| ※2021/8/15オルトwebオンリー展示作
時折、ひどい悲しみが兄のもとを訪ねる。 それは十二月の風のようにイデアの胸に不吉に吹き込んで、指先までをすっかり凍りつかせてしまう。普段何かに熱中して悪戯に光る目も、どこか昏いところを覗き込んでそのまま浮かび上がれなくなるみたいだった。呼吸が荒くなり、脈拍も上昇する。まるで暗く冷たい海底に沈んでいるみたいに。混乱状態に陥っていることはバイタルスキャンからも明らかだった。 そんな時、いつもイデアはオルトを遠ざけた。部屋の鍵をかけ、一人きりで目を閉じ耳を塞いで恐ろしい夜をやり過ごす。夜が明けてようやく落ち着くことができるようで、いつも疲れた顔にひどい隈と涙の跡を残してオルトを部屋に迎え入れた。へらりと力無く笑う兄に掛ける言葉を、何かできることを、オルトはいつも探していた。 幼い子供は夜中にクローゼットから顔を覗かせるモンスターを恐れるという。検索にヒットしたその記事は不安と恐怖に消え入りそうな兄を思わせた。 イデアのもとを訪ねるモンスターは一体どんな姿をしているのだろう。
閉ざされた部屋のドアを控えめにノックする。イグニハイド寮のドアは固く重たく、ノックの音は虚しく響く。 普段ならオルトを当たり前みたいに受け入れる部屋はイデアによってシステムが書き替えられている。誰も傍に寄らせないように。 「兄さん」 オルトは目を閉じて冷たい壁に を当てた。部屋の中のひどい孤独の音に耳を澄ませる。 「……あっちへ行ってくれ」 ドアの向こうからは苦しそうな返事があるだけで、ロックは解除されない。オルト自身には兄を穏やかな眠りに就くための機能や健康をサポートするための医療システムも備えているのに、それを使わせてはくれない。 「わかったよ、兄さん」 自分の音声が廊下に響いた。
こんなとき、オルトには行くところがなかった。夜更かしな寮生が何人かゲームに誘ってくれたけれど、兄を置いて自分だけが楽しい気分にはなれない。複雑な人間の心。それを作り出した兄のことを思いながら、ただ宛てもなく夜の学園を歩いた。 鏡を通り抜けて、静まり返った学園に出る。当然のことながら夜中の学園には誰も残っていない。すべての灯りが消えた城は夜の中に大きな影を落としている。木々はすべての音を飲み込んで沈黙し、暗い石畳の道も冷たく眠りについている。 頭上に夏の星空がぐんと迫って見えた。 全世界のネットワークに接続しているオルトは、この星が宇宙に浮かぶひとつのちっぽけな惑星であることを知っているし、世界のどこかでは今昼の太陽が昇っていることを知っている。それでも今夜の星空には果てがないように思えた。 オルトの目は無数の小さな瞬きをずっと遠くまで見つけられる。あの中に、イデアの苦悩を減らせるものがあるといい。どんなに遠い場所のことを想像していても、部屋で悲しみに暮れている兄のことがずっと気掛かりだった。こんな穏やかな夜に、兄さんが泣かなくて済むようにしたい。 兄さんのしあわせのために一体何ができるだろう。
気が付けば、オルトは星空の中にいた。 天地の感覚が曖昧なせいで空に向かって落ちていく途中なのかと錯覚したが、背中にやわらかい地面の感触があったために、自分が仰向けになって空を見上げていることに気が付いた。星空を白い鳥が群れになって飛んでいくのを、妙な気持ちで見送る。渡り鳥の一種のようだけれど、なぜ銀河の中を鳥が飛んでいくのだろう? 「ん? オルトか?」 聞き覚えのある声がしてそちらへ視線を動かすが、音声分析の結果のほうがわずかに早かった。スカラビア寮長のカリム・アルアジームだ。その横にも生体反応があると思っていると、大きな動物が顔を覗かせた。 「わぁっ!」 「あぁ、悪い。びっくりさせちまったか?」 突然現れた大型の動物に慌てて体を起こすと、カリムは太陽のように笑った。 「こんばんは、カリム・アルアジームさん」 「おう、静かでいい夜だな」 動物は干草のような毛並みに潤んだ目をしている。長い睫毛が何かを示唆するようにゆっくりと上下した。 「この生物はラクダ?」 「うん、砂漠を歩くにはこいつと一緒だと心強いんだ」 砂漠? そう言われてオルトはやっと辺りを見回した。先ほどまで学園の中を歩いていたはずが、今オルトたちのいる場所は見渡す限りの広い砂漠だった。