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毒として潔癖すぎる

 フィガロ様の頬を張った左手がじんじんと痛む。踵を返して診療所を飛び出したが、追ってくる足音はひとつもない。そのことがむしょうに悔しくて、走りながらも私の視界は曖昧に滲んでぼやけた。
 かつてフィガロ様のもとに私が押し掛けたばかりの頃、寝起きするために使っていた小屋は今はもうない。その小屋があった場所には今、サンルームで乾かした後の薬草などを保管しておくための蔵が建っている。
 暗くて乾いていて、おまけにフィガロ様と私以外誰も近寄らないその場所は、今の私にとってはこれ以上なくうってつけの逃避先だった。種類別に分けて束ねられた薬草や甕の隙間に腰を下ろし、膝を抱えて息を吐き出す。頭の中ではまだ、先ほどのフィガロ様の言葉がぐるぐると巡り続けている。

 チレッタ様の胎のなかの子は、フィガロ様の師匠であるスノウ様とホワイト様によれば不吉な予言を身に受けた子──すなわち『予言の子』らしい。その子はいずれ、祖国となる南の国の魔法使いを、すべて死に至らしめるだろう。そう聞いた時、私だってほんの一瞬だけ「恐ろしい運命を背負った子供だ」と、そう思った。
 それでも、産まない方がいいなどとは、軽々に口にできる言葉ではない。してよい言葉でもないだろう。これまで数えきれないほどの赤子を取り上げ、時にはどうにもならないような死産も目の当たりにしてきた私には、それでも産みたいと言うチレッタ様に酷い言葉をぶつけることなどできるはずがなかった。
 蔵には窓がない。だから外が今、どんな空の色でどんな天気かも分からない。呆然と泣き続けていたせいで、時間の流れの感覚がひどく曖昧だった。
 ただ、何となく夜が近づいているのだろう。そんな気がした。
 いつの間にか、蔵の中には私以外にもふたりの気配があった。ほんの童子の気配でありながら、その気配の纏う空気は息がつまるほどに重たい。姿かたちを変えたところで、太古の昔より生きる魔法使いたちが無意識に発する恐ろしく重たい圧までは、そうそう隠しおおせるものでもない。
 ランプひとつだけ点けた蔵のなかで、私の前にふたつの影がしゃがみこむ。彼らは私の泣きはらした顔を覗き込むと、小さい子供にするように、そっと私の頭を撫でた。お二方にとって、私は孫弟子ということになる。先ほどまでは彼らもフィガロ様と言い合いをしていたが、おおかた、フィガロ様と私の仲裁でもしにきたのだろう。
 ずびっと洟を啜る。そして、
「フィガロ様は正しいことをおっしゃっていました。フィガロ様は間違ってない。分かってるんです」
 自分に言い聞かせるかのように繰り返す。そんな私の言葉に、スノウ様とホワイト様は声を揃えて呻いた。
「いや、それはどうじゃろう」
「普通に問題のある発言じゃと思うが」
「でも、まだこの世に生まれてもいない誰かと、長年の友人たちや同志、同胞の命、どちらかしか選べないと言われたら、そんなの……」
 多分、ほとんどの者は後者を選ぶと言うのではないだろうか。私もやはり呻くように続ければ、スノウ様とホワイト様はふたたび揃って嘆息した。
 私だってそうなのだ。産婆という立場でさえなければ、もしかしたらチレッタ様に泣いて縋ったかもしれない。子供ならすでにルチルがいる。南の国にはルチルもチレッタ様も、それにフィガロ様もレノックスも、ほかにも何人も知り合いの魔法使いがいる。生まれてくる子供と彼らの命を天秤にかけたとき、まだ生まれてもいない赤ん坊の命を優先させろなんて残酷にもほどがある。チレッタ様だって私だって、どうなるか分からない。それなのに、どうして産むなんて言えるだろう。
 重い空気が蔵の中を支配する。ややあって、スノウ様が溜息とともに口火を切った。
「フィガロの言い分も分からんではない。しかし最優先されるべきはチレッタと、その家族の気持ちじゃ」
「たとえ胎の赤ん坊を産まなかったとて、その運命がほかの赤ん坊に移るだけやもしれぬ」
「我らの予言はけして外れぬのじゃ。予言がすでになされた以上、運命が覆りはせぬよ」
「そもそもフィガロの言い分など、それこそ露ほども求められてはおらぬからのう」
