ベッドに横になったまま部屋の窓へ目を遣る。他に部屋の中にあるのは見慣れたものばかりであったし、それに寮棟のデコラティブな装飾は普段であればリドルの心を気高く奮い立たせるものであったけれど、今は少しばかり頭をくらくらとさせた。窓の向こうの空は晴れて、ひどく遠い。思えば昔から部屋にいるときは勉強をするか、その合間にちらりと窓の外を眺めるばかりだった。正しいことはすべて部屋の中にあったけれど、楽しいことはすべて窓の外にあるように思えた。
ただの軽い風邪で大事をとっているだけだというのに、日の高いうちからベッドに入っていると小さな子供に戻ってしまったような心地がする。リドルは自分のことを可哀想だと思う趣味は無かったし、母親の教育も確かに愛情の形をしていたのだと今はまっすぐに受け止められる。それでも、だからこそ、発熱した頭で子供時代のことを思い返すと抑制しようもなく目頭が熱くなった。吐き出した溜め息の湿った熱さにまた気が滅入って、仰向けに寝返る。何も考えずに眠ってしまおうと思うほど、眠りは軽やかな足取りでリドルを置いていくようだった。
軽いノックの音にどうぞ、と返事をする。副寮長として寮長会議に代理出席していたトレイが報告に来てくれたのかと思い、目を擦る振りをして滲んでいた涙を拭った。
「具合はいかがですか、リドルさん?」
しかし部屋に入ってきたのは真珠色の髪を揺らした同級生のアズール・アーシェングロットで、リドルは慌てて額にはりついた髪を指先で整えた。
「アズール……!」急に声を出したので渇いた喉が痛み、咳き込んでしまった。
「つらそうですね」
「大したことないよ、トレイが大袈裟なんだ」
寝たままだとどうも腹に力が入らず、弱々しい声になってしまう。アズールは悩ましげに眉を下げ、しかしどこか喜色を浮かべて言った。
「レモネードをお持ちしました、あたたかいうちに召し上がっては?」
そう言って差し出されたマグカップには日溜りを溶かしたような柔らかい色の液体が湯気を立てている。おそらく先程までの寮長会議か、彼の腹心からリドルの早退について何か聞いてきたのだろう。
「また何か企んでいるのかい?」
「いいえ」アズールは心外だとでも言うように、芝居がかった仕草で目を瞬かせた。
「純粋なお見舞いです。それとも、風邪のときにレモネードを飲むのは規則に違反しますか?」
「さすがにそんな法律はないよ……わかった、ありがたくいただこう」
体を起こして、アズールからあたたかいマグカップを受け取る。いんちき商人と呼ばれるアズールが疑わしくないわけではなかったが、病人に恩を売ることはあってもその寝首をかくような真似はしないだろうと、レモネードを一口飲み込んだ。とろりとした甘酸っぱさが喉を伝って広がり、安心に似た温度がゆっくりと強張っていた指先にまで行き渡るのを感じた。頭の中に渦巻いていた行き場の無い不安のようなものも、少しましになったようだった。(自分の体に力が入ってしまっているのを、自分が不安に支配されかかっているのを、リドルはようやく自覚した。)確かに、それは今まで飲んだどのレモネードよりもリドルをあたためた。
こくこくとリドルがそれを飲むのをアズールは座ることをすすめたデスクチェアから楽しそうに眺めていた。普段の彼であればどうですかなどと続いてもおかしくないのに、アズールまで静かでいることが調子を狂わせる。何と言ったら充分なのかわからずに、美味しいよ、ありがとうと伝えると、それはよかったとだけ言って彼は美しい笑みを浮かべた。
「会議はどうだった?」
きちんと制服に身を包んだ彼の前で自分ばかりが寝巻きでいることも落ち着かず、リドルは適当な話題を持ちかける。普段なら何も気負わずに会話ができるのに何となくアズールの表情が気になってしまう。
「えぇ、あなたの優秀な補佐官のお陰で恙無く終わりましたよ。特に大した話題はありませんでしたが」
アズールはそこで言葉を切って、唇の端を持ち上げた。
