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ほどけない火のかたわら

 呪文の言葉を口にした直後、私の魔道具である真鍮製の古い指輪が、人差し指の付け根でぼうっと淡い光を発した。呼応するように、机に置かれた水差しがかたかたと、まるで地震の予兆のように小さく震える。
 しかし、それもほんの束の間のことだった。すぐに振動は止み、指輪に宿っていた光も消える。そこで集中が途切れて息を吐き出すと、すぐそばで読書をしながら私の様子を見ていたフィガロ様が、溜息をつきながら安楽椅子から立ち上がった。フィガロ様の動きに合わせ、羽織った白衣の裾がひらめく。
「うーん……筋は悪くないんだけど……」
 フィガロ様は本を机に置くと、私と指輪、そしてすでに微動だにしない水差しを順番に眺めた。

 私が北の国を逃れこの南の国にやってきてから、早いもので五年が経過した。最近になってようやくフィガロ様に弟子として認めてもらえ、晴れて魔女としての修行も開始している。しかし、偉大な師につけば誰でも優れた魔女や魔法使いとなれるなどというはずもない。修行を開始してひと月、私の魔法の腕はいっこうに上達の兆しを見せない。
「困ったな。さすがにここまで初歩的な魔法の指導って、俺も一度もしたことがないんだよね。俺自身もオズも、強い魔法を制御するのに難儀したことはあっても基本は呼吸と同じように知っていたから、誰かから教わったこともないし。あの子はある程度魔法を使いこなしてたし、教えたことも応用編みたいなことばかりだったから」
 師の口からこぼれた『あの子』という言葉を、敏感に耳が拾った。ただでさえ魔法をうまく扱えない自分にうんざりしているのに、その言葉を聞くと余計に、じりじりとした焦燥感に胸の底を焼かれているような気分になる。
「……すみません」
 集中を切らした途端に押し寄せる疲労に喘ぎながら頭を下げれば、フィガロ様はあからさまにがっかりしたように「仕方がないことではあるけどね」と、慰めなのか突き放しているのか分からない台詞を口にした。
「魔法をほとんど使えないことを承知して弟子にしているから、驚いたりがっかりするっていうこともないんだけど。ただまあ、なかなかあの子のようにはいかないな」
 そうしてフィガロ様は、膝に手をついている私の背中を励ますように軽くたたいた。
「今日はここまでにしておこう。午後からは隣村の患者が来るはずだから、診察の準備をしないといけないしね。そういえばレノックスも今日あたり寄るって言っていたっけ。とにかく、暇があったら自分でも練習はしておくこと。幸い魔力と集中力はたっぷりあるんだ。まだ練習はできるだろ?」
「もちろんです」
「こうなってみると改めて、ファウストって優秀だったんだなぁ」
 繰り返しのように発せられる『あの子』『ファウスト』という名を残し、フィガロ様は修行のために使っている練習室を出ていった。残された私は、ふたたび自主練習に励む──気力もなく、へなりとその場に座り込んだ。
 魔法は心で使うものだといったって、心が疲れれば身体とて疲弊する。萎えた足でどうにか立ち上がると、水差しから一杯水を汲み、一気に飲み干し息をつく。そうしている間に思い出されるのは、先ほどのフィガロ様の何気ない言葉の数々だ。
 師の言葉から芋づる式に頭に浮かぶのは、会ったことも見たこともない中央の国の建国の英雄。フィガロ様のもとをひとり立ちし、今は何処かで立派に魔法使いをしているであろう私の兄弟子は、私の頭の中で日に日に偉大で、強大で、そして途轍もない伝説の魔法使いへと成長していた。初歩的な魔法ひとつ使うにも息を切らせている私など、到底及ばないであろう偉大な兄弟子。ここにいないその人物に、私の心は日々千々に乱されている。
 弟子となり本格的に魔法の修行を始めてからというもの、フィガロ様は事あるごとにファウストという名を口にする。どの程度意図的に発しているものかは分からないが、比較されればされるほど、自分がどうしようもない魔女であることを実感してつらくなる。
 優れた才を持たない私は、建国の英雄になどなりようもない。かつて英雄を育てたフィガロ様が、いつ私に呆れ見切りをつけてもおかしくないのだということを考えると、それだけで泣きたくなってくる。こんなことでは故郷の地をブラッドリーの手下から取り返すのだって、一体いつになることか分からない。
