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閑話・身近な地獄

 南の国で産婆を始めて久しい。これまでに取り上げた赤ん坊の数は、自分でももう数えきれないほどになった。すべて人間の赤ん坊だ。どの赤ん坊も、皆等しく愛らしい。
 それでも、ルチルと名づけられたその赤ん坊が生まれた瞬間の愛おしさ、生れ出た瞬間に感じられた神々しさは、これまで一度たりとも感じたことのない貴さだった。
「はあ……かわいい……可愛いねえ、ルチル」
 ようやく首が据わったばかりのルチルを抱きかかえ、頬ずりしたくなるのを懸命に堪える。今日はチレッタ様が夫とともに出掛ける用事があるとかで、私とフィガロ様が一日限りのベビーシッターを頼まれているのだった。
 チレッタ様のご自宅には、ルチルが生まれる前から何度か足を運んでいる。以前はチレッタ様の香水のにおいや薬草のにおいが香っていたこの家も、今ではすっかり赤ん坊の暮らす家特有の、甘いにおいで満ちている。たったひとりの赤ん坊のために空気が変わってしまうなんて、まったくもって凄まじいことだと言うしかない。
 まどろむルチルを立ったまま抱える私を、テーブルにつきお茶を飲むフィガロ様が呆れて眺めている。
「何、その顔。締まりがないにもほどがある」
「そうおっしゃっても、ルチルがこんなにも愛らしいものですから」
「まあたしかに、きれいな赤ん坊だけどね。あんまりチレッタには似てないんじゃない?」
「そんなことはありませんよ。ねえ、ルチル」
 う、とルチルが小さく返事をした──ような気もしたが、おそらくそれも私の勘違いか、そうでなければまどろみに落ちていく直前の、ルチルの小さな吐息だったのだろう。しかしそんなことは関係ない。私の言葉に返事をしたように聞こえた。そのことが私にとっては大切なのだ。ルチルはすでに、大魔女チレッタの血を分けた息子として、偉大な魔法使いの片鱗を見せ始めている──と、私は勝手に解釈した。
「早く立って歩くようになってほしいですね。この子はきっと成長が速いですよ」
 見るからに賢そうな顔立ちをしている。そういえばチレッタ様の夫も、柔和だが聡明な顔立ちをしていた。どちらに似ても、聡明で美しい魔法使いに育つに相違ない。
「いっそ今すぐにでもお話するようになればいいのになぁ……」
「そんな我儘を。どうせこの子だって何百年も、もしかしたら何千年も生きるんだろうし、それならせめて、無垢で何も知らずにいられる赤ん坊の時代が少しでも長い方が、ルチルにとっても幸せってものじゃない?」
「そうでしょうか」
「多分ね。赤ん坊でいてくれるのなんて、ほんの一時のことだよ」
 果たしてそうだろうか。もうじき四百歳になるが、今のところ私はまだ、生き飽きたなどと感じたことはない。何も知らず、何も悩まず、何に怯えることもないかわりに無力なだけの赤ん坊のことを、羨む気持ちは私には分からなかった。
 と、ルチルを抱えたまま物思いに耽っていたそのとき。
「うわ」
 突然背後から声が聞こえ、私は一層ルチルを強く抱えてはっと振り向いた。そこにいたのは、ぼさぼさの髪にけだるげな瞳をした青年だ。北の国の魔法使い、ミスラ。ルチルと己の安全確保のため、咄嗟に私は後ずさった。
 そんな私を後目に、フィガロ様はすっくと立つと、ゆったりとした歩調でミスラに歩み寄った。
「ミスラじゃないか。どうしたんだい、まさか俺に会いに来たの?」
「は? 薄気味悪いことを言わないでください。ぶっ殺しますよ」
「はは、やれるものならね」
 南の国に引っ込んだとはいえ、フィガロ様のお力は最盛期から少しも衰えてはいない。相手があのミスラであろうとも、私のように怯え頑なになることはなかった。
 単純な魔力比べならば軍配はミスラに上がるかもしれないが、フィガロ様には二千年の英知が備わっている。そのことはミスラも重々承知しているのだろう。フィガロ様と戦うには、自分は相性が悪いことを知っている。だから心底嫌そうにしながらも、ミスラが手を出してくることはなかった。
 それにしても、どうしてミスラがここにいるのだろう。彼が空間転移の魔法を得意としていることは知っている。かねてよりチレッタ様とミスラが昵懇の仲であることも知っている。しかし幾ら何でも用もなく、わざわざ南の国くんだりまでやってきたりはしないはずだ。
「み、ミスラはどうして此処に? チレッタ様なら明日まで戻られませんよ」
 恐々尋ねる。てっきり無視されるかと思ったが、意外にもミスラは、
「だからそのチレッタに、留守の間赤ん坊を見ておけと言われてるんですよ」
 素直にそう教えてくれた。そして、
「それなのに、どうしてあなた達がここにいるんです」
 さも鬱陶しそうに私とフィガロ様を見遣る。
「俺たちもチレッタにルチルの子守りを任されたからだよ」
