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閑話・雨粒を取り零す

 季節外れの雨が地を濡らし、枝をしならせ、歩き続ける私たちの肌をしたたかに打っていた。気が付けば、傘をさしていても全身が満遍なくずぶ濡れになっている。前髪からはぽたぽたと絶えずしずくが落ち続け、見かねたフィガロ様が魔法で薄膜を張ってくださった。
 近所に住んでいた老翁の葬儀にフィガロ様とふたりで出席した、その帰りだった。生涯妻子を持たなかった老翁には親類縁者もおらず、地域のみんなで葬儀を出した。
 葬儀といっても湿っぽいものではない。故人をしのぶ宴だ。歌い、踊り、大いに語らう。思い出話に話を咲かせる。涙を流すことも笑顔を弾けさせることも、いずれも制約されない宴は、土地の歴史が浅いこの国にフィガロ様が根付かせた新しい風習だった。
「いい葬儀になってよかったよ」
「そうですね」
 フィガロ様の呟きに、短く相槌を打つ。
 フィガロ様は地域の医者として施主がわりの代表者をつとめた。私にも今後、彼の遺品整理などの仕事が任されている。
 人間の寿命を考えれば、そしてまだ開拓の歴史が浅いこの土地の人間であることを考えれば、死んだ老翁はけして短命ではなかった。むしろ大往生とすらいえる。
 しかし所詮は人間の一生だ。魔女の私にしてみれば、どうしたって「もう逝ってしまった」と思えてしまう。フィガロ様ほど長命の魔法使いから見れば尚更、あっという間の一生に思えることだろう。人の一生は斯くも儚い。
 南の国では人間の葬儀に魔法使いが招かれることも少なくない。こうして喪主や施主を任されることは珍しいが、それでもフィガロ様の弟子として、産婆として、私もすでに何度も人間の葬儀に参列している。それでもまだ、葬儀後のこの遣る瀬無さには慣れない。