 溜息をつき、立ち上がる。落ち込んでいても仕方がない。気分を切り替えることは難しいが、だからといっていつまでもしゃがみこんでもいられなかった。
 修行に使っていた水差しを片づけると、のろのろと部屋を出る。午後からの患者と来客に向けて、弟子の私が片づけなければならない仕事は山のようにあった。

 ★

 午後になっても気分が晴れることはなく、その日一日、なんとなく心の中に靄がかかったような気分のまま、淡々とフィガロ様に言いつけられた仕事をこなした。さすがに二百歳を過ぎているから、気分で仕事の出来を左右されることもない。落ち込んでいるからといってそれを周囲にまき散らすこともしない。フィガロ様は何も言わず、私が勝手に立ち直るのに任せている。
 立て続けにやってきた患者の診察を終えた頃、空の色がゆるやかに赤みを増してくるのに合わせたかのように、夕焼けを引き連れフィガロ様を訪れた客があった。数年に一度フィガロ様のもとを訪れる寡黙で精悍な男性は、その名をレノックスという。かつてのフィガロ様の弟子、私の兄弟子であるファウストの古い知人とのことだった。
 レノックスさんの日に焼けた肌の色は、北の国で生まれ育った私とも、あるいはフィガロ様ともまるで違う生き物のようにも見える。赤銅色の肌に気圧されるように、干していた薬草を回収するといって、私は部屋の外に出た。フィガロ様とレノックスさんの関係はどうにも友好的と言い難く、その場に居合わせるとたいてい気まずい思いをする羽目になる。それを避けたいという気持ちもあった。
 夕焼けは、もう随分と深く濃い色に変わり始めていた。南の国は北の国に比べて日のある時間が長い。それでも夕方の時間はあっという間に終わってしまう気がする。
 広げて並べていた薬草はすでにひやりと冷たくなっていた。それを新しく造りなおしたばかりのサンルームに突っ込むと、ぼんやりとこげ茶色の地面に視線を落とす。きっとまだ、レノックスさんとフィガロ様は込み入った話をしているだろう。そこに戻るのは気が進まない。
 サンルームの外壁に背中をあずけ、ぼんやりとその場にしゃがんだ。夕飯の支度はまだしていないが、フィガロ様はいつももっととっぷり日が暮れてからようやく食事を摂る。その生活に合わせているうちに、私も夜遅くに食事を摂るのが習慣になっていた。
 北の国にいた頃には、魔女であろうとも夜は早くに寝るものだと言われていた。北の夜は寒く恐ろしい。夜は悪しきものたちが跋扈する時間。子供たちだけでなく、大人もそれを信じている。
 もしもフィガロ様に見限られれば、私は北の国に帰るしかないのだろうか。そんなことを、ふと考える。これまでの五年間は弟子でなくてもおそばにいさせてもらえたが、それはいずれ弟子にしてもらうためという大義名分があったからだ。弟子でいられる希望がなくなれば、縁もゆかりもない南の国に留まる理由がない。
 玉砕覚悟でブラッドリーの手下たちに挑むべきか。生きたいと思って、故郷の地を取り戻したいと思ってこんなところまでやってきたものの、フィガロ様という最後の希望に見捨てられてしまったら、石になっても同じかもしれない。
 レノックスさんとフィガロ様はどんな話をしているのだろう。建国の英雄の思い出話などした流れで、もしかしたら私の不甲斐無さの愚痴話にでもなっているのかもしれない。
「だけど、建国の英雄と比べられてもなぁ……」
 そんな本音が、うっかり口をついて出たそのとき。
「大丈夫か?」
「わぁ!?」
 ふいに地面に色濃い影が浮かんだかと思えば、低く静かに問いかけられた。驚いて顔を上げる。そこにいたのは夕闇の中に赤い瞳を鈍く光らせたレノックスさんだった。
 ばくばくと心臓がうるさく鳴っている。突然話しかけられたことへの驚きと、レノックスさんから話しかけられたことへの驚きが重なり、必要以上に大袈裟な反応をしてしまった。
「れ、レノックスさん……びっくりした……」
 思わず呟けば、レノックスさんはいささか申し訳なさそうに眉を下げる。
「すまない、しゃがみこんでいたものだから気分がすぐれないのかと」
「ああ、いえ。すみません。そういうわけではないんです」
 しかしそう思われても仕方がないことだった。私はその場から立ち上がると、服についた土を手ではたき落とす。その間レノックスさんは、もの言わずそこに屹立している。物静かで感情の起伏が分かりにくく、しかし無愛想というよりは実直だとか誠実だとかそういった印象を与える。そんなレノックスさんの顔を見上げると、ふと胸に去来した問いを口にしてみたくなった。