 ほかはともかく、最後のその言葉には私も同意するしかなかった。結局のところ、産むのはほかの誰でもないチレッタ様なのだ。産めという権利も産むなという権利も、チレッタ様の意志を曲げる権利は誰も持ちえない。ルチルと胎の子の父親ですら。
「だけど私も、誰にも死んでほしくないです」
「我らみんなそうじゃよ」
「誰も仲間を看取りたくはない」
「でも、チレッタ様が産みたいとおっしゃるのなら、産んでいただきたいんです。望まれて生まれてくる子には、祝福を贈りたい」
「……そうじゃな」
 とどのつまり、ここで私が泣いていることすら、無意味なことなのだと思う。チレッタ様ほどの大魔女が、今更誰かの指図に諾諾と従うはずもない。産みたければ産むし、産みたくなければ産まないだけだ。そしてチレッタ様はすでに、胎の子を産むと決めてしまっていた。
 これ以上無駄な時間を過ごしていても仕方がない。私が思い煩うことで、チレッタ様の胎の子に授けられた予言が覆ることもない。
 そう切り替えて立ち上がろうとしたところで、ふいに左手に違和感を覚えた。それが先ほど、心無いことを口にしたフィガロ様の頬を打ったときの痛みなのだと思い出し、私はそこで一層落ち込む。
「どうしましょう……。フィガロ様に、口答えしてしまいました……」
 あまつさえ、師に手を上げさえした。そんなことはこの二百年ではじめてのことだった。というより、誰かの頬を打つなど生まれてこの方はじめてのことだった。頭に血がのぼって、自分ではどうにもならない感情で勝手に腕が動いたのだ。
 破門にされたらどうしよう。そのことに思い至り、恐ろしさでいっぱいになる。背筋がすうと冷たくなった。
 何せすでに半生のうちの半分を、フィガロ様のおそばに仕えて過ごしている。もはやこれ以外の生き方など、とうに忘れてしまっていた。
 堪らず顔を覆う。そんな私に、スノウ様とホワイト様が薄闇の中で眼を見合わせたのが分かった。
「弟子入りして二百年くらいは経つじゃろうに。まさか口答え一つしたことがないなどということは」
「ありません」
「ええ……。今まで一度も? 本当に?」
「日々の些細なことならばともかく、こういう、決定的なことについては」
 むろん必ずしも私の意見とフィガロ様の意見が重なっていたわけではない。けれどどんな問題でも突き詰めて考えれば、大抵はフィガロ様の方に道理があった。二千年以上生きる魔法使いと、ようやく四百歳になろうかという私。フィガロ様が間違うことの方が少ない。従順にフィガロ様に従ってさえいれば、よほど道を誤ることはない。
 しかしそうでなくても──仮にフィガロ様が間違っていようとも、私はフィガロ様のご意志に添うつもりだった。たとえそれが誰の目にも明らかな瑕疵を孕んでいようとも、私のすべてはフィガロ様の決定のもとにあるはずだった。この二百年、そうあろうとばかり努めてきた。
「そういえばいつだったか、フィガロが言っておった。ナマエは魔法使いとしてのフィガロの指示には絶対に口応えせぬと」
「それがこれほどまでとはのう」
 やれやれというように息を吐き、瓜二つの双子は暗闇越しに私を見る。
「二百年もともにおれば、意見が合わないことくらいあるじゃろう?」
「我ら双子ですら、そういうことがあったのじゃ。フィガロとナマエの間で必ずぴたりと意見が合い続けるなど、そんな奇跡ありはせんよ」
 ほんの僅かな誘惑で永遠に分かたれた双子の言葉には、何とも云えぬ説得力がある。たしかにそれはその通りなのだろう。まして私とフィガロ様は齢も違えば立場も積み重ねも、何もかもが違うのだ。持ち合わせている常識や良識すら、時として大きく隔たる。
「それでも、私はフィガロ様のご意志にずっと添っていたかったです」
「それは自分のために、じゃな」
 間髪を容れずに切り捨てられ、私は唇を噛んだ。
 分かっている。私がフィガロ様のご意志に添おうとすることは、けして師への恭順の意志によるものではない。分かっている。いやというほど、分かっている。
「もしかするとそなた、師匠を選び間違えてしもうたかもしれんのう」
 やがてぽつりと、双子のどちらかが呟いた。
「そなたのような魔女には、フィガロはうまく嵌りすぎるじゃろ」
「あの子はそういう振る舞いが昔からうまい子じゃ」
「相手の求めるものを見抜くのが病的にうまい子じゃ」
「フィガロの与える優しさは、そなたの為にはならぬよ」