「皆さん、リドルさんのことを心配していましたよ」
「心配ね……」
寮長会議の面々を思い出して、彼らが人の体調を慮るようなキャラクターだろうかと考える。カリムくらいは気遣ってくれたかもしれないが、あとはどうだろう。ベッドの横で優雅に微笑んでいる彼だって肚の内では何を考えているか計り知れなかった。
「トレイさんは書類を整えてから報告にいらっしゃるそうです、それまで少しお休みになったほうがよろしいんじゃないですか」
「そうは思っているけど……こんなに明るいうちから眠れないよ」
レモネードを飲み干したマグカップをアズールはさりげなく受け取って、リドルにブランケットを掛け直した。仕方ないのでリドルもまたスプリングのきいたベッドに沈み込む。窓の外はまだ日が高く、もちろん眠るような時間ではない。
「子守唄でも歌いましょうか」
「人魚の歌とは……また贅沢な借りだね」
力なく笑うと、アズールはやさしい手つきでブランケットの上からリドルの腹のあたりを撫でた。彼が首を傾げると柔らかそうな髪が揺れる。薄く唇を開いて、穏やかなメロディを口遊んだ。彼の首の骨が震えて、静かな部屋の空気の中をうつくしく満たしていく。その調べにのった海の言葉のすべてを理解することはできなかったが、静かに波が模様を織っていくような歌だった。音楽の合同授業で一度アズールの歌を聞いたことがあったが、彼の声は歌にのるとあまく切ない響きをもつな、とリドルは改めて思った。
「きれいな歌だ」
そう言うと、アズールは鼻にかかったような笑い声を立てた。それからすっと海のような色の目を細めてベッドの中のリドルを見下ろし、わずかに汗ばんだリドルの額の前髪を払ってから額に手を当てた。その手のひらに額を覆われてリドルは自分の体温の高さを思い知った。
「……キミの手は冷たいね」
「あぁ、これは失礼しました」
「いや……、冷たくて気持ちがいい」
自然に瞼を閉じると、もやもやと燻っていた熱がアズールの冷たい手のひらに溶け出していくような気がした。
目の奥で、子供の頃から常に胸にあったささやかな不安や、頭を悩ませる色々が小さくなって遠のいていくのがわかる。実体のない怪物のようなものだ。それよりもずっと、今額に触れている同級生の冷たい手のほうがよほどリアルで、頼もしく思えた。
「……キミも、ご両親にこうしてもらったのかい?」目を薄く開けて、小さく尋ねる。
「熱が出たときはこうして額に手を…」
「えぇ」
「あたたかいレモネードも」
「そうですね」
アズールは静かな声で返事をして、目を伏せた。体が思うように動かなくて不安が押し寄せるようなとき、小さなアズールがひとりぼっちでなくてよかったと思う。彼がきっと家族に愛されて育ったのだということが、不思議とリドルの心を晴らしていくようだった。レモネードであたたまったからなのか、それとも先ほどの人魚の歌の効果なのか、リドルの枕元にカーテンのような緩やかな眠気が降りてきた。アズールにもそれがわかったようだった。
「おやすみなさい、リドルさん」
ひんやりと冷たい手が静かに額を撫でる。小さな子供にするような仕草ではあったけれど少しも腹立たしくはなかった。
「眠るまでそばにいて差し上げますよ」
「ありがとう」
お茶も出せずにすまなかったね。眠りに落ちる直前に呟いた言葉が果たして声になったのかわからなかったが、アズールが笑った気がするのできっと彼には伝わったのだろう。
導かれるままに瞼を閉じる。そうして訪れたのは悪くない、穏やかな微睡みだった。眠りと目覚めを揺蕩う間、しばらくして静かに席を立ってアズールが部屋を出て行く気配がした。眠るまでと言わず、次に目を覚ましたときもそこにいてほしいと言えばよかったとぼやける頭のどこかがおかしなことを思った。彼の言う通り、もう少し眠らなければいけない。目蓋を透かす光は柔らかく、リドルの思考を溶かしていった。






back