遮るものもなく、ゆるやかだけれど確かな曲線が世界を構成している。オルトは自身の位置情報を探ってみたが、システムエラーが出てしまってうまく座標をとることができなかった。自分は壊れてしまったのだろうかと不吉な予感がしたが、その興味深い景色の前では不安よりも好奇心のほうが勝った。 「僕、砂漠って初めてだよ」 くるりとその場で回ってみる。地表の温度は低く、砂はどれも星を砕いたように青く光って見えた。どうやらこれはどこか別の星のようだ。オルトの暮らしている世界に比べて、あまりに美しすぎる。カリムもつられるように辺りを見回した。踊っているような足取りだ。 「うん、そういえばオレもこんなふうに歩くのは初めてかもしれない、大体が象か絨毯に乗っていたから。オルトはラクダに乗ったことはあるか?」 「生体データは見たことがあったけど、本物を見るのはこれが初めて。背中に乗れるの?」 「あぁ。暑い昼の砂漠だって歩いて行ける。今度、遊びに来いよ! 寮でも熱砂の国でも、歓迎するぜ」 「カリム!」カリムが憂いごとなんて何もないような笑顔を見せたところで、また別の声がした。カリムと揃って声のしたほうを見ると、スカラビア副寮長のジャミル・バイパーが駆け寄ってきたところだった。 「ジャミル、どうしたんだ?」 「はぁ、どうしたんだじゃない。姿が見えないと思ったらこんなところにいたのか」 ジャミルは呆れたように言った。それすらも慣れた様子でカリムは軽い調子で悪い、と笑う。ジャミルはオルトに向き直って、悩ましげに眉間にしわを寄せた。 「ずっと遠くから来たのか」 「うん」頷いてからオルトは口を開いた。 「兄さんにしあわせになってもらう方法を探しているんだ」 「それはここにはない」 ジャミルが断定するように言うので、オルトは瞬いた。 「何故わかるの?」 「蛇は砂漠の賢者だって言うだろう」ジャミルが舌を出して言った。 「あの鳥を追っていけ」 ジャミルが指したほうを見上げると、白い鳥の群れが三人の頭上を飛んでいくところだった。渡り鳥だ。鳥の行く先を見ていると、まだ行かなくてはいけない星が他にもあるような気がした。 「もう行っちまうのか?」 「うん、兄さんのためになることを探したいんだ」 「絨毯があったら送っていってやれたんだけどなぁ」カリムが心から残念そうに言った。 「カリム、頼むからもう寮に帰ってくれ。お前といると心臓がいくつあっても足りない」 「わかったわかった」 オルトはふたりとラクダに向き直る。この夜が明けて学園に戻ったらスカラビア寮を訪ねることにしよう。引きこもりがちな兄も連れて、本物のラクダに触らせてもらおう。オルトはそれを自分のTo Doリストに記録し、自らに搭載されているエンジンを始動させた。砂漠の細かい砂がエンジンを噴かす風で青く光りながら散る。 「ありがとう、カリム・アルアジームさん、ジャミル・バイパーさん。さようなら」 「さよなら、オルト。探し物が見つかるといいな」 そうしてオルトはやわらかい砂を蹴って、砂漠の星を飛び立った。
次にオルトが訪ねたのは地表のほとんどが海で覆われた星だった。 わずかに残された足場に着陸したところ、海を構築しているのは海水によく似た未知の液体だった。陸地をスキャンしてもそこには何も見当たらない(そこにはせいぜい数人が腰をかけるほどのスペースしか無かった)。オルトが恐る恐る海面に脚をつけてみると、触れたところから海面は淡い燐光を放って波立った。ボディに悪い影響は無さそうだ。オルトは意を決して海の中に飛び込んだ。 水が体を包み込む。そこに抵抗はなく、やわらかな風の中を進んでいるような感覚だった。竪穴のような岩の隙間をずっと底まで潜っていくと、そこにはどこかの応接室のようにシックな椅子とテーブルが置かれていて、オクタヴィネル寮長のアズールが優雅に脚を組んでいた。 「おや、あなたでしたか。珍しいですね」 「アズール・アーシェングロットさん」 驚いたような口調だったが、オルトがここへやってくるのもすべて知っていたというような表情だった。 「何かお困りごとですか?」 「うん、兄さんが……」オルトはそこまで答えてから、一度言葉を切った。 「オルトさん?」 「兄さんから、アズール・アーシェングロットさんに悩みの相談をしちゃいけないって言われていたんだった。