「あの」
 今度はレノックスさんが、僅かに目を見開いた。多分、私から話しかけられるとは思っていなかったのだろう。レノックスさんがフィガロ様を訪ねてくるとき、大抵私は席を外している。こうしてふたりきりで言葉を交わすのはこれがはじめてのことだった。
「何か」
 レノックスさんは静かに言葉を促す。
「レノックスさんは──」
「レノックスでかまわない。年もそう変わらないだろう? フィガロ様から、君は二百歳くらいだと聞いた」
「ええ、はい」
「俺の方が少しだけ年上だが、そう違わない」
「それでは、……レノックス」
 なんとなく気恥ずかしさを覚えながら彼の名を呼び、私はひとつの問いを口にした。
「レノックスは、フィガロ様の前のお弟子さんのことをよくご存知なのですよね?」
「……それは、フィガロ様から?」
「いえ、そういうわけではないですけど……」
 思いがけず質問を返されて、私は小さく首を横に振った。ぬるい風が頬を撫でていく。
「フィガロ様のもとにはお客様も多いですけど、レノックスはほかのお客様とは雰囲気が違いますから。それに、風の噂で戦乱の時代を生き抜いた勇士とお聞きしました」
「そんな大層なものでは……」
「ですから、もしかしたら前のお弟子さんの関係でフィガロ様のもとにいらっしゃるのかと」
 そのとき、レノックスの動きの少ないかんばせが、にわかに苦し気に歪んだ気がした。もっともそれはそう見えたというだけの話であって、本当にレノックスが顔色を変えたのかどうかは分からない。それにこの薄暗がりの中だったから、そもそも大して視界はよくない。
 それでも、はっとした。人が傷つくところを見た気がしたのは、本当に久しぶりのことだった。
「その、聞かれたくないことだったらすみません」
「いや、いい」
 慌てて言い添えた私に、レノックスは平常通りの抑揚の少ない声音で返した。表情も瞳の色も、この不自由な視界で確認できるすべての変化は、すでにレノックスからは消え去ったあとだった。
 レノックスは暫し考え込むように、じっと黙りこくっていた。やがてぽつりと、
「そうだな。知り合い、というには少し違う気もするが。フィガロ様のもとを訪れる理由は、ナマエの想像している通りだ」
 まるでたくさんの言葉の中から最低限のものだけを取り出したように、そう呟いた。その一言だけで、彼の言葉数の少なさはただ自己主張が少ないのと同じではないことが伝わる。
 私はまた、一度視線を地面に落としたあと、もう一度レノックスへと戻した。日はもうすっかり沈み、そろそろ夜のとばりがおりようとしている。それでも、どちらも家の中に戻ろうとは言い出さなかった。
 そっと息を吸い込む。夜の空気は、昼間よりもさらに草木の匂いを濃くしている。
「建国の英雄は──私の兄弟子は、それほどまでに優れた魔法使いだったのですか?」
 ふたたび問う。レノックスは、静かに私を見つめている。
「……フィガロ様から何か?」
「いえ、そういうわけではありません、けど……。ただ、フィガロ様がよく仰るものですから気になって。『あの子は優秀だった』って」
 ああ、と。レノックスは同意とも悲嘆ともつかない、短い呻きのようなものを僅かに漏らした。
「たしかにあの方は優れた魔法使いで、素晴らしい人格者で、俺たちの誰もが慕う指導者だった」 
「やっぱり……」
「だが、ナマエは建国の英雄になりたいわけじゃないんだろう」
 続くレノックスの言葉に、私は一瞬意味が分からなかった。私が建国の英雄に? そんなもの、なりたいはずもない。私にはそんな大それた意志などない。正直に言えば自分の生まれた村と自分の生活さえ立ちゆけば、後のことは大抵どうでもよかった。生まれた村のことすら、荒らされていないのであればそれ以上は望まない。
「まあ……、はい」
 私のはっきりしない返事に、レノックスが小さく微笑んだ気がした。
「それならあまり、兄弟子だからと気にしない方がいい。誰かと同じようになりたいなんて、思ったところでなれるものでもないのだから」
 それは多分、ごく当たり前のことだった。ともすれば、何の救いにも、何の足しにもなっていない。気にしない方がいいなんて言われたって気になるものは仕方がないし、それで破門にされればお先真っ暗だ。
