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夜は永遠からいちばん遠い

「永く生きてるとそうそう驚いたりしないって思うけど、まさかチレッタの花嫁姿を見られるとは思わなかった」
 グラスを傾けながらしみじみ呟くフィガロ様に、私はありあわせで作ったつまみをテーブルに出しながら、「はあ」と気の抜けた返事をする。フィガロ様が飲んでいるお酒は、本日執り行われたチレッタ様の結婚式でいただいた引き出物だ。祝いの宴に次ぐ宴もようやく解散となり、つい先ほど私とフィガロ様は揃って診療所兼自宅へと戻ってきたところだった。あれだけ飲んだのに飲み足りないと言い、フィガロ様はこうして酒瓶を開けている。
 簡単に作ったつまみをすべてテーブル上に出し終えると、私もやっとテーブルに着く。フィガロ様がついでくださったグラスを恭しく受け取ると、私も昼間の結婚式を思い出しながら口を湿らせた。
 花嫁衣裳を身にまとったチレッタ様は、天上の貴人も斯くやというほどの美しさだった。昔から美しい方ではあったのだ。偉大な魔女として何ひとつ欠けることのない、完璧さを持つチレッタ様は、少々風変りなところもありつつも、つねに優しく、それでいて厳しかった。
 フィガロ様と同じく、長く北の国に城をかまえて暮らしていたと聞く。私のごとき木っ端は別としても、北の国でその名を轟かせるような存在ともなれば、威風辺りを払うようなところがあって当然である。
 チレッタ様はフィガロ様の弟子であり従者でもある私にはいつも優しく接してくれるが、時折その瞳の奥に凍てつくように冷え冷えとした色が隠れている。それはけして私を蔑んだりしているのではなく、試し、突き放すことで正しく距離を置こうとしているのだろう。弱肉強食で序列がつく北の国において、それは不自然なことではない。
 しかし今日のチレッタ様からは、そうした北の国のにおいが少しもしなかった。いや、今日だけのことではない。ここ最近、チレッタ様は春爛漫のようにあたたかく、鮮やかに輝きを放っている。
 南の国の魔女らしくなった、というのともまた違うのだろう。あれは、そういうふうにお国柄として乱暴に括ってしまうのが無粋に思える類の輝きだ。
「綺麗でしたねえ、チレッタ様」
 思い出すだけで胸がときめき蕩けてしまいそうになる。今日何度目かも分からないほどに繰り返した言葉を、今また飽きもせずに口にすれば、フィガロ様が呆れたように笑った。
「君にしては珍しいね」
「何がですか?」
「ファウスト以外の誰かを羨むこと」
 あまりに無神経なことを平然と言い放たれ、うっかり絶句する。口を滑らせた、という雰囲気でもない。もしかしたら、無神経なことを言っているという自覚もないのだろうか。
 フィガロ様は時々そういうことがある。私も魔女なので人間との会話の中で価値観のずれを感じることはあるものの、フィガロ様のそれはもはや断層レベルでずれている。
 果たして、わざとなのかそうでないのか。判断をつけられずに戸惑う私に構わず、フィガロ様は続けた。
「というか花嫁衣装が着たいのなら、チレッタに借りてこればいいんじゃないかな。チレッタはもうどうせ着ないだろうし、それに彼女なら喜んで君に着せると思うよ」
「……フィガロ様はすばらしい慧眼をお持ちですが、時々そういう頓珍漢なことをおっしゃるのはわざとですか?」
「わざとだよ」
 しれっと返され、頭を抱えたくなった。
「フィガロ様がもしも私の師匠でなければ、悪口のひとつくらいは浴びせていたかもしれません」
 苦々しく口にすれば、フィガロ様がけろりとした顔で笑って見せた。
「悪口くらい遠慮せず言えばいいのに。君に悪口言われたくらいじゃ、俺はちっとも傷つかないよ」
 そうしてフィガロ様はフォークをつまみに伸ばすと、
「俺のために生きるって『約束』はあるけど、それだって多分、そこまで君の行動を制限するものではないんじゃないかと思うし。何が言いたいかっていうと、」
 あくまでも世間話と変わらない声音のまま、フィガロ様は淡々と続けた。
「俺に遠慮せず、恋人くらい自由に作ったらいいのにってこと」
 その刹那、胸のあたりがひゅっと冷たくなるような心地がした。やはりというべきか、フィガロ様は私の心のうちなど全てお見通しなのだった。
 私が今日のチレッタ様に蕩けてしまうほど見惚れたのは、なにも花嫁姿が輝くばかりに美しかったからというだけではない。チレッタ様がどれほど美しくても、同じ魔女の私がいまさらその外見の美しさに呆けてしまうことはない。
