「あまり、変わらないわね」
 ひゅうっと風が横を通り過ぎる。久しぶりに里に帰った時、少しだけ里が賑やかになったのかと思った。城下を歩けば民が幸せそうな笑みを浮かべている。女も子どもも百姓も皆が皆、笑みを浮かべている。そしてその誰もが口にする。“信長さま”と。聞き慣れないようで聞き慣れた名前にわたしの探し求めている人物がここに居るのだろうと確信した。
「もしやなまえか?」
 不意に背後から聞こえた声に振り返った。そこには知らない男が数人、一番立場が偉いであろう男が一人、馬に乗っていた。馬に跨る男は自分の手前に上品そうな雰囲気を纏った女を乗せていた。部下であろう男の内一人がもう一度わたしの名前を呼んだ。知らない誰が自分の名前を知っているというものは如何せん気持ちの良いものではない。それが男にも伝わったのか、男は慌てたように馬に乗った男に一言伝え、わたしの元へと駆けてきた。
「覚えておらぬか? わしじゃ! 恒興じゃ!」
 随分と久しくその名を聞いたような気がした。わたしの記憶に残る恒興という男はわたしより背が低く、情に熱い男だった。
 ぱちり。一つ瞬きをして目の前に来た男を見やる。なるほど。確かに見覚えはあった。目の前の男はわたしより幾分背の高いものではあったが目や鼻を見れば男がわたしの知る恒興という男に当てはまるものだった。
「恒興? 本当の本当に?」
「あぁ! 真にわしが恒興じゃ!」
 「随分と久しいな!」ニカッとまるでお日様のような笑みを浮かべる恒興につられるようにわたしの頬も緩んだ。
「いつぶりかしら」
「わしが元服してすぐだったからな」
 にこにこと嬉しそうに笑う恒興は昔も今も変わってなどいなかった。恒興の笑顔を見てわたしは胸の奥にじんわりと温かい何かが広がるのを感じた。その反面、ちくりと胸を刺す痛みがあるのも確かだった。
「恒ちゃん、その子誰?」
「信長さま! なまえはわしの昔馴染みでして! わしが元服したと同時に旅に出るような好奇心旺盛な女子です!」
「ちょっと恒興! 余計なこと言わないでいいじゃない!」
 馬に跨る男を恒興は信長さまと呼んだ。もしやこの男が件の“信長さま”という者だろうか。ふと男を見やるとバチりと視線が合ってしまった。男は何を考えているのか分からないような顔でわたしをジッと見ていた。
「恒ちゃんの幼馴染み?」
「はい!」
 男の問いに元気良く応える恒興を横目に男を盗み見る。男は依然とわたしをジッと見つめていた。飄々としたような身なりの男は何とも言えない不思議な雰囲気を持っていた。
「俺は織田信長といいます」
 「恒ちゃんにはいつもお世話になってます」男が口を開いたかと思えば自らの名前を名乗った。わたしは男の名前に内心とても驚いた。
 織田信長。わたしが探し求めていた人物がこの男か。
 もう一度、男を見やる。信長と名乗った男はわたしを見ていた。
「あのさ」
「……なんでしょう」
「帰蝶ちゃんの侍女にならない?」
 「恒ちゃんの幼馴染みなら尚更歓迎だよ」表情一つ変えないままに言う信長に胸を占めるは言い知れぬ恐怖だった。「帰蝶ちゃんもいいでしょ?」「勿論です」あれよあれよと進められていく話にわたしはただ事を任せるだけだった。

「また旅の話でも聞かせてもらえませんか?」
「えぇ、勿論ですよ」
 上品に笑う帰蝶さまを目の前にする。あの日、あのまま信長さま一行に連れられてきたお城で暮らすようになって数日。帰蝶さまはあの日恒興が言った言葉を覚えていた。お城に着いた途端に帰蝶さまから今までの旅の話を聞かせて欲しいと言われた。静かな雰囲気ながらも瞳を爛々と輝かせる帰蝶さまにわたしは小さく笑みを零した。それからというものの、時間があればこうして旅の話をするようになった。いつか飽きるだろうと始めた話は帰蝶さまにとっては反対のものだったようで。帰蝶さまは口癖のように、いつか信長さまと旅をしたいと口走った。
 純粋無垢な帰蝶さまはわたしには無いものを沢山持っていた。わたしにとって帰蝶さまは正しく女性であり、眩しいものであった。
「……本当に、羨ましい」
「何か言いました?」
「いえ、何でもありません」
 小さく呟いた独り言を誤魔化すように表情に笑みを浮かべれば帰蝶さまはとても綺麗な笑みを浮かべた。

「何故帰ってきたのじゃ」
「ただの気まぐれよ」
 「別にいいじゃない」帰蝶さまの部屋から自室に戻る道中に偶然会った恒興に問われた言葉。どくんどくん。変に脈打つ心臓を宥めるように一つ息を吐けば恒興は怪訝そうな瞳をわたしに向けた。
「だったら何故今まで文の一つも寄越さなかった」
「それも気まぐれじゃない」
「だが!」
「わたしがどういう性格か、恒興はよく知ってるはずでしょ」
 これ以上聞くなとでもいうように恒興を見やれば彼はうっと言葉を詰まらせた。
「ねぇ恒興」

「女にしかできないことだってあるのよ」
 目の前に立つ恒興を見ながらそう伝えれば彼も真っ直ぐにわたしを見てきた。
「そうだな」
「だったら!」
「だが男にしかできないことだってあるだろう?」
 わたしの言葉を遮るように、ぎゅうっと恒興のその腕がわたしの背中に回された。耳のすぐ側で恒興の吐息を感じた。
「なまえは女子。わしは男じゃ」
「……」
「女は黙って男に守られていればよかったのじゃ」
 「この阿呆娘」恒興の切なげな声が耳朶に響いた。ぎゅうぎゅうと回された腕の力が強くなっていく。それはまるで逃げないように、消えないようにと必死に捕まえていようとしているようだった。わたしはそんな恒興の思いには応えることはきっと出来ないだろう。それは女として生きることをやめた時から分かっていたはずだった。それでも今は、今だけでも恒興に応えられるような女の子だったら良かったのにと思ってしまった。
 とくんとくん。着物越しに伝わる拍動は恒興のものか、それともわたしのものか。


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