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ちいさなちいさな犀利

 夜半の嵐のように唐突な来客は、フィガロ様よりもさらに大きな背丈の男と、その男に抱えられて泣きじゃくる少年という奇妙なふたり組だった。寝間着の上に羽織った白衣を脱ぐと、私はようやくひと息つく。
 寝ぼけてベッドから落ちたアーサーが、打った頭が痛いと言って泣き止まない。
 そう言ってオズが、その鉄仮面のような表情のままに空間を繋ぎ、アーサーをフィガロ様の寝室に運び込んだのは、つい先ほどのことだった。普通、魔法を使ったところで残る残滓はほんのわずかなものだ。しかしオズほどの魔法使いが、それも空間転移のような大きな魔法を使うとなると、そばにいた者、とりわけ魔力の気配に敏感な魔女や魔法使いは、その魔力残滓を本能的に危機として察することが多い。
 オズに求められたフィガロ様はもちろん、フィガロ様の布団で事後そのまま眠りこけていた私までもが、その乱暴で慌ただしい魔力の波に叩き起こされた。事後、寝間着を身に着けていたことだけが不幸中の幸いだ。幼いアーサーの前に素っ裸の男女として現れては、それこそオズに永久に氷漬けにされかねない。
 氷嚢でアーサーの後頭部を冷やす役割を私が押し付けられている間、フィガロ様は懇々とオズに常識を諭し続けていた。
 曰く、子供が頭を打ったくらいで慌てふためくんじゃない。まずは傷の具合を検分して、どうしても必要だと思ったときだけ医者にかかれ。それもできれば近所のかかりつけ医にかかれ。北の国にだって医療の心得がある者くらいいるだろう。そもそも今何時だと思ってるんだ。横に寝てたのが不肖の弟子だったからよかったものの、素敵な女の子との甘い逢瀬の最中だったらどうしてくれる、云々。
 フィガロ様からの説教をむっつりとして受け流すオズを、いつのまにかアーサーがおろおろしながら見つめていた。真っ赤な目元が濡れてはいるものの、アーサーはとっくに泣き止み、今は私の膝の上で大人しく患部を冷やされている。診療所を開くまでもないということで、今はダイニングの椅子で一緒に腰掛けていた。
「アーサー、もう頭の痛いのは大丈夫になった?」
 横から顔を覗き込むと、アーサーは恥ずかしそうにこくりと頷いた。アーサーとは何度か面識があるが、いつ会っても聡い子どもだという感想を抱く。
「はい、まだ少しいたいですが」
「そう。たんこぶになっちゃうかもしれないけど、何日かしたらちゃんと引っ込むからね」
「はい」
「痛いの痛いの飛んでいっちゃったよ」
「どこへですか?」
「レイタ山脈でねんねしてる羊さんの、もこもこの中だよ。朝起きたら羊さんがきっとアーサーの痛いの痛いの食べてくれるからね」
「ほんとうに?」
 大きなまんまるの瞳をぱちくりして、アーサーが私に問う。胸を張って、私は頷いた。
「本当だよ。私がちゃんと羊さんにお願いしておくね」
 アーサーの頭の腫れの熱が引いたのを確認し、オズはようやくアーサーと共に北の国の城へと帰っていった。「夜分にすまなかった」と心ここにあらずな礼を寄越され、フィガロ様がいつになく本気の溜息をついた。
「まったく、オズの過保護にも困ったものだよ」
 私の淹れたお茶を飲み、フィガロ様がそうぼやく。すでに夜明けも近い。今から寝なおす気にもなれず、私たちはこのまま夜明けを待つことにした。
 南の国は雨季以外はひどく乾燥している日も少なくないが、夜明け頃には湿度をしっとりと孕んだ空気が人の背丈ほどの高さに重たく広がる。今日は寒さのためか、いつもよりは乾燥している。室内にはアーサーが残していった、子供のにおいが幽かに漂っている。
 暖炉に火を入れる。少しずつ大きくなる火に手をかざしていると、強張っていた指先まで、やっと血が通ったような感覚がした。知らず識らずのうちに、細く長い息をほうと吐き出す。それに気付いたフィガロ様が、眉を下げて苦笑した。
「オズが来るたび委縮しなくてもいいのに。まあ、あの圧に当てられちゃうのは分からなくはないけど」
 オズがここにやってくるのは今日がはじめてのことではなかった。顔を合わせるたび、私は心臓がぎゅうと縮こまるような心地になる。今日はアーサーのけがの手当てという役目が与えられていたのでまだましだったが、そうでなければ少しでもオズに自分の存在が気付かれぬよう、息を殺していたくなる。
「オズ……いえ、オズ様のことを恐れるのは、この世界に生きる者としてごく当然のことだと思います。フィガロ様はオズ様の兄弟子ですから、もしかしたら怖いなどとは思われないかもしれませんが」