「始末が悪いのは、フィガロの与える優しさは、フィガロの為にもならぬことかの」
「今さら手遅れかもしれぬが、フィガロに取りつかれぬよう気を付けるのじゃよ」
 畳みかけるようにそう言われ、私は無言で首肯した。それが納得ずくの肯きでないことは多分、お二方にも分かったはずだ。けれど彼らはそれ以上、私を責めも慰めもしなかった。

 ★

 日が暮れて暫くしてから、私はようやく診療所に戻った。スノウ様とホワイト様はとうに蔵を出て、今夜の宿であるチレッタ様のお宅へと向かった。
 診療所兼フィガロ様の自宅には私とフィガロ様の気配しかない。そうなれば私とて、いつまでも逃げ回ってばかりいられるはずもなかった。もとより弟子として、あるいは側でお世話をさせていただく身として、いつまでも自分の仕事を放棄してもいられない。
 幸い、キッチンはスノウ様とホワイト様からお土産にいただいた品々で溢れていた。サラダとスープだけささっと用意し、ダイニングのテーブルへと運ぶ。そして逡巡ののち、火の入っていない暖炉の前で、安楽椅子に腰掛け読書していたフィガロ様へとおずおずと声を掛けた。
「フィガロ様」
 声を掛けるとすぐ、フィガロ様は本から視線を上げ、私に笑みを向けた。
「やあ、もう俺を許す気になったの?」
「……許していただく立場なのは、私の方です」
 私が打ったフィガロ様の頬には、傷はおろか打った痕が赤く残ってすらいない。衝動的に、力任せに打ったのだから、けして弱い力ではなかったはずだ。きっと、さっさとご自分で治されてしまったのだろう。
 だからといって、私が師に無礼を働いた事実が消えたわけではない。
「すみませんでした」
 差し出すようにそう伝えれば、すぐさま「怒ってないよ」と返事が返ってきた。
「よかったです」
 思わず安堵の息を吐く。フィガロ様が「まだ破門の心配してるんだ」と笑みを深めた。フィガロ様にとっては笑い話でも、私にとっては生きるか死ぬかの問題に等しい。何より私は我が生涯をフィガロ様に捧げると勝手に決めてしまっている。もしもフィガロ様に破門にされれば、その日が魔女としての私の命日ともなりかねない。
 ダイニングのテーブルにはすでに夕食の準備がととのっている。そのことを知っているだろうに、フィガロ様は立ち上がる気配を見せなかった。膝の上の本を閉じ、師は小さく安楽椅子を軋ませる。そしておもむろに、こう切り出した。
「今日、蔵でスノウ様とホワイト様と話をしていただろう。おふたりに何か吹き込まれたんじゃないか?」
 もしかしたら、フィガロ様には千里眼でも備わっているのではないだろうか。心臓がひやりとするのと同時に、一瞬そんな絵空事めいたことを考える。
 しかしさすがのフィガロ様といえど、そこまでの人智を超えた能力は持たないだろう。フィガロ様はきっと、スノウ様とホワイト様の言いそうなことなどすでに、ご自身でも考えたことがあるのだ。だからこそ、見通すようなことを言う。
 私は師とすべき魔法使いを選び間違えた。
 二百年前に、致命的なあやまちを犯した。
 フィガロ様もそんなふうに思っているから、だからスノウ様とホワイト様の言いそうなことが分かるのだ。
 けれど。
「分かりません」
 短く答えたのは、声が震えないようにするためだ。すべてを見透かしているかのように、フィガロ様が小さく笑う。
「分からない?」
「何か言われたような気もしますけど、意味のない言葉だったと思います」
 今度こそ、フィガロ様は声を立てて笑った。
「俺の師匠をつかまえて、言うに事欠いて『意味のない言葉』って。君もなかなか図太くなったよね。ああ、でもナマエが図太いのは昔からか」
 そうしてフィガロ様はやけに嬉しそうに笑ったあと、私に向けてゆるりと手招きをした。
「こっちにおいで」
 呼ばれるまま、私はゆっくりとフィガロ様のそばに寄る。まだ頭の片隅には用意した夕食のことが気にかかっていたが、それはこの際考えないことにした。どのみちこのままテーブルにつくのも気まずい。冷めてしまった料理はあとで温めなおせばいい。
 フィガロ様のすぐそばまで私が寄ると、師は私をそのまま膝の上に座らせた。男女の艶めいた仕草に見えなくもないが、それはどちらかといえば、大人が小さな子供を膝に乗せて話をするような、そんな気安さを伴った動作だった。
