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薄いまどろみの花床

 私の身体が回復するのを待つあいだ、フィガロ様はご自身の自宅兼診療所のすぐそばに、ささやかな小屋をつくってくれた。そばといっても、本当に目と鼻の先に建てられたそれは私の寝起きするための離れのようなものだ。どうやら私に帰る場所がないと知り、当分ここを離れるつもりがないことも理解してくださったらしい。
「母屋と離れというほど、立派な建物でもないけどね。流石に年頃の女の子を同じ屋根の下に住まわせると、いろいろと外聞が悪いから」
 と、そういうことのようだ。偉大な北の魔法使いであるフィガロ様が人間たちに対する体裁を気にするのも不思議だが、南の国でのフィガロ様はそういう事情を楽しんでいるようでもあったから、私は何も疑問を口にすることもなく諾とそれを受け容れた。住む場所を用意してもらえるなんて思ってもみなかったことだ。
「キッチンなんかはこっちの家のものを使ってもらって構わないよ。寝起きするくらいしかできないようなところだけど、必要ならば自分でものを増やしてもらってもいい。まあ、そう長居されても困るから、できればそう物を増やさないでもらえるとありがたいけどね」
「ありがとうございます。毛布一枚あればそれで十分です」
「いや、牢獄じゃないんだから。さすがにもう少し居心地を考えた方がいい。身体はもう動く?」
「はい、すっかり元気になりました」
「それは重畳。あとで近所の家に挨拶に連れて行ってあげよう。こういう場所だから、顔見知りとの助け合いは必須だよ」
 掘っ立て小屋のような小屋にほんのわずかな荷物を移すと、その日の午後は箒にまたがり挨拶をして回った。私はフィガロ様のもとを訪ねてきた親戚の魔女ということになっているらしい。はからずも姓が同じであったこと、そしてフィガロ様が日頃から人々に信頼される振る舞いをしてきたことで、私はすんなりとこの国に受け容れられた。
 翌日からは床上げをし、フィガロ様の身の回りのお世話や診療の手伝いを始めた。

「そこにある薬草の瓶をとってくれる? それからそっちのピンセットも」
「ええと……」
「棚の右端、緑の瓶」
「あっ、はい」
「それと脱脂綿がたしかそこの棚に」
「これですか?」
「その横だね」
「すみません、どうぞ」
「ありがとう」
「あら、水が甕にもうないですね。汲んできます」
「井戸の場所は分かる?」
「大丈夫だと思います」
「今日は迷子にならないように気を付けて水を汲んでくるんだよ」
「ぜ、善処します……」

・・・

「ただいま、ナマエ。今日の昼食は何?」
「三軒隣の奥さんからいただいたお芋でつくったスープとパンです。果物も剥きますか?」
「いや、いいよ」
「夜は魚を焼こうかなと。いただきものですが」
「君がここで働くようになってから、前よりも貰い物をする頻度が増えたなぁ。ご近所とうまくやってるようで何よりだよ」
「魔法が使えないのでお役に立てることは少ないんですけど、野良仕事の手伝いは楽しいです」
「そんなことしてたんだ? 診療所の手伝いもしてるのに?」
「フィガロ様が往診でいらっしゃらないときだけです」
「北の国の魔女というわりには随分社交的だな。やっぱり人間と一緒に育つとそうなるのかな」
「どうなんでしょうか。ほかの魔女のことをあまり知らないので……」
「そういえば、暮らしの中で足らないものはない? もしもあったら、明日は市が出るからそこで買ってこよう」
「市ですか」
「小さなものだけどね。連れて行ってあげるから、道順を覚えるんだよ」