対価を要求されて最後にはマグロ漁船に乗ることになるって……ねぇ、マグロ漁船って何?」 「イデアさん、余計なことを」アズールは神経質な仕草で眼鏡のブリッジを持ち上げた。 「友人としてお話しをするだけです。もし、対価が気になるようであれば……そうですね、ゲームでも一局お付き合いいただきましょうか」 彼はそう言って机の上に小さなボードゲームの箱を取り出した。海の深くへ潜り、酸素がなくならないうちに宝物を持ち帰って陸へ戻るというようなゲームで、オルトも何度か兄やアズールも交えて遊んだことがあった。酸素の枯渇というのはオルトにも人魚のアズールにも関係のない問題である。 「兄さんが何に苦しんでいるのか、僕にはわからないんだ」駒を進めながら、オルトは言った。 「兄さんが苦しまなくていいようにしたい。兄さんのしあわせのために、僕に何ができるんだろう」 アズールは自分の駒に伸ばした手を止めて、一度オルトの顔を見つめた。 「……あなたたち兄弟はよく似ています」 「つくりもののボディでも?」 「おや、僕の体だってつくりものですよ」そう言ってアズールは静かに笑った。 「顔つきということだけでなく、表情や思考が」 オルトは自分の手番で宝物を持ち帰るための最善ルートがわかってしまう。これから先に潜ったらいいのか、諦めて陸に戻ったほうがいいのか。 それでも自分が兄にしてあげられることはわからなかった。 「ねぇ、アズールさん。僕はまだ兄さんのことが全部はわかっていないのかな」 「相手のことを全部わかるなんて誰にもできませんよ」アズールは机の上の駒を見つめて、真剣な声色で言った。オルトが幾つか宝物を持ち帰り、船に戻る。この手のゲームをするといつもオルトが勝ったが、アズールは毎回その敗因を考えているようだった。 「誰にでもひとりで抱えたままの秘密があります。僕にも秘密がありますし、あなたにも秘密があるでしょう」 それから顔を上げて、にこりと微笑んだ。 「なぜ火は燃えるのか? ……例えばそんなこと」 海の中でも青く燃える胸の炎を指して、歌うように言う。 「あなたの探しているものはきっと別の場所にありますよ。オルトさん、また今度ゲームをしましょう。次は負けません」 「ありがとう、おやすみなさい。アズール・アーシェングロットさん」 「さようなら、よい旅を」 オルトのエンジンは海中でもうまく動いた。海面で揺らぐ光に向けて、海の星を旅立った。
次に訪ねた星にはうつくしい庭園が広がっていた。青々と茂る葉に真っ赤な薔薇がいくつも花をつけている。 「キミか、珍しいこともあるものだね」 「リドル・ローズハートさん」 オルトがその星に降り立ったとき、ハーツラビュル寮長のリドル・ローズハートは霧吹きで赤い薔薇にひとつひとつ水を遣っているところだった。ただ、リドルは普段の制服でも寮服でもなく、ハートの刺繍の入ったサテンのシャツを着ている。 「寝間着で失礼。ハートの女王の法律で、夢の中では寝間着が正装であることが決められているんだ」 「夢?ここは夢の中なの?」 「どこだと思っていたんだい」リドルはかえって驚いたように言った。 妙に現実離れした砂漠や、海の中でもマシン・ボディが正常に動いたこと、そもそも宇宙にこんな星があること自体も夢だと言われれば納得はする。ヒトの見る夢の脈絡の無さは兄の話から知っていた。 問題は、オルトが夢を見ないことだ。スリープモードに入る瞬間、その日のデータのバックアップをするのはヒトの夢の仕組みに近いけれど、そこで蘇るのはあくまで実際にあったことの記録だけで、こんな風変わりな夢を見るのははじめてのことだった。それはまるで生きているヒトみたいだ。 「夢の中でリドル・ローズハートさんはわざわざ薔薇の水遣りをしているの?」 「僕はハーツラビュル寮長だから、すべての薔薇の世話をする義務がある」 「すべての?」 「寮生にもそうあってほしいものだけどね」 オルトは思わず金色の目を瞬かせて辺りを見た。星の数ほどではないけれど、花の開いたものをざっとスキャンしてみただけでもこの庭には百近くの薔薇が咲いている。 「みんなが全部の薔薇を見ることができるわけじゃないでしょ?」オルトはアズールの話を思い出しながら言った。