 革の靴に泥がはねた。革は水に弱いが、フィガロ様の魔法のおかげで無用な傷みからは守られている。帰ったら泥だけは拭き取らなければ──ざわつき落ち着かない心とはうらはらに、思考はどこまでも現実を生きる算段のために働き続けている。
 薄情だろうか。己の心に人間とは一線を画す酷薄さを見た気がして、背筋がすっと冷たくなる。しかしそれも束の間のことだった。フィガロ様ならばきっと、そんなことはないと言ってくださるだろう。そんなふうに考えるようにしていれば、少なくともフィガロ様の弟子として、魔女としての自分の在り方を疑わずに済む。
「泣かなくなったね」
 ふいに、フィガロ様が呟いた。ざあざあと地を打つ雨の音にまぎれ、ともすれば聞き逃してもおかしくないような小さな声音。それでも私の耳がフィガロ様の言葉を聞き洩らすはずはない。
 自分の心の中のひずみを見抜かれたような気がして、一瞬どきりとした。
「悲しくないわけではないですよ」
 私の返事に、フィガロ様が声もなく笑う。
「だけどナマエ、ここにきたばかりの頃は誰かの葬儀に参列するたび泣いてただろ」
「そうですけど」
「弟子の成長を喜ぶべきか悲しむべきか」
 そう揶揄するフィガロ様の声からは、悲しみや遣る瀬無さといったものは欠片も感じられはしなかった。
 実際のところ、彼は個々人に対してあまり思い入れを持っていないように見える。師が愛しているのは人間という種そのものだ。ばらばらの一人一人がどんな意志を持とうとも、それがたとえどれほど崇高、あるいは悪辣であろうとも、フィガロ様にとっては所詮人間の枠を出ない可愛い差異の範疇でしかない。
 もっとも二千年も生きていればそれも仕方がないことだろうとは思う。普段のフィガロ様の振る舞いからは、目のまえにいる個人を軽んじるような印象は受けない。フィガロ様の人間との距離の取り方は、おそろしく思えるほどに親身に見えて、おそろしいほどに他人事だ。
 私はまだ、その境地に達していない。今老翁の死に胸を痛めているのも、それでも涙をこぼさないのも、私と彼個人との間にあった思い出や言葉の数々があるからだ。
 雨足が一層強くなる。大きな雨粒が視界を遮るように、ぱたぱたとまっすぐに落ちていく。
「彼からお願いされていたんですよ」
 老翁の遺言にも似た台詞を思い出し、ぽつりと言葉をこぼす。フィガロ様がやわらかな笑顔のままで首を傾げた。
「お願い? 一体何をお願いされたの?」
「『自分が死んでも泣かないで』って。私の笑顔が好きなんだって、可愛いことを言ってました」
 約束こそできなかったけれど、たしかに彼は私にそう頼んで逝ったのだ。彼が息を引き取る、三日ほど前のことだった。思えばあのとき、彼は自分がじきに死ぬことを察していたのだろう。魔法使いは自らの死期を察するものだが、人間も長く生きて最期が近づけば、最初で最後の不思議のちからを使うことができるのかもしれない。
 フィガロ様は歩みを止めることもなく──大して心を動かされた様子もなく、そんな頼みを聞いたんだ、と笑っている。
「そういえば彼、ナマエのことが好きだったんだっけ。結局、全部で何度プロポーズされたの?」
「三十回ですね。酔った勢いとか挨拶がわりみたいなのも含めたら三桁くらいです」
 とはいえ本気で求婚されていたのは、彼が三十代くらいまでのことだった。それ以降のプロポーズはすべて、私からの返事を求めないものだったと思う。いつまでも見た目の変わらないままの私を見て、共に生きようと願うことの無謀さを悟ったのかもしれない。
 遠くで雷の音が轟く。民家に落ちていなければいいが、と落雷があっただろう村を予想して思いを馳せる。
「凄いよね」
 フィガロ様が溜息をつく。てっきり雷の話かと思ったが、そうではなくて、まだ先ほどの老翁の話をしているようだった。
「人間の一生の短さを考えたら、それだけ一生懸命になる時間で別の何かをすべきじゃないかって俺なんかは思うけど。それに君が応えないと知っても、生涯独身をつらぬいただろ? それって結構な覚悟がないとできないことだよ。誰にも看取られないというのは、やっぱり寂しいことだから」
「看取りましたよ、私が」
 おとといの夕方、滅多にない嫌な感じに胸がざわつき、雨の中を急いで彼の家に向かった。私が到着したときには彼はベッドの上で仰向けになっていて、私が入ってきたことにも気付いていない様子だった。
 意識があったのは、ほんの僅かな時間だけだ。それから一時間も経たず、彼は眠るように息を引き取った。
「魔法がてんで使えないナマエにしては、今回はよく勘が働いたと思うよ」
「こういうのを虫の知らせというんでしょうね」
 もしも私が気づかなければ、もしかしたら彼はまだこの世を去ったことすら誰にも知られていなかったかもしれない。年老いた彼が畑に出ないのはよくあることだったし、近所の住民とてそう毎日彼の様子を見に行くわけではない。
 雨で白くけぶる視界の先に、ぼんやりとフィガロ様の診療所が見えてくる。帰るべき場所に辿り着いたような心地がして、途端にどっと疲れが押し寄せた。
 まとわりつく泥と疲労のせいで、足がいやに重い。
 フィガロ様は歩調を一切ゆるめることなくまっすぐ歩いて行く。まるでフィガロ様の周囲には雨など降っていないようだ。
「今更だけど、ナマエ。どうして彼の気持ちに応えてあげなかったの? 結婚はさすがにできなくても、少しくらい相手してあげればよかったのに」
 私のすぐそばを歩いているはずなのに、フィガロ様の表情がかすんで上手く見えない。笑っているのかいないのか、それすら判然としない。
 けれど多分、笑っているのだろう。そんな気がした。
「自分がお産をとって、おしめを変えたりするのも手伝った男の子ですよ」
 ややあって、私は答えた。
「それなのに、そんなことを言われても」
「あれ、そういう問題なんだ」
「それだけでもないですけどね」
 果たしてフィガロ様が求めている答えを口にできているのだろうか。弟子になってもう随分と経つが、フィガロ様の考えやお心は未だにはかり知れない。
 フィガロ様は何も言わなかった。沈黙のためか、先ほどまで気にならなかった雨音が途端に耳につく。雨音だけが沈黙を埋め続ける。
 言うか悩んだ言葉を、結局私は口にした。
「人間が育ち、老い、死んでいくのを見守るというのは、なんというか寂しいことですね」
 黙りこくっていたフィガロ様が、呆れたように私を笑った。
「またそういう魔女らしくないことを言う」
「ですがフィガロ様だって、私に弱いままでいてほしいとおっしゃったじゃないですか」
「そういえば言ったね、そんなこと」
「置いて逝かれるのは寂しいです。北の国にいたときはこんなこと思わなかったのに」
 何故だか急に泣きたくなって、私は慌てて大きく息を吐く。そうして何でもなかったようなふりをして、前を歩くフィガロ様の横に並んだ。私の歩みが遅くなっていたせいで、いつのまにかフィガロ様との間には走らないと追いつけないくらいの距離が開いてしまっていた。
 ようやく追いついた私に向けて、フィガロ様はそっと目を細める。
「君も日々成長しているってことだよ。師匠として喜ぶことにした」
「フィガロ様、なんで嬉しそうなんですか……」
 白くけぶる雨の先に、私とフィガロ様の帰る家がはっきりと見えた。心がほっと安らぐのが自分で分かり、なんとも言えない気分になる。
 色彩豊かな南の国で色のない喪服を身にまとっていると、自分が今も白銀の北の国でひとりきり、孤独に生きる魔女なのではないかと唐突に不安になることがある。この国に来てもう何十年も経つというのに、馬鹿みたいに心細くなる。
 隣に並んだフィガロ様を見上げる。前を向いたフィガロ様と視線が合うことはない。それでも此処は、孤独ではなかった。

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