嫉妬と分水嶺

 談話室でたまたま顔を合わせたカインと話しこんでいたところ、食堂の片づけを終えたネロが私を迎えに来たのか、ひょいと顔を出した。
「あっ、ネロ。それじゃあカイン、また明日」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
 短く夜の挨拶を交わし、私は急ぎネロのもとへと向かう。私がそばに寄るのを待って歩き出したネロは、少しばかり申し訳なさそうに眉を下げて言った。
「別に話を中断してまでこなくてよかったのに。どうせ後で部屋で会うんだからさ」
「いえ、全然大した話はしていなかったので」
 今夜はもともとネロの部屋で眠る約束をしている。ネロが私を見かけ迎えに来たのは明らかだったから、それを無視してまでカインと話を続けるつもりもなかった。実際、ネロに言ったとおりカインとは大した話をしていない。
 布張りの階段は、一歩踏みしめるごとに足音をすっかり吸い込んでしまう。音もなく階段を上りながら、私はふと、ネロと恋人同士になるより前のことを思い出していた。
 物思いにふける私に気付き、ネロが首を傾げる。
「どうした?」
「少し、思い出したことがあって」
「へえ、どんなことを」
「ネロとお付き合いを始めるより前に、ブラッドリーから『カインとくっついてネロに妬かせろ』みたいな話をされたなぁと」
 口にした途端、ネロが露骨に顔を顰めた。
「はぁ? 何考えてんだ、ブラッドのやつ」
「その時はそういうやり方はどうかと思うってことで、実践はしなかったんですけど。カインと話をしたせいか、急に思い出しました」
「実践しなくて正解だよ。そんなアホくさいことに巻き込まれるカインに悪いしな」
 呆れ果てたように溜息をつくネロに、私はたまらず噴き出した。ブラッドリーの策はそれなりに定石だと思うのだが、たしかに巻き込まれるカインはたまったものではない。
 そもそも他人の恋愛に巻き込まれるなど、考えただけでげんなりする。幼かったころ、同じ学校に通っていた女子たちの仁義なき恋愛騒動に巻き込まれ、互いにまったくその気のない相手との噂を立てられた挙句、嫉妬の嵐にさらされ痛い目を見たことがある。その一件で、人の恋路にかかわっては碌なことにならないのだと私は学んだ。
 カインだって同じ賢者の魔法使いであるネロと、嫉妬だなんだでぎくしゃくしたくはないだろう。つくづく実行しなくてよかったと思う。
「そういえば私はネロの女性関係で、あんまり嫉妬とかしたことがないです」
 話の流れで思い付いたことをそのまま口にする。ネロが声を立てず、薄く笑った。
「まあ、そうだな。俺のまわりで女のひとって言ったらあんたと賢者さん、それにカナリアさんくらいだろ。カナリアさんは人妻だし」
「でも、一緒に出掛けたときとかたまに、女の人に色っぽい視線送られたりしてますよね?」
「はは、そうか?」
「そうですよ。だけど、そのわりには私はあんまり嫉妬みたいに思ったことないなって」
「それ、俺はショックを受けるべきところ?」
「いえ、そういうわけではないんですけど」
 もちろん、ネロが誰とどうなろうとどうでもいい、などという話ではない。ネロはこんなにも見た目が整っているうえに、中身は見た目を上回るほどのよくできた人なのだ。私以外の誰かがネロに好意を向けたとしても、それは何ら不思議ではない。
 それでも私は、ネロと付き合い始めてこのかた一度も嫉妬をしていない。
「多分ですけど、ネロがほかの人に靡いたり、浮気心を出したりしないって分かってるから、ですかね。だからこう、平気でいられるのかも」
「まあ、そうだな。たしかに浮気心出す気はないよ」
 私の呟きにネロが首肯する。そして束の間何かを思案するように瞳を伏せたかと思えば、おもむろにまた口を開いた。
「嫉妬はさ、されるのもしんどいけど、するのだって相当きついだろ」
「それはネロの経験談ですか?」
「どうだろうな」
 ネロの顔に張り付いた笑みは、そうであるとも取れるし、そうではないと言っているようにも見える。長命の魔法使い特有の老獪さとでもいうのだろうか。こういうときに彼が私と違う生き物であることを、不意に目の当たりにしたような気分になる。
 戸惑う私の手を引いて、ネロは止めていた足を出す。言葉もまた、ともに階を上る。
「嫉妬すること自体がエネルギーを使って疲れるし、ましてあんたの性格考えたら嫉妬で相手の女のひとや俺にばっかり怒りをぶつけるタイプでもなさそうだ。自分の中でよくないなって分かっているものを抱え続けてるのは、やっぱりきついことなんじゃねえかなって、俺なんかは思う。俺とあんたには似たとこがあるから、余計にそう思うのかもしれねえけどさ」
 ネロの一段下を遅れてついていく私を、ネロは手を引きながらゆるやかに見下ろした。
「そういう気持ちでしんどくなられたくないから、というかなってほしくないから、だから極力あんたが嫉妬なんてしないで済むように気を付けてはいるよ」
 最後は諦めたような投げやりな調子で締めくくられた言葉は、しかし間違いなくネロの本心であり、ゆえに言葉を覆う投げやりさも、ネロなりの照れ隠しであることは明白だった。
 余計なもめごとを起こさないためではなく、まして保身のためでもなく。私が心穏やかにいられるように、私のために、ネロは嫉妬の芽を律儀にこまかく摘んでいる。ネロほど魅力的な人ならば、きっとその労力だって途方もないものだろう。好意を持たれることは時として、ネロの意思だけではどうにもならないものなのに。いっそ適当に受け流してしまった方が簡単なことだってあるだろうに。
 ネロの誠実さはいつも、地道で健気で気付きにくい。しかしひと度その誠実さに気付いてしまえば、そのひたすらに研ぎ澄まされた鋭利な純粋さに慄いてしまいそうになる。その誠実さを愛おしく思えるか、わずらわしく、あるいは恐ろしく感じてしまうかが、きっとネロと生きていけるかの分水嶺のようなものなのだろう。
 喉元に突き付けられた誠実さの刃を、まるで手のひらで握るように──その誠実さに応え続けなければならない途方もなさを思いながら、私は笑う。
「ネロの話を聞いていたら、ほんのちょっとでもブラッドリーの提案を『そういうのもありなのかもしれない』と思ったこと、恥ずかしくなってきました……」
「はは、まあ未遂だったし良しとしておけよ」
 やがて招き入れられたネロの部屋のドアが、私の背後で音もなく閉まった。

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