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「猫を探してくれという依頼です」 秋晴れの午後、フロイドはアズールに呼ばれてモストロ・ラウンジのVIPルームを訪ねていた。応接ソファに寝転がって天井を見上げていると、ラウンジの支配人は手元に広げたいくつかのメモを見ながらうたうような口調で言った。もっとも、彼はいつも神経質な声でうたうように話す。フロイドがシルクハットの中に入って出てきたってそんなふうには喋れない。 「猫?」 「えぇ、一昨日から姿が見えないそうで。飼い猫というわけではないらしいのですが、ハーツラビュル寮の方がたいそう可愛がっていた学園に住み着いている猫だということです」 フロイドは緩慢な動作でソファから体を起こした。 「それなら学園にいるんじゃねぇの、わざわざアズールに頼むことじゃなくねぇ?」 「話を最後まで聞きなさい。依頼主の方によれば先日がその猫の誕生日だったらしく、彼女にプレゼントを贈りたいんだそうです。お前の仕事は猫を探し出して、預かったプレゼントを贈ることです」 アズールはそこでテーブルの上に黄色いリボンの首輪を差し出した。(自分がつけられるのはまっぴらだけれど)それが上等な品であることをフロイドは一目で理解した。フロイドが顔をしかめたのをアズールは見逃さず、視線だけでそれを咎める。 「猫の名前はミミィ、金色の目をした白猫です。依頼主の話では随分きれいな猫らしいですよ。お前はそういうものを見つけるのが上手いでしょう。よろしく頼みますね、フロイド」 フロイドはちょっと首を傾げて、ヘテロクロミアの瞳で受け取った首輪を眺めた。指先で弄べるサイズの首輪は恐ろしく小さく思える。猫探しが得意なわけではなかったが、感情の尻尾を掴まれたくない生き物がどんなところに行きたがるのか、どこで落ち着くことができるのかはなんとなくわかっていた。
学園の中をコンパスのように歩くフロイドを道行く小魚達が避けていく。普段その猫は中庭の木陰にいるのだと聞いたが、確かにその場には姿が見えなかった。例えば自分が……ひとりになりたいとき、一体どこへ行くだろう? 風が毛並みを撫でるのを感じたいなら、自分の半身さえも遠ざけて、世界中でひとりきりになりたいときは? そう考えて向かったのは、校舎の裏にある、誰もが忘れてしまったような古いパティオだった。白く塗られた木が長い時間をかけて少しずつ削れて、風が吹くといつもどこかが軋む音がした。蔦が柱を、屋根を這っている。フロイドはたまにそこで時間を過ごすことがあった。あらゆるものから遠ざかって、忘れられた存在になりたい時がある。 しかして、金色の目をした白い猫はそこに体を寛げていた。陸の生き物には詳しくなかったが、確かに毛並みのいい猫だということはわかった。 「あ、見つけた。ミミィ?」 猫の言語で挨拶をしてみても、白猫からの返事はない。他の喋り方を試すやる気は無かった。 「まぁいいや、やらないとアズールに怒られるし、これ付けるね」 猫は特に抵抗することもなく、フロイドの指先が自分の喉元に回って、首の後ろでリボンの首輪を留めるのを受け入れていた。くたくたと柔らかい猫の体に埋まった骨の形を指先に感じる。首輪を付けられた猫はそのつけ心地を払拭するように何度か体を震わせてから、立ち上がって四本の脚で去っていってしまった。とっておきの寝床を追い出されて、猫は一体どこへ行くのだろうとフロイドは思う。 フロイドは自分の中の強い光の存在を知っていた。兄弟の右手をこの左手で握ったあの日から、海の上ではじける花火や、雷雨の激しさに似た苛烈さで、その光はフロイドの日々を繋いできた。その光を共有している限り、二人はひとつの生命だ。ひとりきりになりたいときも、最後にはいつもジェイドの迎えを待っていた。 気持ちのいい風が吹いて、フロイドの右耳のピアスを揺らす。空は猫の歩みで傾いて、もうすぐ夕焼けが始まりそうだった。 「じゃあねネコちゃん」 フロイドは歩いていく猫にそう言って、それから思い出したようにもう一度振り返った。 「誕生日おめでとう」
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時間は少し遡り、フロイドがアズールの部屋を出た少しあとのこと。ジェイドはアズールに呼ばれて彼のデスクの前に立っていた。 「猫を探してくれという依頼です」 「猫、ですか?」 「えぇ、誰かの飼い猫というわけではなく、イグニハイド寮の方がたいそう可愛がっている学園に住み着いている猫だそうで」 ジェイドは相槌として、なるほどと頷いた。 「ですが、猫探しをわざわざアズールに頼むなんて、余程世間知らずなんですね。その依頼主の方は」 「お前は嫌味を言わないと呼吸ができないのですか、余計なお喋りは嫌われますよ。……なんでも、先日がその猫の誕生日だったらしく、彼女にプレゼントを贈りたいんだそうです。