・・・

「往診先で、君の結婚話が出たよ。隣町の青年が、買い出しに出ていた君を見て一目ぼれしたらしくって。フィガロ先生さえよければぜひって」
「ええ? わ、私はそんな話で名前を出していただけるような立場では──」
「だけど二百歳を超えてるよって教えてあげたら、謹んで辞退させていただきますって言われちゃった」
「そ、そうですか……」
「どうかした? もしかしてショックなの?」
「そんなことはないですけど……。というか古来、魔法使いや魔女が嫁とり婿とりをするなんて生贄か何かの話ばかりと思っていましたけど、この国ではそうではないんですね」
「まあ、そもそも南の国には人間に悪さをするような魔法使いがやってこないし、それに魔法使いよりも自然の厳しさの方が恐ろしいからね。生贄というよりは、魔法使いを如何にこの地に根付かせて逃がさないようにするかなんじゃない?」
「そんな下心のある方々には見えませんが」
「もちろん、今のは俺の勝手な憶測。それにもしも今言った言葉が事実だとしたら、ナマエが二百歳を超えていようが結婚に年齢なんて関係ないって話にならなきゃ」
「たしかに。それもそうですね」
「あーあ、俺にも来ないかな。いい縁談話」
「フィガロ様は奥さんをお迎えしたいのですか?」
「いや? ただ日常に刺激が欲しいなってだけ。あと可愛い女の子が日々に彩りを与えてくれたら嬉しい」
「……」
「別にナマエを悪いっていってるわけじゃ」
「買い出しに行ってまいります。ついでにトマトの収穫を手伝う約束もあるので、夕方まで戻りません」
「トマトの収獲なんてもうこの時間終わって──」
「行ってまいります」
「……はーい、行ってらっしゃーい」

・・・

「明日の夜あたりには嵐が来そうだね。食糧を用意しておかないと」
「周りの家の方々にも注意をして回りますか?」
「そうだね。でもそっちは俺が行くよ。俺が行った方がついでに何かしらの用事を頼まれたときに手っ取り早いから」
「分かりました。いつものように診療所で嵐が過ぎるのを待つ方もいらっしゃいますよね? そういえば渡し舟の家の奥さんが」
「ああ、そろそろ赤ん坊が生まれるころか。念のため家族そろってここで夜を明かすように言っておかないと」
「そうですね。それに明日の夜は満月ですから」
「ああー。嵐と満月が重なるのか。生まれそうだなぁ……」
「産婆の奥さんにも一応声を掛けておきます」
「そうだね、そうしよう。そういえばお産の手伝いの勉強もしてるんだっけ?」
「まだまだですが……」
「産婆も年だからね。君がお産をとれるようになったら助かるだろう」
「が、頑張ります」

・・・

「フィガロ様、渡し舟の家の子がもうじき一歳なのでお祝いの席に出てほしいと手紙が届いていますよ」
「もうあれから一年か。あとであの辺りに往診に行くから、そのときに出席の返事をしよう」
「あと先ほどチレッタ様がおみえになって」
「えっ、チレッタが来てたの?」
「移住の話を聞きたいから、時間を作って北の国に顔を出すようにって」
「待って。来て、そのうえもう帰ったの?」
「……北のミスラに空間を繋げさせて、私に用件だけ言付けて帰っていかれましたよ」
「なるほど、そういえばその手があったか。それにしても移住か。俺がいうのも何だけど、チレッタほどの魔女がこの土地に馴染めるかな」
「案外どうにかなるものでは? チレッタ様はお優しい方ですし」
「ナマエには優しいよね。身寄りのない魔女ってところで思うところでもあるのかな」
「ありがたいことですけどね」
「チレッタの話はともかく、祝いの席には君も出るんだろう?」
「一応、お声は掛けていただいています。フィガロ様にお伺いしてから返事をしようかと」
「もちろん行くべきだよ。だって、君が取り上げた最初の赤ん坊じゃないか」
「……そうですね」
「君とふたりで出席しますと言っておくよ」
「よろしくお願いします」

・・・
・・・・・

 その年の雨季は長かった。それだけでなく、大きな嵐が息つく間もなく立て続けにやってきて、フィガロ様の診療所を訪れる者の数も日に日に増えていった。
 私が生まれ育った北の国もそうだが、南の国もまた、今なお自然のちからが強い。
 北の国の自然の恐ろしいところは、常に白銀に覆われた静謐さと狂暴さが共存しているところだ。美しくて、荒々しい。静かだと思い見惚れているうち、どっと押し寄せた雪崩れに飲み込まれてしまう。
 南の国はそれとは違う。南の美しさは音も色彩も豊かな美しさだ。しかし前触れのなさでいえば、やはり北も南も同じようなものだろう。
 数日前まで地上の楽園かと思われたような土地でも、ある日突然自然に牙をむかれる。人々にできることはといえば十分すぎるほどに備えをし、ただ嵐が去るのをじっと待つのみだ。それでも時には、そこに住む人々の命が奪われることだって当然ある。
 今年の雨季は、奪われた命の数が多かった。

