郷を奪い去った悪党たちの首魁。
 ──ブラッドリーの捕縛。
 絶句する私にかまわず、フィガロ様は言葉を継ぐ。
「内通者というか、密告者というか……いや、この場合は協力者か。とにかくそういう魔法使いが見つかったんだ。それで、ブラッドリーやオーエンのせいでこのところすっかり評判が落ちちゃった魔法使いの名誉を挽回して、人間たちに善良アピールしておこうってことになったというわけだ。ただの捕り物じゃないからね。せいぜいアピールのために大々的に捕縛する予定だよ」
「フィガロ様が、ブラッドリーを……」
「本当はもうあんまり荒っぽい仕事はしたくないんだけどね。だけど人間との共生のためって言われたらやらないわけにはいかないし、他でもないおふたりからの頼みだ。たまには師匠孝行しないと」
 そう説明するフィガロ様の声には、ブラッドリーを相手取ることへの気負いなどは一切感じられない。ブラッドリーとて、北の荒くれ者のような魔法使いたちを束ねる首領なのだ。けして侮れる相手ではないはずなのに。
 いや、本当のところ私はそんなことを気にしているのではなかった。たとえ相手があのブラッドリーであろうとも、わが師が後れを取るなど万が一にもあり得ない。まして、今回はフィガロ様の師匠であるスノウ様とホワイト様がついている。失敗など絶対にするはずがない。
 私が気にしているのは、そんなことではなく──
「それに、ナマエも嬉しいだろ? ブラッドリーが捕まれば、その手下だって大きな顔はしていられなくなる。次に追手がかかるのは自分たちかもしれないと思えば、呑気に人間の村をいじめてもいられないだろう」
 どくんと大きく、心臓が跳ねた。笑いながら掛けられたフィガロ様の言葉には、慈愛と気遣い以外の感情はない。
「そうなれば、君も故郷を取り戻して帰ることができる」
 ゆるんだ吹雪を受けながら、果たして私は自分が今、どんな顔をしているのかも分からない。
「よかったね、ナマエ」
 悲鳴のような吹雪の音の中、自分の喉から漏れた掠れ声は音のかたちをとるより先に、ばらばらにほどけて散っていった。

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