 膝の上に座らされてもまだ、私よりもフィガロ様の方が少し目の位置が高い。翡翠のような不思議な色の瞳を私に向けたフィガロ様は、
「話をする? それとも黙ってキスでもした方がいいかな」
 冗談めかしてにこりと笑った。
「フィガロ様はどちらがお望みですか」
「ううーん、どっちでも大して違いなんてないと思うけど。でも、そうだな。まだ夜も浅いし、話をしようか」
「食事は」
「あとで俺が温めなおしてあげる。今はテーブルを挟んで話をする気分じゃないからね」
 せっかく急いで食事の支度をしたのに、とは言わなかった。私もやはり、そういう気分ではなかったからだ。今はこうして近い距離で言葉を交わす方が、ずっと心地よく、そして有意義であるように思えた。そう考えると、フィガロ様の言うキスも会話も大して違わないという言葉も、あながち冗談とも言い切れないのかもしれない。
 フィガロ様が私の髪に指を通す。ベッドでするのと同じような仕草に、思いがけず胸がときめいた。
「君と喧嘩をするのははじめてだったね」
 フィガロ様が呟く。
「喧嘩……」
「喧嘩だろ? よくあることさ。ナマエと俺の間には二百年間なかったってだけで」
「それは、フィガロ様がいつでも私に譲ってくださったから、ですよね」
「そうかな。俺は、君が俺に対して従順な弟子であり続けたからだと思う」
 さらりと私の意見に異を唱え、フィガロ様は「ファウストも従順で素直な弟子だったな」と付け加える。
 ファウスト。最近はほとんどその名を聞くこともなくなっていた、私のただひとりの兄弟子。つい今までときめいていた胸が、今度は粗くざらつくのが分かった。
 それが表情にも出ていたのだろう。フィガロ様は苦笑して、
「大丈夫だよ、ファウストと比べてナマエが劣っているなんて話をするつもりはないから」
 と私の不安を簡単に拭う。
「ただ、俺に従っていればずっと一緒にいられるとか、そういうわけではないって話。ぴたりと同一だったらいいってわけでもない──というのは俺が自分の師匠を見て、自分で学んだことだけど……。とにかく、長く一緒にいるためには、どうやら適度にぶつかり合うことが肝要らしい」
「らしい、というのは」
「今日チレッタにそう言われたんだ。君が蔵に引きこもってる間に会いに行ってきたんだよ」
 思いがけず飛び出した名前に、私は驚き目を見開いた。チレッタ様といえば、先ごろフィガロ様の無礼千万で最悪なことこの上ない言葉に腹を立て、完全にフィガロ様との面会を謝絶したばかりだった。
 弟子の立場でフィガロ様との関係を修復しなければならない私と違い、チレッタ様はいつでもフィガロ様と絶縁できる。まして、今はまだ胎に予言の子がいる状態だ。産んだ後でならばともかく、この状況でまさかチレッタ様がフィガロ様と顔を合わせることを許すとは思わなかった。
「よくチレッタ様の前に出られましたね……どの面下げて会いに行ったんですか?」
 うっかり師匠に対して不敬きわまる物言いをしてしまったが、フィガロ様は気にせず聞き流すことにしたらしい。
「普通に会いに行ったよ」
 あっさりとそう教えてくれた。
「チレッタのあんなに怒った顔見たのは久し振りだったけど、まあ何とか和解した」
「凄いですね……」
「だろ?」
「いえ、フィガロ様ではなく、フィガロ様を許容したチレッタ様が」
 半ば感心すらして、私は答えた。チレッタ様の本気の激昂は見たことが無いが、聞くところによれば偉大な魔女チレッタは本来、相当に苛烈な気性の魔女らしい。あのミスラを飼い慣らしているところからして常人離れしているが、彼女の逸話は枚挙にいとまがない。
 そのチレッタ様を本気で怒らせたのだから、正直に言えばこのままフィガロ様とチレッタ様が断絶することも、十二分にありうると思っていた。和解したのであれば僥倖という以外にない。
 そしてチレッタ様とフィガロ様が和解したというのなら、ますます私がフィガロ様とぎくしゃくしている──フィガロ様の言葉をお借りするのならば「喧嘩」している場合ではない。もう一度きちんと謝って──フィガロ様はやはり「怒ってないよ」と言っただけだが──そうして仕切りなおしたところで、私はフィガロ様の膝からおりると、手近な椅子に腰かけた。
 フィガロ様が短く呪文を唱える。暖炉の中で、炎が赤々と踊り始めた。
「スノウ様とホワイト様と、どんな話をしたんだい。まさか何もかも忘れてしまったってこともないだろう」