 今日のチレッタ様があれほどまでに美しく輝いていたのは、終始チレッタ様の隣で穏やかにほほ笑んでいた新郎への愛情ゆえ。ひとえに、愛の力だ。
 永く生き、多くのものを目にしてきた偉大なる魔女が、年頃の娘のように、花がほころぶような甘い微笑みを向ける相手。それがあの人間の男性だ。チレッタ様は最愛の伴侶を見つけた。人間と魔女という種の違いすらも乗り越えて、かけがえのない相手を手に入れた。そのことをこそ、私は真に羨んでいた。そんな相手を私は持たない。
 すべてを見透かすフィガロ様の視線に晒されて、私は思わず顔を俯けた。もちろん、最愛の相手と出会い慈しみ合うことへの憧れはある。チレッタ様のような幸福を得られれば、どれだけいいだろうとも思う。
 けれど、もしも今すぐそうした相手が現れたとして、私がその手を取ることはあり得ない。
「私が嫌なんです」
 呻くようにぼそりと呟けば、すぐさま「何が嫌なの?」と返された。もしや試されているのだろうか、と考えてみたところで、わざわざ私を試す必要も理由もフィガロ様は持たないことに気付く。
 先ほどの無神経な発言についてはわざとでも、今の問いは本心から問うものだ。そのことに、少しだけがくりと気落ちした。
「フィガロ様以外の誰かのために心を乱されたり、思い煩わされたりするということが嫌なんですよ」
 正直に打ち明けて、私は一度溜息をついた。
「もちろんフィガロ様はそんなこと望んでないとおっしゃるだろうって、それは分かっているんです。今はもう魔法の指導もほとんどしていただいていませんし、私がどこで誰に心を砕こうがご興味ないことだと思います」
 そも、弟子入りだって無理を言ってお願いしたようなもの。その後の『約束』だって、私が勝手に契ったものだ。そこにフィガロ様からの要請はひとつもない。したがって私がフィガロ様以外のものに心を砕かないようにすることも──まるで操でも立てるように頑なになることも、フィガロ様にとっては私が勝手に意固地になっているだけにしか見えないのかもしれない。
「でも、私は一度決めたことは曲げたくありませんし、フィガロ様の唯一の弟子として、おそばにいさせていただく代わりに差し出せるものは、すべて差し出してしまいたいというか……」
 生涯フィガロ様に尽くすこと。我が生涯をフィガロ様のためだけに燃やし尽くすこと。それが私が己に契った『約束』だ。明確な線引きがない『約束』だから、フィガロ様の言うとおり、恋人を作るくらいのことは許されるのかもしれない。
 それでも、私はこの『約束』を何よりも大切にしている。保身のためではなく、フィガロ様の弟子として正しくあるために。
 私がフィガロ様の弟子であり続けるために。
 ぼそぼそと言葉を紡ぐ私の声を聞き届けたすえ、フィガロ様は苦笑を漏らした。それでも、その瞳は冷たくはない。
「君って本当、つくづく難儀だよね。よくそれで四百年近くも生きていられるものだよ」
 そうしてフィガロ様はグラスをテーブルに置くと、ぎぃと椅子を鳴らしてテーブルごしに身を乗り出した。
「だったらいっそ、俺と寝てみる?」
 突拍子もない師の言葉に、私は思わず目を見開いた。
「は、」
 言葉を失い、言葉にならなかった譫言だけが無意識にこぼれる。フィガロ様は表情を揺るがすこともなく、さりとて冗談だよと前言を翻すでもなく、いつもの飄飄としたおだやかな笑みを浮かべて私を見つめている。
 試されているのだろうか。背中をつうと冷たい汗が伝った。
「あ、あの、フィガロ様……、それはどういう……?」
「どうも何も、俺以外の誰かに尽くしたくないなら、いっそ俺でまかなっちゃえばいいんじゃないかと思うんだけど。この姿でもいいし、君が女の身体同士がいいっていうなら女になってもいいよ。さすがに人の形以外のものとって言われると、そこまで付き合うつもりはないけど」
 そういう性癖ある? と。面白そうに尋ねるフィガロ様に、
「そんな性癖ありませんっ!」
 ついつい声を荒げて返事をしてしまった。
「そうなんだ。二百年くらい一緒にいるけどまだ俺の知らない性癖がナマエにあったら、それはそれで面白いなと思ったんだけど。なんだ、ないのか」
「ないですよ。私のことを何だと思っていらっしゃるんですか……」
「いや、ないだろうなとは思ってたけどね。それで、どうする? 寝てみる?」
 かっかとしていた頭が冷え、同時にフィガロ様の声が冗談を言うときの調子ではないことを理解する。つまり、フィガロ様は本気で提案をしているということだ。私とフィガロ様が寝るという可能性について。
 寝る? 寝るというのはつまり、交合するということだろうか? 私が? 師匠であるフィガロ様と?