 それでも、どういうわけだかレノックスに言われると、それもそうだと思えてしまうのだ。彼の言葉にはそういう不思議な力が宿っているような気がした。
「そうですね」
 そう返した言葉には投げやりな気持ちは微塵もなかった。本心から、レノックスの言葉に同意していた。
 空の色は一層深みを増し、ちかちかと小さな星が粒のようにまたたいていた。月影さやかな夜だ。太陽が沈んで間もないのに、もう空にはくっきりと月が浮かんでいる。
「レノックスも南の国に移住を考えたりしているんですか?」
 ふと思いついた問いを口にすれば、レノックスは不思議そうに「え?」と聞き返す。
「移住? 俺が?」
「あ、すみません。ただ、近頃そういう話をちらほらと聞くので。ほら、あの大魔女のチレッタ様も近々こちらにみえるとか」
「チレッタ様が……」
「ご存じありませんでしたか?」
 直接面識があるかは別として、チレッタ様はフィガロ様と同様世界中にその名を轟かせる大魔法使いだ。レノックスだって知っているはずだった。世界中を旅している彼ならば、チレッタ様とだって面識があるかもしれないと思っての言葉だったが、レノックスはどうにもぴんときていないようだった。
「あまり情報が早い方ではないからな。人探しをしている以上、それではいけないとも思うんだが」
「人探しを……」
「そう。君の兄弟子を」
 と、話題がふたたび兄弟子ファウストのところに戻ってきたところで。
「レノックス、ナマエ」
 淡い闇の中から、フィガロ様が私たちの名を呼ぶ声が聞こえた。少し遠くに視線を投げれば、フィガロ様が灯りを片手に私たちの方へと歩み寄ってくるのが見える。
「なかなか戻ってこないと思って見に来てみれば、これはまた珍しい取り合わせだね。ふたりで俺の悪口でも言って盛り上がってた?」
「そういう話はしていませんでした」
「分かってるって、冗談だよ」
 レノックスの真面目な返事に、フィガロ様は片眉を下げて苦笑いをする。何でも冗談めかして話すフィガロ様と、堅物であまり冗談を言わなさそうなレノックス。彼らが普段どんな会話をしているのか分からず、なんとなく不思議な気分になる。
 と、フィガロ様の視線が私に向く。外で修行もせず時間を潰していた釈明を求められているのだと気付き、私は大慌てで口を開いた。
「レノックスに相談をしていたところです。どうしたら魔法がうまく使えるようになるのかなって」
 途端にフィガロ様は呆れかえったように目を細めた。
「……おまえ、師匠をたよらずレノックスをあてにするなんて浮気性を、よくも悪びれもせず堂々と俺に言えるね」
「えっ、え!? ああっ、す、すみません」
「フィガロ様……」
「いいけどね、それだけ必死なんだろうってことは分かってるし。それで、何かいいアドバイスはもらえたの? どうなんだい、レノックス」
「フィガロ様が直接教えている弟子に、俺なんかが助言できることはありませんよ」
 レノックスがしれっと答える。そもそもレノックスにはアドバイスを求めていたわけではなかったが、意外にも彼は口裏を合わせてくれた。おそらくファウストの話を聞いていた、とは言い出しにくい、私の心情を汲んでくれたのだろう。
 フィガロ様は暫し、もの言いたげに私とレノックスを交互に眺めた。しかし途中で面倒になったのか、「まあいいや」と話題を切り上げると、
「ナマエ、さっき隣村から連絡があったよ。産み月が近い母親の調子が芳しくないから、できれば予定より早く一度様子を見に来てほしいって」
 フィガロ様の言葉に、私は「ああ」と声を漏らす。この辺りはもちろん、近隣の医者のいない村にも出向き身重の女性たちを見て回るのがここ二年ほどの私の仕事でもある。産婆の代わりとしてはもちろん、産婆とは別に、私が医者の端くれとして呼ばれることもある。お産や妊娠中の状態が不安定なとき、人間の産婆だけでは手に余ることも往々にしてある。
 フィガロ様の言う母親というのは、双児を出産予定の母親のことだろう。双児の出産は通常以上に危険が伴うのみならず、母親が小柄で腰も細い。私も普段以上に気に掛けていた。
「分かりました。それでは今日は夕飯の支度もありますし、明日の朝にでも──」
「夕飯くらい俺が自分でどうにかするよ。レノックス、せっかく南くんだりまでやってきたんだ。たまには食事に付き合うくらいはしていくだろ? 積もる話もあることだし」
 フィガロ様に話を振られ、レノックスが静かに首肯する。