「フィガロ様のご意志に添っていたいのだと、スノウ様とホワイト様に話したんです。その、今回のことでフィガロ様と意見をたがえてしまったので……でも、それは私の本意ではなかったというか、そうなりたくはなかったというか……」
 妙に言い訳がましい物言いになってしまったためか、フィガロ様が口の端を歪めて笑った。
「それで、おふたりは何て?」
「それは自分のためだろうと」
「うわ、そんな直截的な表現で言われたの?」
「はい。おおむねこの通り」
「自分の師匠ながら、あの人たちの時々顔を出す容赦のなさって恐ろしいな」
「でも、本当のことですものね。自分でも、そう思いますから」
 悄然と頷けば、フィガロ様が意外そうにまばたきをする。
「ナマエ、自分で気付いてたの? 俺に師事してるのが限りなく自分本位な気持ちに基づいているって」
「……わりと最近気付きました」
「そっか」
 堪らず、私は視線を伏せた。自らの身勝手さを自覚したのはここ最近のことだ。それまでは自分のことを、フィガロ様のために甲斐甲斐しく尽くす弟子なのだと思っていた。
 むろん、気付いたところで取るべき行動は変わらない。どんな動機で、どんな感情に基づいていようと、私はこれまで弟子としてフィガロ様に尽くしてきた。これからも変わらず、そうするつもりでいる。
 ただ、自分の行動の根っこに気が付いているのかいないのか、それはきっと重要なことなのだろう。心で魔法を使う魔法使いや魔女にとって、自分の胸のうちを正しく把握しておくことは大切なことだ。魔法などろくに使えやしない私でも、そのことに変わりはない。
 強く大きなものの庇護のもとにいたいから。偉大な魔法使いのフィガロ様の弟子という、揺るがない立場に身を置いていたいから。
 ひとりぼっちに、なりたくないから。
 もはや故郷の土地を取り戻した私には、俗人じみた動機しか残っていない。当然二千年以上を生きるフィガロ様がそのことを見通していないはずもない。それでも此処を去れとは言われていないから、私は弟子の立場を離れない。これからもきっと、フィガロ様に見放されない限り。
「私は自分可愛さでフィガロ様のおそばにいますけど、でも、だからってフィガロ様のことを軽んじているわけではないです。もしも我が身とフィガロ様のお命のどちらかを選ぶことになったとしたら、私は迷わずフィガロ様のお命を選びます」
 四百年生きていても、敬愛する師に自らの醜態を指摘されることは恥ずかしい。自棄っぱちでそう付け加えれば、
「うん、それは知ってる」
 あっさりと頷き返される。それがまた適当にあしらわれているように感じられ、一層情けないような気分になった。
「本当ですか? フィガロ様、本当にお分かりになっていますか?」
「え、いきなりどうしたんだい。急に面倒な絡み方して、酔ってる?」
「酔ってません」
 むっつりと言い返し、仕切りなおしに咳払いをひとつしてから、私は言った。
「予言のとおりに南の魔法使いがみな死んでも、もしもこの先チレッタ様が亡くなられても、チレッタ様の代わりにお腹の子が産声を上げなかったとしても、私は自分にできることをしようと思います」
 私にできること。それは目下、チレッタ様のお産を安全なものにすること、そしてフィガロ様に誠心誠意尽くすことくらいだ。北の故郷の地から帰ってきた日の気持ちを、私は一日たりとも忘れたことがない。
 悠久にも近いときを、ゆらゆらと生き続けてきたフィガロ様。数多の人間や魔法使いに囲まれていながらも、師はいつだってどこか寂しげな翳を纏わせている。
 私だけはフィガロ様のそばにありたい。己の何を犠牲にしても、誰かの幸福を躪ろうとも。
 死ですら、私たちを分かつことができぬほどに。
「これから先、誰が生まれても、誰がいなくなっても、私はフィガロ様のおそばにいますよ」
「自分のために?」
 揶揄するように軽やかな声音に反して、その問いは何か、黒々と重たいものを孕んでいるような気がした。ごくりと私の喉が鳴る。
 視線の合わない師を見つめ、私はただそうありたいという本心だけを口にした。
「フィガロ様が望んでくださるのなら、フィガロ様のために」

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