「怖くないわけではないよ。あいつの方が俺より強いことは事実だし」
「でも、フィガロ様はオズ様にも平気で命令をしますよね?」
 私もフィガロ様の正面の椅子に腰かけて、ぼんやりとした調子で問いを返した。魔法使いの序列において、単純な年齢はさしたる意味を持たない。フィガロ様がオズ様にあれやこれやと命令や文句をつけられるのは、ただフィガロ様がオズ様よりも年上で兄弟子だからというだけではないはずだ。
「それはほら、オズの機嫌さえ損ねなければいいって分かってるからね」
 あっさりと笑って、フィガロ様が答えた。
「逆にオズの機嫌を取り返しがつかないくらいに損ねてしまうことがあるとすれば、それは石にされても仕方がないって覚悟を決めたときだけだ」
「……やめてくださいね、冗談でもそういうことをするのは」
「俺もただでやられてやるつもりはないから安心しなさい」
「そういうことではなく。フィガロ様に石になられてしまうと、私ももれなく石にならなきゃなりませんので」
 すでに私はこの身にふたつも『約束』を課している。フィガロ様のために生き、フィガロ様のために死ぬ。フィガロ様が石になるときまで私が生き永らえていたとしたら、そのとき私もともに石になる。自分自身でそう定めた。それを破れば魔力を失うが、魔女にとって魔力を失うことも石になることも大差ない。
 内心で冷汗をかきながら頼み込むも、フィガロ様はどこ吹く風で笑っている。それどころか、
「あれ、いっそ俺と心中しちゃいたいからあんな『約束』したんだろ? だったら一緒に石になれるのは、君にとっても本望じゃないか」
 そんなことまで言い出す始末だった。それはたしかにフィガロ様の言うとおりなのだが、だからといってむざむざ命を捨てたいわけではない。当然ながら少しでも長く生き、少しでもフィガロ様と共に歩みたいという本能に近い思いを胸に、日々生きているのだ。
「フィガロ様がオズ様の機嫌を損ねたからなんて、そんな馬鹿みたいな理由で石になりたいわけではないですよ。私は生きることに関しては、結構後ろ汚いところがあると自覚しています」
「そうだね。そうでもなければ、俺に弟子入りなんかしないし。俺も弟子として認めたりしないさ」
 だけど、と。ゆったりとした動作でお茶をひと口啜ってから、フィガロ様は言葉を継いだ。
「もし、もしもだよ」
「何ですか」
「俺が死ねと言ったら、ナマエはどうする?」
 あ、と。私は気付く。まるで大したことのない世間話のようなていを装って、フィガロ様は今、きっと途轍もなく大きな意味を持つ言葉を投げかけたのだろう。全然そんなふうではないというように、取るに足らない暇つぶしのようなふりをして。
 フィガロ様と共に暮らし始めて二百年になる。この頃ようやく、私はフィガロ様の癖のようなものの一端を理解し始めた。大切な言葉ほど、フィガロ様は何の気なしを装う。フィガロ様にとって大きな意味を持つ言葉ほど、数多の言葉のうちのひとひらとして、それと分からないように埋もれさせてしまう。
 もちろんそれらすべてに気付くことなど、私のごとき若輩では到底不可能だ。取りこぼしてしまうことも多々あるのだろうということは、自分でもちゃんと分かっている。しかし今のような分かりやすい装い方をされたときには、私でも流石にそれと分かる。
 ほんのわずかに居住まいを正し、私はフィガロ様の手元を見つめた。まっすぐにその目を直視することは、今この場、この瞬間においては不敬なことであるように思われた。
「それが偉大な大魔法使いであらせられるフィガロ様のお言葉なのでしたら、そのときは潔く死にますよ。弟子は師匠の命令を聞くものですし、フィガロ様のおかげで永らえた命も同然ですから」
 嘘をつくような理由もない。淡々と答えれば、フィガロ様もまた穏やかな声音で問いを重ねる。
「それじゃあ、そうではなかったら」
「そうではない、というのは」
「魔法使いのフィガロとしてではなく、ただ、俺の言葉だったらってこと」
「フィガロ様と魔法使いであることは切り離せないことだと思いますが」
「そうだけど、今は一旦切り離して」
 つまり、南の国で医者をやっているフィガロ先生からの言葉だったら、ということだろうか。悩んだ末、師の言葉をそんなふうに解釈した。
 ルチルやミチルのような若い魔法使いが生まれてからというもの、フィガロ様は彼らの前では自分のことを「フィガロ様」ではなく「フィガロ先生」と呼ばせるようになった。私だけでなく、レノックスまでもが今やフィガロ様を先生と呼ばされている。