「ルチル? 誰ですか、それ」
「この子の名前ですよ。忘れちゃったんですか」
「はあ、どうでもいいんで」
 子守りをしにきたとは思えないような言いぐさで、ミスラは頭を掻きながら私の腕の中ですぴすぴと眠るルチルを眺め下した。その瞳からはこれといって慈しみや愛情は感じられず、子守りをするどころか、赤ん坊と触れ合おうという気すらないように見える。
 それからミスラは、視線を僅かに上げて私を見ると、そこでようやく、
「というか、あなたも誰ですか。あなたも子守りですか?」
 これまた至極どうでもよさげにそう尋ねた。むろん、私とミスラはこれが初対面というわけではない。チレッタ様に連れられたミスラと何度か会ったことがあるし、数年前のチレッタ様の結婚パーティーの時にも挨拶くらいはしていた。
「わ、私はナマエといいます。……以前にも何度か名乗っていますが」
「どうでもいいな」
「じゃあ聞かないでくれますか」
「どうして。名乗りたくないなら名乗らなければいいのに」
「くっ……」
 のらりくらりというよりは、そもそも話が噛み合っていない。いなされているわけでもない。ぐぬぬと歯噛みする私の肩を、フィガロ様がぽんと叩いた。
「ミスラの嫌なところはさ、悪意でこういう物言いをしてるわけじゃないところだよね」
 そうなのだろう。現に今もミスラは、私が悔しそうな顔をしても少しも楽しそうにはしていない。むしろ今すぐにでもこの場を立ち去りたいとでもいうように、長い腕をぶらぶらさせて所在なさげに突っ立っていた。
 フィガロ様も飄飄とはしているが、こちらの言葉が正しく伝わるぶんだけまだ、話をしやすい。
「私、この人苦手です」
 ぼそりとそう呟いたら、そんな言葉ばかりきちんとミスラにも届き、理解されてしまった。気だるげな双眸が、虫でも見るようなおざなりさで私を捉える。
「は? 失礼なやつだな。殺しますよ」
「ミスラ、この子はチレッタが目を掛けている魔女だよ。チレッタの留守に勝手なことをしたら怒られるんじゃないか」
「……」
 ミスラの視線が胡乱げに私を眺めまわす。やがて溜息をつくと、ミスラはくるりと回れ右をした。
「おいおい、どこ行くの?」
「帰ります。子守りがふたりもいるのなら、俺は必要ないでしょう」
「そう言うなよ。チレッタに頼まれたんだろ?」
「ええ……?」
 私とミスラの声が、不本意ながら重なった。私としては、帰りたいというのなら好きに帰ってもらって構わない。ミスラの言うとおり、ルチルひとりの子守りをするだけならば私とフィガロ様だけで十分に足りていた。ルチルの名前すら覚えていないミスラが此処にいたところで、何かの役に立つとも思えない。
 しかし、
「そうだ。俺少し診療所の方に用事があるから、ナマエとミスラふたりでルチルのこと見ていてあげてよ」
 おもむろに手をぱんと打ちならし、フィガロ様は笑顔でとんでもないことを言い放つ。絶句する私にかわり、ミスラが抗議の声を上げた。
「なんで俺が」
「そ、そうですよ。私だって嫌です。だったら私ひとりでいいです」
 ひと呼吸遅れて、私もミスラに追従した。普段ならば師であるフィガロ様の指示に異を唱えるなど言語道断だが、今回ばかりは話が違う。ミスラとふたりでルチルの子守りなど、ひとりでルチルを見るよりさらに面倒だ。何より、北のミスラと赤ん坊を挟んでふたりきりなど、恐ろしすぎる。
「俺は別にいいけど、チレッタの頼みを聞かないと後が怖いんじゃない。もともと子守りの頼みを受けたのはナマエだし、ミスラだって同じなんだろう。チレッタの頼み事を勝手にすっぽかしたりしたら後で一体何をされることやら」
 ミスラと私、ともに押し黙る。
 それを了承の返事ととったのか、フィガロ様は「すぐに戻るよ」と軽やかに笑って部屋を出ていった。
 そうして結局、翌朝まで戻ってくることはなかった。

 ★

 戻ってきたフィガロ様に文句のひとつでも言おうと晩のうちから決めていた私だったが、いざフィガロ様が戻ってきたとき、子守りの私たちはそれどころではなかった。
「ちょっとミスラ、おしめはそうやって巻くんじゃなくて……、ああもう、それだとルチルのお腹が苦しくなっちゃうじゃないですか」
「はあ……だったらもう、あなたがやればいいじゃないですか」
「ミスラがこのくらいできるって言ったんじゃないですか! 私はミルクの準備をしてるんですよ!」
 やんややんやと言い合う私たちのもとへ、いつのまに戻ってきたのか、フィガロ様がそろりと近寄ってくる。ルチルのミルクの時間だったが、ミルクを飲ませる前におしめをミスラに替えてもらうはずが、ミスラが何をどうすればそうなるのかというような奇怪で窮屈そうなおしめの巻き方をしたために、ルチルが布団の上で大いにぐずっていた。
 フィガロ様の姿をみとめた私は、これ幸いと声を掛ける。
