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さみしいのは誰のせいでもない

 賢者の魔法使いとして、見知った魔法使いばかり四人、中央の都に召喚されることになった。それだけならば、納得できる。今年の<大いなる厄災>は途轍もないものであったのだから、南の魔法使いたちが犠牲となったことも、悲しいが仕方がないと思える。もしも賢者の魔法使いから犠牲が出るようなことがあったとき、それが南の魔法使いとなるであろうことは薄々予想がついていたことでもある。
 彼らはけして弱い魔法使いではなかった。それでも、強い魔法使いでもなかった。年嵩の彼らが年若い他国の同士を庇い命を落とす場面は、たとえその場に居合わせずとも容易に想像がついた。
 四人欠ければ、四人補充される。それが賢者の魔法使いというものだ。欠けた歯をそのままにしておくことはない。まして、次なる<大いなる厄災>に備えるため一刻も早く新たな賢者の魔法使いを召喚することは、中央の都におわすという特別な人──賢者の急務だった。
 分かっている。頭では理解している。
 何もかもが仕方のないことで、非常事態に泣き言など──賢者の魔法使いにも選ばれていない、無関係の魔女が我儘など言ってはいられない。分かっている。すべて、分かっている。

「そういうわけだから、これから最短でも一年、俺は中央の都の魔法舎で暮らすことになる。診療所の方は君にまかせるよ。どうしても俺を頼らなきゃいけないようなときは、遠慮せず連絡を寄越してくれていいからね。普段往診に行ってる村にもそう連絡しておくから、君もそのつもりで」
 魔法舎への引っ越しのため一時的に診療所に戻ってきたフィガロ様は、まるでちょっと出掛けてくるとでもいうように、いつもと変わらぬ調子で指示を飛ばす。足元には旅支度のたびに使っている大きな診療かばん。箱詰めにした日用品の数々は、すでに中央の都の魔法舎への郵送が済んでいた。
 私はといえば、旅支度と片づけを進めるフィガロ様のすぐそばに立ち尽くしている。そんな私を振り返ると、フィガロ様は肩眉だけ下げ、口の端を歪めて笑った。
「聞こえてる? 返事は?」
「……はい」
「ちなみに、賢者の魔法使いの中にはファウストもいるよ。俺より古参なんだって」
「……その情報、いりますか?」
「後から俺以外に知らされたらショックかなと思って。俺の親切な師匠心」
「お気遣い痛み入ります」
 何処が親切だというのだろう。いつもながら適当なことを吹かすフィガロ様に溜息のひとつも尽きたくなる。こちらはいつも通り、ではなく、いつになくじとりとフィガロ様を見つめる。師は表情ひとつ変えることなく、言った。
「四百歳の魔女相手に、ひとりで留守番できるかの確認が必要かな」
「……なんで」
「ん?」
「なんでそう、意地の悪いことをおっしゃるんですか」
「おいおい、意地悪くはないだろ」
 ようやくフィガロ様が困ったように表情を和らげたので、私の心は途端にくしゃりと張りを失くし、おまけに表情までもがくしゃりと崩れた。
 フィガロ様がこの診療所からいなくなってしまう。そのことを思うと、今にも泣きだしたいような衝動に駆られた。それでも私にだって、ささやかながらも矜持というものがあるわけで、すんでのところで、どうにか泣くのはぐっと堪える。それでも、どうしようもなく寂しい気持ちがおさまるわけではない。フィガロ様のもとへやってくるより前は百年以上もひとりで暮らしていたのに、これから最短でも一年、ひとりでこの診療所で生活することを思うと、胸が詰まって苦しくなる。
「寂しい?」
 答えなど分かり切っているだろうに、フィガロ様はわざとらしく私に問いかける。いつもならば遠出の時の旅支度は私に任せてくださるのに、今回は期間が長いからと自分で準備をしてしまうのも、いっそう私の心を寂しくさせていた。
 まるでもう、此処に帰ってくるつもりなどないみたいだ。そんなことはないはずなのに。
「寂しいですよ」
 師の問いかけに、私はどうにか声をひそめて答えた。油断すると、声が震えてしまいそうだった。
「フィガロ様もレノックスも、それにルチルもミチルもいないなんて。寂しくてどうにかなってしまいそうです」
「そのくらいでどうにかなってしまうような弟子なら、俺はいらないな」
