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挿話・傷痕一つ、身体は二つ

 仕事柄、人の暗い顔を見ることには慣れている。呪う者も呪われる者も、大抵は辛気臭い顔をしているものだし、そんな状況でへらへらしているやつがいるとすれば、そいつはすでに気が狂っているのだろう。気が狂った者は呪いを頼らない。呪いとは、回りくどくて面倒なものだからだ。
 斯くいう自分も、ここ数百年はずっと辛気臭い顔をしている。魔道具の鏡が己の顔を映すたび、日に日にかつての面影が失われていくような気がしている。
 とはいえ、僕は実際辛気臭いたちをしているし、見掛け通りの魔法使いではある。
 しかしこの、今にも泣き出しそうな顔をした、お世辞にもしゃんとしているとは言い難い女性が、二百年もの間あのフィガロの弟子をしているとは──
 偉大なる魔法使いであり、最低最悪の男の弟子と聞いて想像していたのとは随分様相の異なる女性を前に、僕はしかし、いつも通りにうんざりした心持ちになっていた。

「わ、私はたしかに、ほとんどすべての事柄で、あなたに劣っています。何ひとつあなたより優れた部分などない、くだらなくてつまらない魔女です」

 魔法舎の中庭に見慣れない者がいたのだ。魔法舎はつい先日も、中央の兵によって火を放たれかけたばかりだった。そんなときに不審者とあれば、さすがに看過することはできない。
 近寄って声を掛けようとしたところで、向こうも僕に気がついた。僕にとってははじめて見る顔でしかなかったが、向こうは僕のことを知っていたらしい。
「ファウスト、様……!?」
 畏敬や畏怖というよりは、単純に驚嘆と、そしてかすかに漂う程度の好奇心。向けられた視線からは僕の過去を知っていそうな気配がして、咄嗟に自分の迂闊さを呪った。やはり見も知らぬ人間に、話しかけてみようなど思うべきではなかったのだ。
 しかし、気付かれてしまったものは仕方がない。人違いだと言い逃れるのも難しそうな視線を受け、渋々と僕は「そうだ」と返事をした。「だから何だ」、とも。
 もはや、開き直ったとも言える。だが、これが第二の過ちだった。ここで無理やりにでも人違いだと主張し続ければ、少なくとも今僕が陥っているような面倒な状況にはならなかったのかもしれない。
 フィガロの弟子と名乗る女は──実際フィガロが南の国で新たに弟子をとったことは、レノックスから聞いて知っていた──結果、挨拶もそこそこに僕に謂れのない恨みつらみをぶつけてきているのだった。
 恨みつらみ、それにヒースクリフを彷彿とさせるような、「私なんて」。何故僕がこんな話に付き合わなければならないのか、弟子なら師匠のもとへ帰れと言いたいのもやまやまだったが、何となくそう突っぱねることもできず、僕は彼女に付き合う羽目になっている。
 何故突っぱねられないのか、自分でもその理由はさだかではない。彼女がフィガロの弟子だから、だろうか。かつて自分が身を置いていた場所に、後釜としてやってきた頼りなさげな魔女。まったく興味がないと言えば、嘘になる。今更あの男がどんな弟子をとろうが構わないが、人畜無害そうな女性が──今まさに恨み言を吐かれている僕がそう評するのも可笑しな話だが──フィガロとどうして師弟生活を成立させることができているのか、多少の興味があった。
 どこに腰を落ち着けることもなく、中庭で向かい合って突っ立ったまま、僕は彼女の話をむすりと聞いている。「わ、私はたしかに、ほとんどすべての事柄で、あなたに劣っています。何ひとつあなたより優れた部分などない、くだらなくてつまらない魔女です」。レノックスからはフィガロの弟子は南の国の魔女と聞いたが、先ほどから繰り返される卑屈な物言いは、どちらかといえば東の気風を感じさせた。
 そんなことを考えていると、彼女は気おくれしたような瞳に僅かな敵愾心を滲ませ、やおら一歩、僕の方へと足を踏み出した。
「ですが私は、フィガロ様のおそばを離れようと思ったことは、一度もありませんでした。フィガロ様をおひとりにしようなんて、一度も思いませんでした」
「……置いていったのは、僕じゃなくあいつだ」
 言われっぱなしにしておくのも釈然とせず、ぶっきらぼうに言い返す。
「それでも。私があなただったら、革命軍なんか放り出してでも、フィガロ様を追いかけた。それができない立場だったとしても、四百年一度も会いに行かないなんてことは、私ならばしません。絶対に」
 断固とした主張を聞き、僕はようやく、彼女が僕を敵対視しているらしいと気付く。フィガロに何か吹き込まれたのだろうか。話を聞く限り随分とフィガロを信奉しているようだが、もしもその信奉に僕がいいように使われているのだとしたら、それはさすがに腹立たしい。
「私があなたなら、間違えたりはしなかった」
 自分勝手なことを言い募る彼女に、此方もだんだんと苛立ちが募ってくる。
「そうか。それはよかった。しかし僕は君じゃないし、君は僕じゃない」
 大人げない返事をすれば、彼女は一瞬怯んだ顔をして、それから唇を尖らせた。
「そうです。私はあなたにはなれない。あなたは、私が喉から手が出るほど欲しかったものを全部持っていて、全部捨ててしまったけれど、私はそれを拾うこともできない。ただひとつ、フィガロ様のおそばにいられることだけが、唯一私があなたに勝る強味だったったのに」