「あっ、フィガロ様ちょうどいいところに。ミスラからおしめ取り上げて代わりに替えてください」
「え、俺が?」
「フィガロ様ならおできになりますよね?」
「できるけどさ……」
 不本意そうなフィガロ様がミスラから替えのおしめを受け取るのを見届けてから、ふたたび台所に戻り、ミルクの準備に取り掛かる。ようやく人肌程度のあたためたミルクを準備して戻ると、ルチルはきれいなおしめを巻きなおされ、機嫌よさげに口をぱくぱくさせていた。傍らには気だるげなミスラと、不満げなフィガロ様が仲良く並んでいる。
 昨日から終始こんな調子のミスラはともかく、フィガロ様が何故不満げなのか、さっぱり意味が分からない。とはいえ、赤ん坊のルチルをさしおいて齢二千のフィガロ様の機嫌をとるわけにもいかない。仕方がない。今はフィガロ様のことは一旦後回しにすることにした。
「ルチル、ごはんの準備ができたよぉ」
 すでに口をぱくつかせているルチルを抱き抱えると、ソファに腰掛け、ルチルの口に哺乳瓶の先をふくませた。
 くぴくぴと、ルチルが一生懸命にミルクを飲む。私もひと息ついたところで、ミスラがおもむろに立ち上がった。
「俺は帰ります」
 そうしてフィガロ様が何か言うより先に、さっさと空間を北の国につなげる。一瞬だけ北の凍えるような風が室内に吹き込むが、それもほんの寸の間のことだった。
 後にはミスラがいた形跡も跡形もなく消え去って、室内にはわずかに室温の下がった空気と、一心不乱にミルクを飲み続けるルチル、そして疲れて座りこむ私とフィガロ様だけが取り残される。
 昨晩はルチルの世話やら何やらしていたら、ほとんどまともに眠ることができなかった。おまけに常に同じ室内にミスラがいるストレスは尋常ではない。ミスラが部屋を去った今、張りつめていた緊張の糸がふつりと途切れ、蓄積していた疲労がいっぺんに私の身体に襲い掛かってきたようだった。
 ひとり安楽椅子に腰かけたフィガロ様は、何か思案に耽るように視線をぼんやり宙へと遣っている。私も特に何も言わずにぼんやりしていたが、暫く経ってから、おもむろにフィガロ様が呟いた。
「ミスラと随分仲良くなったみたいだね」
「……何処をどう見たら、私とミスラが仲良くしているように見えました?」
「慣れない新米お父さんと苛々する新米お母さんって感じに見えたよ」
「最悪です」
 百歩譲って私が新米お母さんに見えていたなら、シッターのし甲斐もあったというものだ。しかしミスラに関して言えば、昨日からこれといって役に立ってくれた記憶がない。ミルクを作らせれば地獄のマグマのように煮えたぎらせ駄目にし、ルチルを風呂に入れてもらおうにも入浴をミスラに任せるのは不安すぎた。おしめを替えるのだって先ほどのとおり。世話をするということにおいては、ミスラは役立たずもいいところだった。
「ミスラなんていない方が良かったですよ」
 ミルクを飲み終えたルチルを、げっぷをさせるため縦に抱きなおし、ついでにぶすりと言う。フィガロ様が呆れたように笑った。
「何をそんなに荒れているんだい」
「……だって、ルチルったら私よりもミスラに懐くんですよ」
「ははあ、それで君の虫の居所が悪いのか」
「ミスラなんて高い高いくらいしかできないのに」
「ミスラが高い高いをしたの? ルチルを?」
「しましたよ。恐ろしい高さまでルチルのことを放り投げてて、見てるこっちがショック死するかと思いました」
 それは赤ん坊をあやすというよりむしろ、放り投げてキャッチボールでもするんじゃないかと思うような、傍目に見ていて血の気が下がるような高い高いだったのだ。あんなものはおよそ人の赤ん坊にしてやる遊び方ではない。
 それなのにルチルは、私には見せたことが無いほどの笑顔できゃっきゃと喜び、何度も何度も宙に放られ続けていた。
「要するに、妬いてるんだ」
「妬……」
「赤ん坊のうちからルチルに手を付けておこうなんて、君もなかなか歪んでるね」
「そんなんじゃありませんっ」
 憮然として言えば、寄ってきたフィガロ様が「元気だしなよ」と頭を撫でてくれた。その様子を、ルチルが不思議そうに眺めている。
 ルチルをさしおいて子供のように甘やかされる自分が情けなくもあり、それと同時に嬉しくもあった。撫でる手を拒むこともなく、私はされるがままになっている。
「フィガロ様」
「ん?」
「今度同じようなことがあったとしても、もうミスラと二人きりにはしないでくださいね」
「あれ、もしかしてわざと二人きりにしたのに気付いてた?」
「気付きますよ……」
 相変わらず頭を撫で繰り回されながら溜息をつく。フィガロ様は悪びれた様子もなく、小さく笑っていた。
「悪かったね。もうしないよ」

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