「いつまで落ち込んでいるつもり?」
 朝、キッチンに立つ私の背に向けて、いつのまにか起き出してきたフィガロ様が呆れの滲んだ声を投げかけた。のろのろと振り返れば、どこか膜を張ったようなはっきりしない視界の中にフィガロ様の姿が浮かぶようにうつる。
 ぎぃと床がきしむ音がする。フィガロ様が、一歩また一歩とこちらに歩み寄った。
「まったく。君も人間以上には永く生きている魔女なんだから、人間の死を見送るのははじめてじゃないだろう?」
「そう、ですけど」
「そりゃああの子はまだ小さかったし、何より君が最初に取り上げた赤ん坊だったから。悼む気持ちも普通以上に大きいことは俺にも分かるよ。だけど、もう一週間じゃないか」
「まだ一週間です」
「そんな子供のようなことを」
 フィガロ様の声は、咎めるというには優しく、慰めるというには冷たかった。
 南の国にやってきて、私はお産を助けるすべについて学んだ。最初からそういうつもりでいたわけではなかったが、何となくそういう成り行きになったのだ。フィガロ様のもとには病人だけでなく身重の女性も時折顔を出していたし、そういうとき、男性のフィガロ様よりも私の方が気安かろうという思いがあった。
 此度の嵐で、私がはじめてお産をとった男児が命を落とした。嵐の晩に生まれた、渡し舟の家の息子だ。もうじき二歳の誕生日を迎える直前で、ようやく少しずつ言葉も話せるようになってきていた頃だった。
 私は彼のことが大好きだった。
 幾多の命のおわりを見てきたけれど、命のはじまりにこの手で触れたのは、彼が生まれたときがはじめてだった。小さいいのちとこれほど濃密に触れ合ったのは、あのときがはじめてだった。
 私は彼のことが、大好きだったのだ。
 目元に涙が盛り上がるのが視界の滲みで分かった。慌てて手の甲で目元を拭う。
 火をつけたコンロが一人でに消えたかと思えば、フィガロ様が溜息まじりの呪文で私の手からボウルと泡だて器を取り上げた。
「こっちにおいで、ナマエ。朝食の用意はいいから」
「でも──」
「いいんだよ。今日は往診もないから。瓦礫の片付けも昨日までで一段落ついているしね。朝食なら魔法でどうにかするよ。とりあえず、お茶をいれよう」
 矢継ぎ早に言われ、私はキッチンを後にする。フィガロ様の指示には逆らってはならない。自分に課した決まりは、こんなふうに心が疲れ切っているときでもなお、身体を無理やり動かしてくれる。
 普段食事はダイニングのテーブルでとるのに、フィガロ様は「天気がいいから」とリビングの続きにあるサンルームに私を誘った。昨年増築したこのサンルームは、近隣の住民が診察のついでにフィガロ様と世間話をしていくのに重宝していた。
 まだ暑すぎない朝の陽ざしが、サンルームの中の空気を適度にあたためていた。
「カップはこれにしよう。君が気に入ってるものだから」
 そう言ってフィガロ様が魔法でいれてくれたお茶は、私が自分の手でいれたお茶とほとんど同じ味がした。勧められるままカップに口をつければ、熱い液体が喉を落ちていくのに合わせて、心が少しだけ落ち着いていくのが分かる。
 悲しみも、苦しみも、解けて胸の中に落ちていく。
「三年」フィガロ様が、静かに切り出した。
「ここで三年君をあずかっているけれど、君は本当に、魔女とは思えないほどに弱い生き物だ」
 フィガロ様の言葉は至極当たり前の事実だった。
 この三年、私は魔法の修行など何ひとつしていない。三年のあいだに私が使った魔法といえば箒で空を飛ぶことくらいで、自分でも笑ってしまうくらい、私は魔女らしさを捨て去っていた。まだしも北の国にいた頃の方がまじないなどで不思議の力に触れていたくらいだ。
「弱いことは自分が一番分かっています。ですからこうして、フィガロ様のおそばで勉強させていただいているのです」
「弟子をとった覚えはないけどね」
 さらりと呟き、フィガロ様もひと口お茶を口にした。
「この三年、俺はナマエにいろいろなことを教えたよ。人間の生活の営みも、そこに関わって生きていくすべも、魔法使いとしての人間との関わり方も。薬草の扱いや知識なんて、きっともう俺の持つ知識のすべてを教えて終えたんじゃないかな」
「すべて……つまり、破門、ですか」
「そうじゃない。大体、弟子じゃないのに破門も何もないよ」
 フィガロ様が苦笑した。
「俺は君に、このままずっと弱い生き物のままでいてほしいんだ。弱い生き物は、弱い人間たちとうまくやっていけるから」
「だけど私は、」
「うん、分かってるよ。君は強くなりたいんだろう。故郷の土地を取り戻すために」
 そう発したフィガロ様の瞳は、何故だかひどく寂しそうだった。
 私はフィガロ様の弟子になることを望んでいるが、それは自らの目的のための手段にすぎない。私のごとき木っ端のような魔女が、偉大な魔法使いであるフィガロ様のおそばにいつまでも侍るものではないということくらい、とうに弁えてる。
 それでもこの三年をフィガロ様と過ごし、時々考える。これほどまでに強大な魔法使いであるフィガロ様。師匠も弟弟子も北の国に残し、過去にただひとり育てた弟子は二百年も前に手元を離れた。
 この人のおそばには、誰が一緒にいられるのだろう。
 人間たちは皆フィガロ様より先に死んでいく。この地に住まう魔法使いたちとて、フィガロ様と対等に並び立つことなどできはしない。
 この人はきっと、ずっとひとりだ。
 私が今胸を痛めている死別の苦悩など、何度も何度も味わって、そうしてひとりきりでいる。
「俺は永く生きているし、強い魔法使いでもある。だから時々、君のような、人間のような弱さが疎ましくなる。人間の子供ひとりが死んだだけで、どうしてそう長く悲しんでいるんだろうって思うと、腹立たしくも思うよ。そんなことで心を痛めていたら、だって生きていくのがつらいから。永い一生の中でそんな別れが何度もあるのに、ひとつひとつを悲しんでいたらきりがないじゃないか」
 だけど、と。フィガロ様は眉を下げて笑う。
「だけど、本当の意味で人間と生きていくっていうのは、きっとそういうことなんだろうなとも思う。だから困るよ」
 フィガロ様の瞳が、どこか遠くを見つめている。私の知らない景色を見つめている。子供ひとりの死を悼む思いも、フィガロ様にはもう分からない。もしかしたら太古の昔には知っていたのかもしれない感情を、今のフィガロ様の胸のなかに見つけることはできない。
「ねえ、ナマエ」
 フィガロ様が囁くように私に問う。
「もしも君があの子どもの死の悲しみを忘れたいって言うのなら、俺にはしてやれることがあるよ。あの子のことを忘れさせるでも、悲しみだけを取り除くでも、遣りようはいくらでもある。ナマエはどう? 俺に手を貸してほしい?」
 フィガロ様の囁きは、毒のようにやさしい。
 けれど分かっているのだ。フィガロ様は弱い生き物が、人間が生きられなくなるような毒をけして許しはしない。こうして私の目のまえにそれをぶら下げてみたところで、フィガロ様は私がその毒を求めることを許さない。
 私は暫し、滲む視界にフィガロ様を映し続けていた。サンルームに降り注ぐ光はあたたかい。本当は誰も命を落としてはいないんじゃないだろうか。本当は何も、悪いことなど起きていないんじゃないだろうか。そんな錯覚が、胸の端にひらりと過ぎる。
 あの小さな手のひらは、産湯の中で泣いていたままのあの子の顔は、今もまだ変わりなく笑っていてくれるんじゃないだろうか。今もずっと、きっと、そこに。