 ぼつぼつと頭に浮かぶ言葉をどうにかこうにか繋ぎ合わせ、その行為を脳内で想像してみた。まったく想像できない──ということもなく、残念ながらそれはいとも容易く想像できてしまう。
 元々フィガロ様は女性関係をきちんとしているわけでもない。私の中の師のイメージに、性的な要素はそれなりに含まれている。
 しかし、だからといって私がその相手を務めるのか。おそらくは百戦錬磨であろうフィガロ様のお相手が、私などに務まるのだろうか。
「……ふぃ、フィガロ様がお望みであるのなら」
 長い呻きののちに何とか絞り出した答えは、そんな四角張ったものだった。フィガロ様の指示には絶対順守の身の上だ。それが師の望みとあらば、この身くらい当然、差し出す覚悟はできている。
 しかしフィガロ様は、
「いや、俺は別にお望みじゃない」
 にこやかに首を横に振った。
「で、では──」
「でもまあ、やってやれないことはないんじゃないかな。その気になれば抱けないってこともないと思う。君もまあ、見どころがないってわけじゃないし」
「……あの、私、もしかして今、猛烈にひどいことを言われていますか?」
 私のささやかな文句を、フィガロ様はあっさり無視した。
「二百年ちかく、プラトニックな師弟関係を売りにやってきたわけだけど。まあでも、多少の刺激があった方が師弟関係がマンネリ化しないんじゃないかなって気もしてきた。ナマエはどう? 俺は別に構わないよ」
 二百年続けてきた関係を、ともすれば一夜でぶち壊しかねないような提案だ。おそろしくて震えてしまいそうになる。それなのに、フィガロ様はまるで夕飯のメニューを相談するような気軽さで話を進めていく。
 どくどくと、心臓が不穏なほどの速度で脈を打っている。ふと見ればフィガロ様の瞳が、今度こそはっきりと試すように、私の顔をじっくり見つめている。
 ああ、だめだ。私はその瞳の色に弱い。弟子として、試されれば挑まなければいけないような気になってしまう。
 まるで頭を吊る糸が頭上で切れてしまったかのように──気付けば私はしっかりと、フィガロ様に向けて頷いてしまっていたのだった。

 ★

 二百年も一緒に生活しているが、ひとつのベッドに私とフィガロ様が一緒に寝そべるのは、これがはじめてのことだった。本来ならば、事が済んだ時点で、さっさとベッドから降りるのが弟子としての私の正しい行動のような気もする。いつまでもフィガロ様の布団に身体を沈めていようなど、図々しいにもほどがある。
 しかし今は腰を中心に体全体が怠くて仕方がなかったし、何よりフィガロ様の指先が私の髪の毛束を弄んでいるものだから、それでは私はこれで、などとは到底言い出せない雰囲気だった。
 ただ、事後の甘い空気というのとは違う。その証拠に、私の中から抜いたきり黙って私の髪を弄り回していたフィガロ様はやがて耐え切れなくなったかのように、「あのさぁ、君さぁ」と呆れたような不機嫌なような、何とも判断のつきにくい声を発した。
「今いくつだっけ?」
「もうじき四百になります」
「それなのに、男と寝たことなかったの?」
「じょ、女性と寝たことだってないですよ」
「そういうことを言ってるんじゃないんだよ」
 はあ、とこれ見よがしな溜息をつくフィガロ様に、私は肩を縮こまらせ、できるだけ申し訳なさそうに見えるように繕った。
 ありとあらゆることに関して、魔法使いや魔女というのは人間よりも自由だ。いっそ奔放とすらいえる者も少なくない。人間に比べ長い時間を生きる私たちは、しばしば退屈を持て余す。もとから優れた外見を持つものも多いが、そうでなくとも姿を自在に変えられて、なおかつ不思議の力を従わせている魔法使いは、その気になれば夜ごと相手をとっかえひっかえすることだって不可能ではない。
 私もそろそろ四百歳を迎えようとしている。フィガロ様から見ればひよっこでも、魔女としてはそれなりに生きている方だ。それなのに、今日まで一度も男女のまじわりを経験したことがないなどとは、さしものフィガロ様でも想像していなかったようだった。
