窓の外から子供たちの歌が聞こえる。
ケーキ屋が最も忙しくなるというこの時期、薔薇の王国では夕暮れ時になるとキャンドルをもった聖歌隊の子どもたちが街に並ぶ。美しい調べが冷たい風にのってリドルの部屋へ届く。

幼い頃、友人達がリドルの部屋の窓を叩いて遊びに連れ出していたことを知った母はリドルの部屋を二階に移動させた。生垣を越えても誰も窓を叩けない高さで、窓の外には洒落た装飾が施されたが要は飾られただけの鉄格子だった。部屋には外から鍵が掛けられ、一切の自由が無くなった。思えばこの頃からリドルは家で笑うことをしなくなったのだと思う。
唯一の救いは、窓から家の裏庭が見下ろせたことだ。薔薇の王国の者は元来(仕事でいつも忙しくしていたリドルの親は特殊な例外であった)、庭木や置物で飾られ、お茶会を開くための庭を愛したが、それとは別に表からは見ることのできない、パーソナルな庭を大切にしていた。そこはリドルに許されたたったひとつの楽園で、小さい頃から手をかけて育てた一本の薔薇の木があった。そう大きな木ではないが、辺り一面に白い雪の中に、魔法で一年を通して咲く薔薇が赤い花を咲かせていて、部屋の窓から見下ろせばきれいにデコレートされたケーキみたいに見えた。

学園にも雪は積もっただろうか。リドルは頭の中に寮や、校舎の古城を思い浮かべた。学園を出たときの鏡の間でのやり取りが連想されて、無意識に唇を尖らせた。飄々とつかみどころのない同級生の、帰りたくないなら帰らなきゃいいのにという言葉を思い出す。人を愛玩動物か何かのように扱う物言いには腹が立つが、錨を抱いて海に沈むような気持ちがその奔放さで僅かに浮上するのを自覚していた。