「フィガロ様が仰るのなら、ぜひお相伴にあずからせていただきます」
「そういうことだから、ナマエ、早めに行ってあげなさい」
「それでは、早速行ってまいります」
 フィガロ様とレノックスに頭を下げると、私は荷物をまとめるために家の中に戻る。まだ産み月にはなっていないものの、万が一ということもありうる。お産の準備をひと通り備えた鞄を箒の柄に引っかけると、夕食代わりにパンを咥えて、私は隣村へと飛び立った。

 ★

 ようやくフィガロ様の家へと帰り着いたのは、翌日の昼を大幅に過ぎた頃だった。へろへろと力なく玄関を開けようとすると、私の帰りを予期していたように中から扉が開く。
「おかえり、ナマエ。その顔を見ると随分大変な夜だったようだね」
「はい……本当に……」
 出迎えてくれたフィガロ様は楽しそうに笑っていたが、むっとする気力もない。せいぜいが力なく返事をするくらいだ。
 昨晩私が隣村につくと、なんとすでにお産は始まっていた。産み月よりも早かったせいで夫は漁に出たまま戻っておらず、家族も誰もいなかった。訪ねた家の中では腹の大きな母親がただひとり、意識も朦朧とした状態で床に倒れていた。
 一瞬最悪の事態を想定して気が遠くなりかけた。魔法使いや魔女といえど、腹の子や母親が死んでしまったときには手の打ちようもない。それでも、間一髪で間に合った。私が間に合い母子が一命ならぬ三命を取り留めたのも、すべてはあの時私を送り出してくれたフィガロ様のおかげだ。
 そこから先はとにかく必死だった。腹の子がふたりとも外に出てきたのは明け方近くなってからだ。その出てきた子供が産声を上げるまでにまた一苦労。どうにか母子三人の状態が落ち着いたのは太陽が随分と高くまで上ってからのことだった。
「やっと落ち着いたので、薬草だけ出して後は産婆に任せてきました。何かあったらまた呼んでもらうことになっています」
 そうしてそのまま身体を引き摺るように部屋の中へ入ろうとすると、フィガロ様が「待った」と私を呼び止めた。その目には珍しく労わりの色が滲んでいる。
「今日はもう眠ってしまったらどう? さすがにそんな顔をしている弟子をこき使ったり修行させたりはしないよ」
「いえ、大丈夫です。というか、気持ちが昂ってしまって」
「それじゃあお茶を淹れてあげよう。座って待っていなさい」
 有無を言わさぬ指示に、身体がいつもの癖で従った。ダイニングの椅子に腰をおろすと、途端にどっと疲れが押し寄せる。もう二度と立ち上がれないのではないかというほど、全身が重く椅子に沈む。
 ほどなくしてフィガロ様がお茶の用意を手に戻ってきた。フィガロ様がお茶を用意するときには大抵魔法でどうにかしてしまうのに、今日は手ずから用意してくれたらしい。
「レノックスはもう行ってしまわれたんですか?」
「ついさっきね。君によろしくって言っていたよ」
「そうですか……」
 どうぞ、と差し出されたお茶に口をつける。ほんのりとした苦味が心地よく、やっと帰ってきたのだと思うと心の底から安堵した。
 魔法の修行も大変だが、医者の真似事をしながら産婆の役割をするのは別の負荷がかかる。二百年生きたところで、人が生まれつくあの瞬間に感じる思いは、その場に居合わせる人間たちと寸分の違いもないはずだ。
 たとえ生まれたばかりの命が私より先に逝くと分かっていても、人間が生まれる瞬間の緊張と幸福、安堵と感動が薄まる理由にはならない。
 しかし、それもまた私が未熟だからこそなのかもしれない。フィガロ様はきっと、私と同じように人間の誕生を受け止めはしないだろう。私がフィガロ様の言うところの弱い生き物だからこそ、ひとつひとつのお産に対して私はこれほど緊張し、喜ぶのかもしれない。
 弱くなければ。兄弟子ファウストのように優秀な魔法使いであれば。こんなことは思わないのかもしれない。
 疲労した頭でそんなことを纏まりなく思考した、そのとき。
「別に、ファウストのように優秀であってほしいなんてこと、俺は君に思ってはいないよ」
 私の思考を読んだかのようなことを言うフィガロ様に、思わずはっと目を見開いた。重たい瞼を押し上げれば、フィガロ様は苦い笑みを浮かべて私を眺めている。
「レノックスから聞いたんだ。君がファウストのことを気にしているって。そういえば俺はファウストとのことを君にまともに話したことがなかったし、兄弟子が建国の英雄ともなれば君が気負ったり自分と比べたりするのも当然だ」