 どれほどの時間が経ったのだろう。気付けば頬を伝った涙が乾き、頬がはりはりと乾燥していた。フィガロ様は何も言わずにそこにいてくれる。私はゆるりと首を横に振った。
「いいえ、フィガロ様。私がフィガロ様に何か願ったとしても、けしてそのようなことを望んだりはしません」
「そう」フィガロ様は、ただ穏やかに微笑んだ。
「それじゃあ、ほかに望みがあるのかな」
「願いがあるとすれば、ひとつだけ。フィガロ様さえよろしければ、もう少しだけ、こうしておそばにいてもらえませんか」
「そばに?」
「弱い私の悲しみは、フィガロ様には分からないかもしれません。疎ましくて、腹立たしいのかもしれません。それでも、少しだけ一緒にいていただけますか。そうしたら、きっと大丈夫になりますから」
 偉大な魔法使いの貴重な時間を寄越せなど、ともすれば悲しみを消し去ってくれと願うよりもずっと、大きな願いだったのかもしれない。フィガロ様ほどの魔法使いにとっては一時の魔法で感情を消し去る方が、魔法もなしに長くこの場に留められるよりもずっと手軽だったはずだ。
 それでもフィガロ様は、嫌だとも駄目だとも言わなかった。
「いいよ。俺でよければそばにいてあげる」
「……ありがとうございます」
「朝食はやめて、ブランチにしちゃおう。それまでもう少し、ここでお茶をするのも悪くないね」
 北の偉大な魔法使いフィガロ様は、そうしてやわらかく、朝の陽ざしの下で笑った。