何かが窓を叩くような音が聞こえた気がした。風が強くなってきたのだろうか。課題のための本から顔を上げ何気なしに窓を見ると、そこにあり得ないものを見た。
──なぁにしてんのぉ?金魚ちゃん
窓硝子越しで声が籠もっているが、窓と鉄格子の向こうでにやにや笑っているのは間違い無く、今思い浮かべていた同級生、オクタヴィネルのフロイド・リーチだった。
「ど」
人は本当に驚くと声が出ないというのはほんとうらしい。どうしてと声を上げようとしたが慌てて立ち上がり椅子を倒しただけで終わった。窓に飛びついて内開きにそれを開く。大きな口の両端を持ち上げて楽しそうに笑う、やはりフロイドだ。
「どうしてここにキミがいるんだい……!?」
階下の母親を気にして、囁くような声色で叫んだ。
ホリデー初日、鏡の間で会ったときは彼は学園に残ると言っていたはずだ。ましてやリドルの故郷である薔薇の王国にいる理由なんて無い。困惑するリドルをよそに、フロイドは掴んだ鉄格子をつまらなそうに示した。
「ねぇ、これ邪魔なんだけど。壊していい?」
「えっ、それはちょっと待て!フロイド……窓枠に掴まって」
大きな手が鉄格子の隙間から窓枠をしっかり掴んだことを確認して、リドルは呪文を唱えた。
「火と太陽によって姿を変えるもの、草木に雪、星と砂糖」
マジカルペンを鉄格子に軽くぶつけると、固く重苦しい影を部屋に落としていたそれが革のベルトのようにくたくたと曲がって窓の外へ垂れ下がった。フロイドは可笑しそうに片手で硬い鉄だったものを持ち上げて笑った。あとで幾らでも戻せるとはいえ、母親が取り付けたそれを変化させたのは初めてのことだった。
「すげぇ金魚ちゃん、鉄の変化呪文も使えるんだぁ」
「授業の応用だよ……ところで何故キミがここに、それにここは二階だよ!?どうやって登ってきたんだい?」
窓の隙間から見下ろせば、煉瓦の壁の僅かな凹凸に靴の先を引っ掛けてバランスをとっているようだった。フロイドは平然と窓枠に肘をついてへらりと笑う。
「あぁ、俺こういうの得意なんだぁ」
おそらく家の敷地にも正面からではなく生垣を飛び越えて来たのだろう。正面のアーチには来客を感知する魔法がかけられていたはずだ。リドルは階下の母親の気配に耳をすませて、すばやく声をかけた。
「窓からで悪いけど、入っておいで。その足場じゃ見ているだけでどきどきする」
「はァい。お邪魔しまぁす」
「どうぞ」
長身を器用に屈めて、フロイドは窓から体を滑り込ませた。さすがにいつもの制服姿ではなく、暗い色のセーターにスラックス姿だった。どちらも丈が足りていないのが少し可愛らしいと思ってしまう。寮とは違うにおいがするねぇ、と言ってフロイドは部屋を見回した。実家の部屋に彼がいるのは妙な気持ちになる。
「金魚ちゃん」
甘ったるい声で渾名を呼ばれ、いつものように抱き寄せられる。これは本当に現実のことなのだろうか、と思いながら素直にその腕の中に収まると、体の冷たさにぎょっとした。
「フロイド!キミ……こんなに冷えてしまってるじゃないか」
「ん?別に、海の冬はもっと冷たいよ?」
「そういう問題じゃない。本当に何故ここに……」
冷え切った手をとって自分の頬に押し当てると、ヘテロクロミアの瞳が嬉しそうに細められた。
「金魚ちゃんがいない間、なぁんかメチャクチャ大変だったんだよ」
「あ、あぁ。トレイから連絡があった。スカラビアでオーバーブロットがあったって……、キミも巻き込まれていたんだってね」
「そ。俺ちょっとがんばったから金魚ちゃんに褒めてもらいたくて、会いにきちゃった」
「それだけのために……わざわざここへ?」
「うん、金魚ちゃんの家も見れてラッキィ」
フロイドはぎざぎざの歯が並ぶ口を開けて笑った。学園長が不在にしている休暇中に闇の鏡で未知の場所へ行くのは相当の魔力や強いイメージが必要なはずだった。フロイドがリドルの生家の場所や外観をイメージできるはずがないので、おそらく強くリドルのことを考えて鏡をくぐったのだろう。そして、あかりの灯るこの家の窓にリドルを見つけた。その光景を思い浮かべると、胸のうちにキャンドルが灯ったような心地になった。
愉快そうにこちらを見下ろす一対の金とオリーブを見上げる。
「キミはすごいね」
「え、直球で照れんだけど」
「そう思っただけだよ」
言葉の通り、フロイドは本当に少し気恥ずかしそうに頬を赤くした。いつもは人を見透かしたようなこの男も、人の素直な感情には動かされるところがある。最近わかった意外な側面で、こうしていると肚の読めないと思っていたオクタヴィネルの取立屋も、ひとりの同級生だと思える。フロイドは何かを考えるように唇を噛み、腕の中に収めたままのリドルを見つめた。
「ねぇ、キスしていい?」
「冗談をお言いでないよ」
「ちぇー」
大きな口をマジカルペンで制すると、フロイドは無害であることをアピールするように両手を広げて顔の高さに持ち上げた。よく似た仕草を同じクラスのジェイドがやっているのを見たことがある。ふたりは似ているが、確かにまったく別の人物だと思う。フロイドはまたにまりと笑った。
「じゃあ俺帰るね、また学園帰ってきたら遊ぼうねぇ」
「えっ、もう帰るの?」
「うん、ラウンジ抜けてきたから戻らねぇとジェイドがキレて俺のまかない全部キノコにすんの……じゃあね」
顔を歪めて長い舌をべえと出し、心底うんざりという表情をしてみせるフロイドが可笑しくて笑ってしまう。
窓を開けて、足場を確認するようにフロイドは外を見下ろした。雪が積もった夜は、雪が青く輝いて美しい。フロイドは裏庭の薔薇を見下ろして、静かに言う。
「あれかわいいねぇ、金魚ちゃんの好きなケーキみたい」
その甘い声はやわらかく幸福に響いた。それだけで自分のささやかな宝物が大切に扱われたと思えた。
「うん」
フロイドは窓の外へするすると出て行き、窓枠に手をかけて一度振り返って笑った。「見てて!」
どうやって生垣を越えるのだろうとリドルが息を止めるように見ていると、フロイドはそのまま壁を蹴って、そのまま生垣を飛び越え外の街灯に長い腕で飛びついた。あっという間のことで、リドルは目を瞬かせた。軽々とその街灯から降りて、フロイドは雪の積もった道を歩き出した。曲がり角で一度、こちらを振り返って両腕を振り回すように手を振るので、リドルも部屋の窓から手を振ってみせた。

リドルはそれからしばらく、フロイドがやってきては去っていった窓を眺めていた。本当に、不思議な男だ。
いつか、フロイドの難解な頭の中を見せてもらうことはできるだろうか。リドルのバックヤードに咲く薔薇の木のように、そこにはフロイドが愛しく思うものがあるのかもしれない。
そんな日がくるといいな、とリドルは自然に頬を緩ませることができた。







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