 そこでようやく、僕は悟った。
 彼女は弟子という立場でありながら、あのフィガロを恋い慕っているのだ。そうと分かれば、先ほどから妙に突っかかられてることにも合点がいった。たしかに同じ弟子の立場でかつてフィガロを見放した──実際には見放されたのは僕の方だったが、彼女にとっては僕が見放したも同然らしい──僕が、今になって当然のようにフィガロと共同生活を始めている。現役の弟子からしてみれば、業腹で面白くないことなのだろう。
 むろん僕だって好き好んで賢者の魔法使いをやっているわけではないし、できることなら二度とフィガロの顔など見たくはなかった。しかし、そういう僕の事情はこの手の相手には通用しない。
 要するに、八つ当たりをされているのだろう。
 僕がそう考えたのと同時に、彼女もまた自分の発言の不当さに思い至ったらしい。僕が何を言うまでもなく、勝手にばつの悪そうな顔をして、小さくぺこりと頭を下げた。
「……すみません、言いすぎました。今私が言ったことは全部、ただの八つ当たりです。賢者の魔法使いとして此処で暮らすことが、あなたの言い出したことではないことも分かっています。すみませんでした」
 存外素直に謝罪をする。こういうところは、師匠に似なかったらしい。
 許す義理もなかったが、謝られれば許さないのも感じが悪い。
「いや、此方も大人げなかった」
 大して思ってもいない言葉で謝罪を受け容れ、ひとまずはそれで和解と相成った。とはいえ、これ以上話をしても楽しそうな相手ではない。興味を惹かれたのは事実でも、それを上回る苛立ちを覚えるのならば、この邂逅は僕にとって無意味どころか有害でしかない。
「僕はもう行く」
 そうはっきり宣言し、早々にその場を立ち去ろうとしたその時、
「待ってください、ファウスト様」
 彼女が慌てたように、僕を呼び止めた。
「……まだ何かあるのか」
「あの、恥知らずなこととは承知で、ひとつだけお願いがあるのですが」
「……言ってみろ」
「今夜ここで話した内容は、絶対に絶対に、フィガロ様にはだけは口外しないでくださいませんか」
 思わず、がくりと脱力しそうになった。この女は、僕とフィガロの間にある確執について何も知らないのだろうか。フィガロは何も教えていないのだろうか。
 いや、そもそもそんな子供じみたことをよくも堂々と頼めるものだ。半ば呆れ果てて言葉を失う僕に構わず、彼女はあわあわと言葉を続けた。その様子は先ほどまでの八つ当たりをしていた彼女とも違う。素直というより、考えなしなのだろうか。この姿こそが彼女本来の姿に近いような気もする。
「こんなことを言えた立場ではないんですけど……、でも、兄弟子であるファウスト様にこんな悪態をついたことがばれたら、さすがに叱られるだろうと思うというか……。フィガロ様、ご自分はあんななのに、弟子である私の礼儀作法にはわりととやかく言うので……」
「それならそもそも、僕に話しかけなければよかっただろう」
「だって、二百年もあなたと比べられ続けてきたんですよ。ひと言くらい文句を言いたくなるじゃないですか」
 やはり、フィガロからの指導に望まぬ形で僕が利用されていたらしい。脳裏をあの男の食えない笑顔が過ぎり、先ほどからの苛立ちの蓄積がついにピークを迎えた。その憂さを腫らすかの如く、僕は彼女に言い捨てる。
「僕には関係ないことだし、大体どこがひと言だ。思い切り恨みつらみをぶつけていたぞ」
「そ、それは……ついつい……」
「ついついで人に呪詛まがいの言葉を吐くのをやめなさい」
 きっぱりと告げれば、目のまえの彼女がしゅんと肩を落とし、申し訳なさそうにしょんぼり縮こまった。しょんぼりするくらいなら、最初から絡まなければいいものを。フィガロほど図々しくも開き直りもできず、さりとて胸にわいた言葉のすべてを飲み込んでしまうほど、委縮した修行生活を送っているわけでもないらしい。どう見ても魔力の少なそうな彼女が、フィガロのもとでどんな修行生活を送っているのか、何となくだがその一端が透けて見えた気がした。
 単純に、悪趣味だと思った。しかし同時に、多少は彼女を不憫にも思う。フィガロの弟子としてやっていくには、きっと彼女は弱すぎる。魔女としても、生き物としても。
 依然悄然とする彼女に向け、僕はこれ見よがしな溜息をひとつ吐く。そして、
「心配しなくても、僕はフィガロと無用な口を利くつもりはない。言葉を交わさない相手に告げ口なんてできない」
 特に嘘偽りを混ぜることもなく、本心からそう伝えた。顔を上げた彼女が、戸惑うように僕を見上げている。
「それは……」
「それとも何か? 君は僕とフィガロが酒のつまみに君の話をしてもいいのか」
「それは嫌です……」
「決まりだ。君はせいぜい、僕が極力あの男と口を利かないことを願っているんだな」
 今度こそ、それで本当に会話を切り上げるつもりだった。踵を返し、彼女に背を向ける。直後、背の向こうから「やっぱりフィガロ様の一番弟子って感じだったな……」と失礼極まりないぼやきが聞こえ、堪らず振り返った。
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
 知らぬうちにできたという妹弟子は、そう言って取り繕ったような笑みを浮かべた。

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