April showers bring May flowers.(3/3)

(3/3)

 そんな一人反省会をしていた私に、着替えを終えた名前がにじり寄る。そうして私の枕元まで這いよると、きゅっと眦(まなじり)を上げ、私をしっかりと見据えた。
「仕事のことなら追及したりはしないけれど……でも、私との間のことに何か思うことがあるというのなら、ちゃんと話してほしい」
「名前、」
「私たち、夫婦でしょう」
 そう言って、名前はじっと私を見つめた。
 その視線のまっすぐさに、私はたまらず深い溜息を吐き出した。言葉を交わさなかった四年の間、お互いに変わってしまったことは多々あれど、名前のこの瞳だけはまったく変わらない。というより、ここのところかつてのまっすぐな輝きを少しずつ取り戻しつつあると言おうか。
 こうして私を見ている眼は、まぎれもなくかつての名前と同じおなごのそれである。
 そして私は、この眼にはめっぽう弱い。それでも昔ならばいくらでも逃げようがあったが、夫婦となった今となっては逃げることだってできない。この眼の投げかける問いかけに答えることでしか、私は何も許されることはない。
 再び、溜息をつく。それから私も床の上で起き上がると、いそいそと夜着を羽織った。
 真面目な話をするというのに、裸では格好がつかない。
 名前の視線に晒されながら手早く着替えを済ませると、私は満を持して名前と向かい合った。先ほどまで私に背中を向けていた名前は、今は居住まいを正して私の方を向いていた。名前の眸と相対するように、私はあぐらで名前と向き合う。
 呼吸をひとつ、ふたつ。
 思えば、この女と夫婦となってからというもの、私は情けなく女々しい話ばかりをさせられているような気がしてならない。そんなことを思いながら、私は一度引き結んだ口を、ゆっくりと開いた。
「嫉妬、するんだ」
「嫉妬?」
 不思議そうな顔で名前が繰り返す。
 名前が不貞を働いてなどいないことは自明だが、それどころか名前はほとんど私以外の男と言葉を交わさない。馴染みの店では最低限の言葉くらいは交わすものの、それだけだ。嫉妬などと言われても身に覚えがないのは当たり前のことだった。
「床でのお前を見るたびに──抱くたびにな、お前を女にしたあのひとに、私は嫉妬する」
 私の言葉に名前の肩が小さく揺れたのが分かった。
 先ほど肌を重ねていたときまでとは打って変わって白んだ肌が、夜の闇の中に冴えるように際立っている。その気配で、名前が私に掛ける言葉を選んでいるのだろうことが分かって、私は先手を打つように言う。
「分かっている、言っても詮ないことだよ。過ぎた時間は戻らないし、積み重ねた経験は消えない。お前が──名前があのひとと暮らし、過ごし、得たものはなくならない。分かってるんだ。分かっていて、お前を娶った。知っていて、それでいいと思った。思っていたのに」
 そうだ、すべて分かっていたことだ。分かり切っていて、痛いほど分かっていることだった。
 名前が忍術学園を退学すると知ったあの日、何もしなかったのは私だ。自分の置かれている状況と来たるべき未来を天秤にかけ、垣根の裏でうずくまったまま何もしなかったのは私だ。
 自分の気持ちを知っていた。
 名前の気持ちも知っていた。
 知っていて、手放した。仕方がないことと諦めて、ほかの男のもとで幸せになってくれることを祈った。自分にできないことをほかの男に託したのは、ほかでもない私だった。
 嫉妬する権利なんて、そんなものは私にはない。
 妬ましく思う道理など、どこにだってない。
 私はただ、私の選択した結果を享受しているに過ぎない。
 ほかの誰もがそうであるように。名前だってそうであるように。
 名前に責められるかどはないのだろう。夫婦になった男のため、尽くす手立てを覚えることは女の生きるすべでもある。たかだか十四の名前が、よくしてくれる年上の夫のために手練手管を覚えこんだとして、それのどこに責められるかどがあるというのだろう。むしろ褒められてしかるべきところだ。妻として、その献身はおそらく正しい。
 だからこんなことをうだうだと考えている私の方がどうかしている。
 どうかしているのだ。