 思わず、息を呑む。血の気が下がるのが分かったが、弁明や謝罪をするより先に、フィガロ様が笑って私の肩を叩いた。
「あはは、悪かったね。今のは意地悪だ」
 本当に、この人は何ひとつ変わらない。ルチルやミチルが生まれ、フィガロ先生としての顔でいる時間が年々長くなりつつあるが、時折こうして、遠慮もデリカシーもない、尊大で傲慢で、そのうえに意地の悪い北の魔法使いらしさが顔を出す。
 フィガロ様のこんな顔を見せていただけるのが今や私くらいだと思えば、それでも我慢のしようもある──と言いたいところだが、いくら師匠であれ腹立たしいものは腹立たしい。その腹立たしさすら飲み込んでそばにいると決めていたはずなのに、私を置いて中央の都へ行くというのだからやりきれない。
 いっそ、私も連れて行ってくださればいいのに。
 そんなくだらない、子供じみた思考が脳裏を掠める。それを見透かしたかのように、フィガロ様が今度は優しく、毒のような甘やかな笑みを浮かべて首を傾げた。
「そんなに寂しいのなら、ナマエも一緒に中央の都に来る? きっとルチルもミチルも喜ぶよ」
「それは、」
 咄嗟には答えられなかった。寸の間言葉に詰まる私を見て、なおもフィガロ様は続ける。
「さすがに魔法舎で一緒に暮らすのは無理だと思うけど、近所に家を見つけることくらいはできるだろう。君の産婆の腕があれば、中央の都でだって仕事も見つけられる」
 もとより、そういう意図でフィガロ様は私を弟子として育てている。魔法の腕はからっきしだが、人間の世界で私が生きていくすべならば、フィガロ様は一から私に叩き込んでくださった。
 どれほど過酷な環境で在ろうとも、人間は生き、子を成す。産婆が要らない土地など存在しない。魔法使いとしても人間としても、何処ででも生きていけるだけのすべを私は持っている。
「どう? 俺についてくる?」
 甘くて、優しい誘惑だった。よほど「もちろんです」と頷きたかった。今すぐ自分の荷物をまとめ、旅支度を整えたかった。
 しかし私は首を横に振る。師からのこの問いかけには、そうするのが正解だということを私は知っていた。
「意地の悪いことをおっしゃるんですね。つれていく気なんて、さらさらないのに」
「分かった?」
「分かりますよ。もう二百年もフィガロ様のおそばにいますから」
 そうして二百年、フィガロ様を見つめ続けてきた。時には恋人のように触れ、時には家族のように馴染んだ。弟子として、ひとりの魔女として、私がフィガロ様に捧げられるすべてを私は惜しみなく捧げてきたつもりだ。
 今もそう。フィガロ様がここに残れというのであれば、私はその命に従うしかない。それがフィガロ様の御心に添うということだ。
 いつしか床に伏せていた視線を上げ、フィガロ様をまっすぐに見つめる。悠然と私の言葉を待つ師は、どこか面白がっているようにも、あるいはうっすらと何かに倦んでいるようにも見えた。
「私はこの診療所で、師匠であるフィガロ様の留守をお守りします。大丈夫です、何かあれば中央の都まで箒でひとっ飛びですしね、何の気兼ねもなく、お勤めを果たしてきてくださいね」
「はは」
「……どうされました?」
「だって、そんな涙目で言われても全然説得力がないなと思って」
 フィガロ様が破顔するのと同時に、私の顔がかっと赤らんだ。先ほどから自分の声が震えていることにも、鼻の奥がつんと痛んでいることにも、気付かないふり見ないふりを貫いてきたというのに。
「し、仕方ないじゃないですかぁ……」
 ついついそんな弱音を吐けば、たちまち堰き止めていたものが胸のうちから溢れ出す。フィガロ様が私の頭をくしゃりと撫でた。すでに私を試すような面持ちはしていない。気心知れた師弟関係のなかにだけ見える、それは親密で、優しく気遣うような表情だった。
「こらこら、情けない声を出すんじゃない。俺たちが出発したら、君が南の国の古参魔女だよ」
「わ、私に魔女としてできることなんて、たかが知れていますが」
「それでもいいんだよ。魔法使いや魔女が気に掛けて、寄り添っていると思われていることが大切なんだから」
 そうしてフィガロ様は、遂にはぽろぽろと雫がこぼれ始めた私の目元を拭うと、
「しばらく此処を空けることだし、今夜は不肖の弟子を甘やかしてあげようか」
 まだ日も沈み切らぬうちに、そんなことを言うのだった。

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