お前の仕事は猫を探し出して、預かったプレゼントを贈ることです」 アズールはそこでテーブルの上に赤いリボン飾りのついた首輪を差し出した。ジェイドは表情に出さないまでも、誕生日に首輪を贈るなんて悪趣味な、と思った。アズールに睨まれたのでその考えは見透かされていたのかもしれないけれど。 「猫の名前はキティ、金色の目をした白猫です。音楽が好きなんだとか」 アズールはそこで言葉を区切った。 「ところで、フロイドから何か聞いていませんか?」 「フロイドから? いいえ、何も。どうかしたんですか?」 「いえ、少し気になっただけです。よろしくお願いしますね、ジェイド」 ジェイドはわずかに首を傾けて、ヘテロクロミアの瞳で受け取った首輪を眺めた。その仕草は彼の兄弟によく似ていた。彼らのオリーブの目は金の片目よりも軽いのか、どちらも同じ角度で首を傾げる癖がある。 猫探しが得意なわけではなかったが、気まぐれで音楽を愛する生き物がどんなところに行きたがるか、どうやって姿を消すかは肌感覚としてわかっている。
学園の中を泳ぐように歩くジェイドには誰も声を掛けない。普段その猫は中庭の木陰にいるのだと聞いたが、確かにその場には姿が見えなかった。例えば自分が……ひとりぼっちの兄弟を探すとき、一体どこへ行くだろう? ひとつ心当たりがあったのは、校舎の裏にある、誰もが忘れてしまったような古いパティオだった。白く塗られた木が長い時間をかけて少しずつ削れて、風が吹くといつもどこかが軋む音がした。蔦が柱を、屋根を這っている。ジェイドはかけがえのない兄弟がそこで死体のように眠っているイメージを拭い去ることができなかった。きっと世界でひとりきりになりたくてそんな場所に隠れるのに、ジェイドが見つけにいかないと体が冷え切ってもいつまでもそこで目を瞑り続けてしまう。 しかして、今日そこに体を横たえていたのは金色の目をした白い猫だった。開け放たれた校舎の窓から遠く、室内楽部の演奏するクラリネットの音が聞こえてくる。 「失礼、キティさんですか?」 猫の言語で挨拶をしてみても、白猫からの返事はない。猫はジェイドが近付いても逃げずに、白い尻尾で一度朽ちかけた床板を叩いただけだった。 「おやおや、お返事してくださらないのですか。あなたへの贈り物を預かってきました。きっとお似合いですよ」 猫は特に抵抗することもなく、ジェイドが自分の首にリボンの首輪を留めるのを受け入れていた。ふわふわと柔らかい毛並みの下の皮膚のぬくみを感じる。首輪を付けられた猫はそのつけ心地を払拭するように何度か体を震わせてから、立ち上がって四本の脚で去っていってしまった。彼女は秘密の寝床を出て、どこへ帰るのだろう。彼女がほんとうにひとりきりになりたいなら、誰にも邪魔されず、見つけられないような寝床はどんなにか心が安らぐだろう。 ジェイドは自分の中の強い光の存在を知っていた。差し伸べた右手を兄弟の左手が握ったあの日から、海の上ではじける花火や、雷雨の激しさに似た苛烈さで、その光はジェイドの日々を繋いできた。その光を共有している限り、二人はひとつの生命だ。どこにいても、最後にはフロイドの居場所を見つけることができた。 冷たいが優しい風がジェイドの左耳のピアスを揺らす。もうすぐ夕焼けが始まりそうだった。 「お邪魔してしまいましたね」 ジェイドは歩いていく猫にそう声をかけて、それから少し考えてから控えめに言った。 「お誕生日おめでとうございます」
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その日の夜、二人は同じ寝室に帰ってそれぞれのベッドの中で今日の出来事を共有しあった。そしてお互いがよく似た一日を過ごしたことを知って瞬き、自分が見つけた猫のことを少しだけ考えた。(二人はアズールが腑に落ちないような顔をしていたことを思い出した。二人が同じ場所で猫を見つけたと言ったのだから、彼も妙な気分になったことだろう。ジェイドもフロイドも見つける前の猫を二人ともが発見することなんてできない。)そういえば、同じ時間に同じような場所を歩き回っていたというのに、フロイドとジェイドが学園内で出会うこともなかった。 「奇妙なこともありますね」 「うん、変なの」 二人は金色の目をした猫の微睡みを思い出して、自分たちもすっかり眠くなっていることに気が付いた。明日は仕込みに時間のかかる仕事がある。 「おやすみぃ、ジェイド」 「おやすみなさい、フロイド」 ジェイドとフロイドは部屋の灯りを消した。暗い部屋の中で二つの金色の目が閉じられて、一つの暗がりの中に溶けるようにして眠りに就いた。 彼らが見つけたのが同一の猫だったのか、それとも二匹のよく似た猫だったのか、結局判らなかったし、二人の言葉を借りれば「どちらでもよかった」。 彼等にとってそれはまったく同じことだったので。
2020.11.05
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