 その時、ふいに名前が腰を上げた。かと思えば、そのまま膝立ちで私の首に腕を回し、ぎゅうとしがみつくように抱きしめた。突然のことに私は固まる。先ほどまで抱き合っていた間柄だというのに、不意打ちのような抱擁に、私は柄にもなく面食らっていた。
 名前の方からこういうことをするのははじめてのことだった。
 私の首のつけねに顔をうずめた名前は、小さく発する。
「ごめんなさい、三郎」
「なんでお前が謝る。悪いのは私、狭量な私だろう。まったく、自分でも嫌になる」
「そんなことない」
「そんなことあるんだよ」
 それでも名前は「そんなことない」と繰り返す。聞き分けの悪い子供のような頑なさに、私も笑うしかない。しがみつく名前の背中に腕を回し、まるで本物の子供をあやすように言った。
「いや実際、そんなことあるんだ。だってお前、自分のおなごが床上手なんだぞ? 夫としては喜びこそすれ、何を落ち込むことがあるんだ。実際、その恩恵にあずかってるわけだしな」
 ことさら陽気に笑う。私にしがみついていた名前が、ようやく顔を上げた。むっと口を尖らせた顔はまるきり納得していないようにしか見えなかったが、その不満顔には気が付かないふりをした。
「いいんだ。ただ、羨ましく思うというだけだよ。何も知らないお前を抱けるのは最初の一回きりだしな」
 その最初の一回をほかの男にみすみすくれてやったと思うと、正直内心穏やかではいられないわけだが。その一回を自分のものにしたかったと思わないはずもないのだが。
 そんな気持ちを込めて私は笑う。すると、相変わらず不満顔の名前はほんの束の間視線を伏せた。それから私の足の上でなんだかもぞもぞしていたと思えば、ぎゅっと眉根を寄せて私を睨んだ。
 怒っている顔ではない。
 どちらかといえば──拗ねている。
「鉢屋はずるい……」
 絞り出すように小さく低く吐き出された言葉に、今度は私が首を傾げる番だった。
「は? ずるいって何が」
「鉢屋だって、最初の一回は私にくれなかったのに……」
「はあ?」
 言っている意味がよく分からなかった。おなごの「はじめて」と男の「はじめて」が同じものであるはずがないのに、こいつは一体何を言っているのだろうか。
 しかし名前は構わず続ける。 
「私だって、鉢屋の最初が欲しかった。鉢屋の全部を知りたかった。鉢屋の全部を、私のものにしたかったわよ。どんな鉢屋だって、私が知らないのは嫌だって、私だってそう思って──そう、思ってるのに」
 そこで名前は再び視線を伏せた。胸の内からあふれてくる言葉を押しとどめるようなその仕草に、はからずも私の胸がぐっと締まるような心地がした。
 ──なんとまあ、いじらしいことを。
 自分ひとりきりの願望であれば、ただ己が狭量でせこせこした男なのだとそう思うところだが、それを好いたおなごから同じように言われるというのは、なかなかぐっと来るものがある。
 ──ずるい、か。
 子供っぽい言い分ではあるが、それすら堪らなく思われるのだから私もなかなか重症である。今すぐぎゅうと抱きしめ返してやりたいような気がしたが、それは何とか堪えた。そんなふうにして有耶無耶にするよりは、今はとにかくこの拗ねたおなごを堪能しようと思ったのだ。
 意地を張って可愛げがないのはいつものことだが、頬染めて拗ねた顔を見せるのは、なかなか珍しいことである。
 そんな私の目論見を見透かしたのか何なのか──名前は再び目つきを険しくすると、ぎゅっと目に力を込めて私を見た。それから人差し指を私の鼻先に突きつけて、
「だから、これから先の鉢屋は全部私のものにするのよ」
 と、そう宣言した。
「……ん?」
「意味が分からない? 一番最初と、何回か、何十回か……とにかく、私はこの四年分の鉢屋のことを見逃したわけでしょう。だから、ここから先の鉢屋のことは何も見逃さないようにするの。全部私が知りたい。全部私のものにする」
 さも名案だとでも言いたげに、名前は満足そうに笑った。そのドヤ顔に、私も思わず吹き出す。
 なんというか、まあ、こいつはこういうやつだった。よくよく考えてみるまでもない。伊達に五年も私の背中を追いかけ続けていない。底抜けに一途で、想像もつかないくらいまっすぐ愚直だ。恐らくは私と同じようなことを、名前も悩んでみたりしたのだろうが──そこから先、こいつはきっぱり過去を諦めたのだ。つまりはそういうことだろう。
 嘆いても悩んでも、過去は帰らない。過去は過去。誰にも手だしできず、どうしたって変えることはできない。
 だから名前は、未来に手を伸ばすことにした。ここから先、まだどうとでもなる時間をめいっぱい欲張ることにした。
 いやはや、豪胆というよりはもはや業突く張りの域である。私の未来を丸ごととは、随分大きく出たものだ。
「お前は本当に、昔から変わらないな」
「えっ、そうかしら」
 自分の言葉の意味を深く考えていないのか、名前はそんなとぼけたことを言う。この女は、自分が私の憂鬱を軽く飛び跳ねていったことになど、きっと気付いていないのだろう。
「そうだよ。お前はいつでも、……まあ、いい」
「な、何よ? 言いかけたなら最後まで言ってちょうだいよ」
「いやだ。絶対に言わない」
 何が悲しくて、こいつのことを褒めてやらねばならないのか。
 相変わらず私の足の上に乗っかって、困惑した顔をしている名前に、私はにやりと笑って見せる。悩んでいるのも馬鹿らしい。大体、妻の方にここまで言われていつまでも悩んでいるほど、私も甲斐性がないわけではなかった。名前を抱え直し、私はすっと目を細める。
「まあいいさ。それにしても、ふうん……、私がお前のものになあ」
「だってそれが夫婦ってことじゃないの?」
「どうだろう、私は忍びだぞ。お前には言えないことなんか山ほどある」
 わざと意地の悪いことを言ってやる。しかしそれが事実であることは名前も分かっていた。
 忍びである以上、どうしたって家族に対しても秘密ができるのは仕方がないことだ。秘密を守ることこそ、最終的には家族を守ることにもつながる。知らないということは知っていることよりも安全でいられるということだ。
 この先忍びを続けていく以上、名前に対しても秘密はきっとどんどん増える。言えないことが増えて、言える言葉は少なくなっていくのだろう。それが忍びとして生きていくことを決めた人間の宿命である。
「だがまあ、──そうだな。それ以外のもの、つまり仕事ですり減らし切り売りする以外の部分については、お前の言う通り何もかもお前にやろう。いいぞ、くれてやる。まったく全部、何もかもだ。その代わり、お前も私に全部差し出せよ。それでよしとする」
「……なんでそんな上から目線なのよ」
 呆れたように笑う名前は、やはり拗ねたような、しかしまんざらでもないような顔で私を睨んだ。

 April showers bring May flowers.; 塞翁が馬

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