 ★

 そのサンルームも、今年の嵐で飛ばされてきた大岩の直撃を食らったようで、一夜明けて見に行ってみるとなかなかの惨状になっていた。
「今年の嵐もまた凄まじかったなぁ。さすがに二年前ほどじゃないけど、ここのところはなんだか気候が安定しないね」
 サンルームの惨状に顔を顰めながら、フィガロ様が呻く。
「ナマエの部屋の方は大丈夫だった? 昨晩は診療所の方に詰めていただろ?」
「さっき見に行ってきましたけど、半壊していましたね。今年はちょっと危ないなと思って、夕方のうちに荷物は全部引き上げてあったので、私物に被害はありませんでしたが」
「あーあ……そうか。まあ、あの簡素な造りでよく五年も保ったなとも思うけど」
 フィガロ様の言葉に私は苦笑して頷いた。
 私が南の国にやってきた頃に急ごしらえで作った小屋は、実際に生活をしてみると寝起きをするにもなかなか不便なものだった。夏は蒸すし冬は寒い。どうしても耐えがたい夜には諦めて、診療所やフィガロ様の住まいの簡易ベッドで過ごした。
 それでも、押しかけてきた身なので贅沢は言えない。風が吹けば揺れるような造りの小屋を、人の手を借りつつ修繕に修繕を重ね、どうにか五年も寝起きの場としてきた。
「今はどこも大変でしょうけど、このままにしておくわけにもいきません。修繕をしますので、フィガロ様にもお手伝いいただけますか? もしお忙しいようでしたら、近所の方に手伝ってもらって自分でどうにかしますが」
 溜息まじりにフィガロ様のご機嫌を窺う。大きな背丈と尋常ならざる魔法の腕を持ちながら、フィガロ様は日曜大工のたぐいを結構嫌がるのだ。毎度の小屋の修繕も、気分次第ではまったく手伝ってくれないこともしばしばだった。
 しかし意外にもフィガロ様は機嫌よさげに、
「その必要はないんじゃない?」
 と笑っている。魔法でサンルームの片づけを始めると、その片手間で私にこう言った。
「よくもまあ、五年も俺の助手に徹したものだよ。いや、実際には助手以上の働きをしていたかな。この頃じゃ小さい子や身重の奥さんはみんな君の方の診察にかかるし。フィガロ先生のところにやってくるのは年寄りばかりだよ」
「ええと、フィガロ様……?」
 話の流れが見えず、私は困惑する。フィガロ様は「だからさ」と手を打った。
「俺の負けだよ。よく五年も頑張ったね。ナマエのことを、明日からはちゃんと俺の弟子として扱おう。壊れてしまった小屋は片づけて、空いている部屋に引っ越しておいで。そうだ、診察室の横なんてどうかな。あそこが多分、一番片付いてるし日当たりもいいよ。キッチンにも診療所にも近いから何かあっても俺が呼び出しやすいし……って、あれ? ナマエ?」
 楽しそうに話していたフィガロ様が、ふいに言葉を切って私の顔を覗きこむ。そうしてまた、眉を下げて微笑むと、
「それとももう、弟子になんてなりたくないかな。待ちくたびれて、ほとほと嫌になっちゃった?」
 私は慌てて、ぶんぶんと首を横に振った。そんなはずはない。この五年間、ずっとフィガロ様の弟子にしていただくために頑張ってきたのだ。魔法の練習をしていなかったのだって、フィガロ様に認めていただくまでは魔法以外の努力をしようと決めていたからだった。
「そんなことはありません。弟子にしていただけるなんて、これ以上なく名誉なことです。だけど……」
「だけど?」
「今日までの五年だって、これ以上ないほどに幸福だったんです。それなのに、これ以上の幸福にどう感動したらいいものか分からなくて……」
 途端にフィガロ様が声を立てて笑った。
「甘いなぁ。今日までのナマエは助手だけど、ほとんどお客さんみたいな扱いだったんだよ。明日からは正真正銘俺の弟子だ。今よりずっと厳しくするからね」
「か、覚悟は決めています……!」
「頑張ってね。君を弟子にとると決めた俺をがっかりさせないように」
 さしあたっては、小屋とサンルームの片づけをしよう、と。フィガロ様は弟子となった私に、最初の指示を与えた。

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