契約書の束が砂になったときから、自分ひとりではできないことが格段に増えた。ボール投げの類はコントロールを失い、絵もイデアに笑われるような出来になった。でもそのどれもが本当に必要なものではなかったのだと思う。というのは正直なところこの身に染みついた虚勢で、今だって手に入るものなら手に入れたい能力ではあるけれど。
 それでも、何もかもを失くしても、歌を歌うのは嫌いではなかった。出来ないこともあたかも自分の力であるように振舞うのが当たり前になっていて、今も自信をもって歌を歌える。

「要は、大事なのは自信をもつということだったんじゃないでしょうか。僕はずっと自分というものを憎んでいましたから」
「ラヴ・ユアセルフ──はっ、まるでディズニー映画みたいだね。君らしくもない」
 イデアはそう冷たく笑ってアズールの髪を撫でた。口調とは裏腹に、その手つきはどこまでもやさしい。初めてふたりで部屋で会ったときはこんなふうに触れあったりしなかった。イデアの指先も、アズールのウェーブした髪の先まで全部が全部ぎこちないデート(それがデートと呼べるものであれば)だったことを覚えている。それもずっと遠い昔のことだ。その頃のイデアの年も、今のアズールは追い越してしまった。
「あなたが僕のことを甘やかしてかわいがるものですから、どうやら性格が歪んでしまったみたいです」
「君が甘やかされるのもかわいがられるのも嫌いそうだったからね」イデアの尖った歯が覗く。
「そうですよ、僕はこんなふうになるつもりじゃなかったのに」
 拗ねたように言ってアズールはイデアの首のうしろに腕を伸ばして、両の瞳を覗き込んだ。
 金色の蜂蜜がディッパーからこぼされるみたいにゆっくりと絶え間なく時間は流れる。
 鯨たちが遠く離れた恋人と歌を歌いあうみたいに、陸の人間は火を灯した。遠くの仲間に見えるように。そして火のまわりに集まった相手と恋に落ち、ダンスを踊った。人魚はその様子を海から眺めて、炎やダンスをする脚に憧れた。
 青く燃える髪に指先で触れ、抱き寄せた肩口に鼻先を埋める。
 他の誰の力でもなく、アズールは自分自身の力で丈夫な脚と美しい炎を手に入れた。それだけで充分満たされていると錯覚しそうになるけれど、他にも欲しいものはまだ山程ある。陸にあるもの全部を、ほんとうに手に入れるまでは満足できない。
「イデアさん」
 だから、学園を卒業していくくらいで、恋人を手放したりはしていられなかった。ふたりを隔てる時間も距離も、アズールには問題ではない。一度何もかもを失くしているから、そうやって虚勢を張ることには自信があった。
「僕はあなたがいなくたって生きていけるんですよ」
「薄々そうじゃないかと思ってた」
「僕と離れて寂しいのはあなたのほうだ」
「ヒヒッ、それも、そうじゃないかと思ってた」
「歌を歌ってあげますよ、あなたがどこにいても」
 だからたまには歌い返してほしいのだ。自分の手に入れたものが間違いなくそこにあるとわかるように。火を灯しあう旅人のように、歌いあう鯨たちのように。
 自分の名前を呼ぶ声がかすかに震えていて、アズールははじめてイデアが泣いていることに気がついた。かわいいひとだ、と思う。たぶん初めて会った頃のイデアなら、アズールと離れるくらいで涙したりしなかっただろう。
 アズールは静かに目を閉じる。その涙を辿って、どこまでも泳いでいけると思った。






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