 ようやく私の髪を指先からほどき、フィガロ様は身体を起こす。私も慌てて起き上がろうとするも、起こした肩をやんわり押し返された。はじめての性交で疲弊した身体は、小さく力を掛けられただけでもあっさり布団に逆戻りする。
 素直に枕に頭をあずけ、私はフィガロ様を見上げた。枕元に置かれたランプの灯は、フィガロ様の身体に阻まれ、その光を私まで届かせることはない。フィガロ様の表情は判然としなかったが、それでも雰囲気から、仏頂面をしているのではないことだけは分かった。
「俺もさ、別にひとでなしってわけじゃないんだから。初めてなら初めてって言ってくれたら、もっとこう、こんなノリでやったりしなかったよ」
「そうなんですか……? フィガロ様は大概ひとでなしだと思うのですが」
「なんだって? 俺の何処がひとでなしだって?」
「何でもありません……」
 むい、と鼻をつままれる。今までそんなふうに親しみを込めて触れられたことはなかったから、うっかり胸がざわついた。ともすれば繋がっていた先ほどまでよりもずっと、心がさんざめいている。
 しかしそのときめきにも似たざわめきは、フィガロ様の次の言葉ですぐさま雲散霧消した。
「いっとき処女食いがマイブームだったことがあったんだ。まだ北にいた頃の話だけど。だからこう見えても俺は、初心な女の子の取り扱いには一家言持ってるよ」
「こう見えてもどう見えても、言っていることが普通に最悪なんですが……師でなければ引いてました」
「いいじゃないか。何処ぞの冴えない男に嫁ぐ前に、人生に夢を見せてあげてたんだよ。その後の短い人生の支えになってあげてたっていうのかな」
「なお最悪ですよ……」
 こうして処女をフィガロ様にささげた私が言うのもなんだが、今後ほかの男に嫁ぐだろう娘たちが最初の花を散らす相手がフィガロ様というのは、どうにも彼女たちに良くない影響を与えていそうな気がしてならない。だいたい、私相手ですらフィガロ様は優しく導くように抱いてくださったのだ。フィガロ様の言うところの「初心な女の子の取り扱い」にのっとった、本気の処女落としの手練手管など使われた日には、乙女たちは並の男では満足できなくなってしまうのではないだろうか。
 私の知らないところで男女の不和を氾濫させていたかもしれない、師のかつての悪行に溜息をつきたくなる。こんな話は今聞きたくはなかった。
 それにしても、と。がっかりする私をしりめに、やおらフィガロ様が切り出した。
「こうして二百年ちかく一緒に生活していても、まだまだ知らないことってあるもんだなぁ」
「隠し事をしていたつもりではないのですが」
「ああ、責めてるわけじゃないよ。それに、結局全部俺があばいちゃったしね」
 親父くさいことを言うフィガロ様なのだった。これはさすがに脱力して無視したが、フィガロ様も別に、反応がほしかったわけではないらしい。
「時々こういうことをしてみてもいいのかもしれないな」
 あっさりと切り替え、そんなことを言い出す。
「何というか、新鮮だったよ」
「新鮮、ですか」
「うん、それに思っていたよりずっとよかった」
 ふわりと放られた言葉は、もしかするときちんと読み解けば、何らかの感情を探り当てられたのかもしれない。しかし私ははじめての性交で疲弊しきっていたし、ぐったりとベッドに仰向けになった状態では、フィガロ様の言葉を読み解こうという気力も体力も持てそうにはなかった。
「そんなに期待値が低かったんですか……」
 弟子としてあるまじきことだが、私はフィガロ様の言葉を咀嚼することもせず、適当に受け流した。フィガロ様は、今日何度目かの溜息をつく。
「そこは素直に喜べばいいのに」
「今の言葉をですか……?」
「愚かな弟子を持つと苦労する」

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