 悪いことをしたね、と。穏やかな調子で発するフィガロ様に、何と言っていいのか分からなかった。そんなことはない、とは言えない。何故なら私はこれ以上ないほどに、かつて存在したはずの兄弟子のことを気にしていた。
「たしかにあの子は優秀だったし、君は本当に、魔力の量と飛ぶこと以外はてんで駄目だし、俺の弟子は君たちふたりだけなんだから、どうしたって比較はしてしまうけどね」
 フィガロ様は自分のカップに砂糖をひとつ落として続ける。
「五年前、君がここにはじめてやってきた日に、俺は弟子とりにはもう懲りたって話をしただろう。あれは本心。ファウストは優秀な弟子だったけど、結局別々の道を行くしかなくなった。俺とあの子じゃ、決定的に見ているもの、追いかけているものが違ったからね」
 黙って聞いている私の胸が、小さく激しく、たしかに痛んだ。
 中央の国に今の王朝が建って、すでに二百年以上が経過している。フィガロ様の弟子が建国の英雄となったのは、今からもう二百年以上も昔のことなのだ。それなのにフィガロ様の言葉からは今も、弟子を手放したばかりの虚ろな心が生々しくにおう。それは多分、フィガロ様自身が蓋をしている傷跡のにおいだ。正しく治癒もされないまま、傷は傷として放置されている。
「俺はね、ナマエ。今度はもう同じ失敗をしたくないんだよ。ファウストと同じような優秀な弟子を育てるだけ育てて、結局手元に何も残らないっていうのはさ、やっぱり師匠甲斐もないというものだろ?」
 フィガロ様の口調は軽やかだ。冗談めかして、適当に茶化して。そうして日々を営んでいく、やり過ごしていく口調。私はそれを二千年の道程の中で染みついた、フィガロ様の癖のようなものだと思っていた。けれどもしかしたら、その考えは間違っていたのかもしれない。
 何故ならフィガロ様が口にした言葉は、恐らく本心などではなかったから。冗談めかして本心を隠したのではない。そこにある生々しい本心に蓋をして、理屈をつけて冗談めかした嘘だ。
 フィガロ様はファウストと訣別なんかしたくなかった。それでも、ファウストはいなくなってしまったのだ。仔細は分からないけれど、何か決定的なかけ違いがあった。フィガロ様はそのことに、きっと傷ついている。二百年経った今でも、傷が傷のまま残ってしまうほどに。
「君だって、いつかは自分の故郷の土地を取り戻し、そこに帰る。それは分かってるけどね」
「私は──」
 思わず、反論の声を上げそうになった。
 フィガロ様をひとりになんてさせはしない。何もできない、どうしようもない弟子だけれど。それでもフィガロ様さえ望んでくだされば、私はずっとフィガロ様のおそばにいてさしあげる。どれほどの長い時間を経てもなお、弟子としてフィガロ様に師事し続けるのに──
 そんな言葉を口走りそうになったところを、どうにかすんでのところで思いとどまった。たとえ私がそう思ったところで、そんなものはフィガロ様の救いにも、傷口を塞ぐ薬にもなりはしない。フィガロ様が訣別したくなかった相手はファウストであって、私ではないのだ。私ではフィガロ様のおそばに仕え続けるただひとりにはなれない。
 フィガロ様は私のように才も力もないものを求めてはいない。
 自分自身にそう言い聞かせ、私はぐっと唇を噛んだ。今が疲れ果てた夜の後でよかったと思う。涙を流す気力すら残っていないことだけが、この場での唯一の私の救いだった。
「私は……、私はただ、フィガロ様が誇れるような弟子になりたいです。優秀な魔女にはなれないかもしれませんが、これからもご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
 固い響きの私の声に、フィガロ様は薄く笑う。その笑顔もどこか疲れ、倦んでいるように私には見えた。
「さて、だいぶ顔色がよくなったね。今ならベッドに入れば眠れるんじゃない? お湯を浴びてさっさと寝てしまうといい。夕飯は俺がどうにかするから」
「いえ、それまでには起きて私が支度をします」
「頑固な子だなぁ」
 いつもの調子で言葉を交わす。
 二千年を生きる魔法使いと、二百年を生きる魔女。生まれたての赤ん坊のように声を上げて泣くこともできない私たちは、そうして距離をとりあい生きていくしかない。

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