 そのフィガロ先生──南の国で医者をしている、けして太古の昔から生きてきたわけではなく、世界の半分を制服した片棒を担いだこともなく、のんびりと生きる強くもない魔法使いの言葉で、死ねと言われたら。
「そうですね……」
 束の間の逡巡ののち、私は答えた。
「やっぱり、言われたとおりにちゃんと死にます」
 フィガロ様が意外そうに、眉を上げて目を見開いた。
「どうして?」
「だって、フィガロ様に限って意味もなくそんなことをおっしゃるとは思えませんから。それがたとえフィガロ様ではなく、フィガロ先生のお言葉であったとしても。それにフィガロ様はのっぴきならないような状況──弟子である私の命がかかっている状況でまで、フィガロ先生のままでいようとする、なんてことはないですよね?」
 最後の問いは半ばそうであってほしいという願望だった。ルチルやミチルの前ではただの魔法使いのふりをしているフィガロ様だが、さすがに弟子の一大事にまで正体を隠し続け、むざむざ私を死なせるような真似はしないでほしい。そんなことをされたらさすがに恨む。
 しかしフィガロ様が驚いているのは、そこではないようだった。
「あのさ、君、俺が昔オズと組んで世界征服してたこととか知ってるよね?」
「知っていますよ。生まれてはいませんでしたが」
「それなのによくもまあ、フィガロ様は意味なく死ねなんて言わないって、そんな信用ができるね。自分で言うのもなんだけど、結構意味なく死ねって言ってたよ。面倒くさいからとか、歩くのに邪魔だったからとか、わりとそんな理由で」
「最悪じゃないですか……言葉遣いの荒れた若者みたいですね……」
「こらこら」
 二千歳の大魔法使いを捕まえて、ぐれる若者扱いをするんじゃない、と。フィガロ様は呆れたように窘めて、テーブルの上に置いていた私の手の甲をつねった。行為だけ挙げれば他愛ないじゃれあいのようでもあるが、その実容赦なくつねられて、私はひぃっと悲鳴を上げた。
 つねられ赤くなった肌に、ふうふうと息を吹きかける。そして愉しそうに笑っているフィガロ様に視線を遣ると、涙目で続けた。
「でも、たとえそういう過去があったとしても、それは昔の話ですよね。今もまだ、フィガロ様はそういうことをなさるんですか?」
「いやぁ、さすがにもうしないかな。目のまえで誰かが石になることを、面白いとも思えなくなっちゃったし」
 面白いと思っていたことが一時期でもあったのか。さらりと恐ろしいことを言うフィガロ様だったが、そこにいちいち反応していては話がいっこうに進まない。もとより、フィガロ様ほどの偉大な魔法使いに曰くがひとつもないなどとは思っていない。それらをすべて受け止めたうえで、私は弟子にしていただいている。
 そういう過去があるのだと知っていて、それでもなお弟子に志願した。その時点でフィガロ様の言うところの信用は、とっくに果たされているようなものだ。
「信用といえば、まあ信用なんですけれども。フィガロ様は多分、私を意味も理由もなく殺したりはしませんよね。見放すことはあっても」
「見放すつもりはないよ、今のところは」
「安心しました」
 ぬるまった紅茶で口を湿らせて、私は窓へと視線を向けた。暗闇の中に沈む山脈の端が、ほのかに光を発するように白み始めていた。もうじき夜が明ける。
「だからというか、何というか……。ええと、ですから、とにかくフィガロ様が私に死ねとおっしゃることがあるとしたら、それだけの理由があるんだなと諦めて、私は甘んじて受け入れます」
「俺が理由を口にしなかったとしても? 君は意味が分からないまま、俺に命じられたからって死んでいくの?」
「フィガロ様がおっしゃったから、というのでは理由になりませんか? フィガロ様のお力をもってしてもどうにもならない事情があったのだって、それで私にとっては十分な理由になるのですが」
 むしろ、それ以上に納得できる理由など何処にもありはしないだろう。偉大な魔法使いであるフィガロ様にできないことならば──いざとなれば世界最強の魔法使いであるオズ様の力を借りることすらできるのに、それでもなおどうにもできないことならば、潔く死ぬしかないのだと思う。一切の希望がない分だけ、此方としても納得できるというものだ。
 私の中では簡潔で理にかなった理屈だった。しかしフィガロ様は困ったように頬をかくと、
「……参ったな」
 心底困り果てたような声音で、息を吐くように呟いたのだった。

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