リドルは頷いた。 「もちろん。皆それぞれに大切な木があり、大切な薔薇がある。その世話をそれぞれがすればすべての薔薇がうつくしく育つ。大切なものが違って当たり前なんだ」 「僕にはそれぞれの違いがわからないけど」 「それも当然だね、掛けた時間と手間の分だけそれぞれの花が大切になるんだ」 オルトはそれについてしばらく考えた。過去のことも未来のことも現在のことも同じようにフラットな情報として受け取ることのできるオルトにとって、時間の感覚というのはあまり身近ではない。リドルは大きな瞳でオルトを見た。彼の前にいると自分の中にあった常識や効率が意味を失くすようだった。 「キミはまだ旅を続けるの?」 「うん、兄さんのためにできることを探すんだ」 「ふぅん、探しものが見つかるといいね。迷子になったら、来た道を戻るのではなく、先に進むことをお勧めするよ」ハーツラビュル寮生は時折謎かけのようなことを言うが、オルトはその言葉もしっかり記憶しておくことにした。 「ありがとう、リドル・ローズハートさん」 「さようなら」 そうしてオルトは薔薇園の星を旅立った。
次の星は石造りの古い城が建っていた。 井戸のある庭に雪が降り積もっている。雪の中にいても、イデアがつくったオルトのボディは雪よりも白く光っていた。この星はオルトがこれまでに旅をしたどの星よりも静かだった。誰もいないのかと思い生体スキャンをしようとしたところ、階段をヒールで降りてくる足音とともに、ポムフィオーレ寮長のヴィル・シェーンハイトが城から姿を現した。つやめく金の髪を下ろし、深い夜を切り取ったようなナイトガウンを羽織っている。夜更かしや不摂生を許さないヴィルであったから(実際、兄がその生活習慣の悪さを指摘されているところをオルトは何度か目にしたことがあった)すでに眠る支度をしていたのかもしれない。 「こんばんは、ヴィル・シェーンハイトさん」 「あら、アンタだったの。てっきり……」ヴィルは顔にかかる髪をかき上げてオルトを真っ直ぐ見つめた。一般的な人間であればそれだけで顔を赤らめるような仕草だったが、オルトは首を傾げて言葉の続きを待った。 「てっきり?」 「イデアかと思った。随分遠くまで来たのね」 「そうみたい」 そこでオルトはこれまで辿ってきた星のことをヴィルに話した。学園を歩いていたらいつの間にか砂漠の星にいたこと。カリムとジャミルに会い、次の海の星ではアズールとゲームをし、先ほどは薔薇の咲く庭園の星でリドルと話をしたこと。それだけ聞くとヴィルは溜め息を吐いた。 「やれやれ、まるでパレードね」 「ヴィル・シェーンハイトさん、どうしたら兄さんを幸せにできるんだろう。これまでのどの星にもその答えは無かったんだ」 ヴィルは少し考えるように唇を結んだ。顔が整っているぶん、そうしていると険しい表情にも見えた。 「ねぇ、蠍の火の話を知っている?」 「蠍の火?」 ヴィルは遠く星空を見上げるようにして話し始めた。 「毒をもつ蠍は小さな虫を殺して食べていたけれど、自分がいたちに食べられるというときになって命からがら逃げ出した。でもあとになって、自分が大人しく食べられていればいたちは飢えをしのげたのにとひどく悔やんだ……それから自分の命をみんなのために使うように祈った。そうしているうち蠍は自分のからだが光を放って燃えていることに気が付いた……。蠍は星になって今も燃え続けている。アンタを見ているとその話を思い出すわ」 「僕も兄さんが心から笑えるようになるなら、この体がいくら燃えたっていいよ」 オルトは心の底からそう言った。 「馬鹿ね」ヴィルは憐れむように笑う。 「イデアは自分で作り出した毒を自分で飲んでいるの。特効薬なんてない」 そう言ってヴィルはまっすぐにオルトの目を見た。オルトが背の高いヴィルを見上げると、彼は背中に輝く星をいっぱいに背負っているようだった。 「時間だけが薬よ、アイツと一緒にいられるのはアンタだけでしょう」 「僕には時間のことがよくわからないんだ」オルトが正直にそう言うと、ヴィルは静かに言った。 「ただ、傍にいてやるのよ」
ヴィルと別れて向かった次の星は草原が広がっていた。 伸びた草が風にそよいで、心地いい音を立てる。乾いた土と草花のにおいがした。地面から浮いて進むオルトの足先を草がくすぐる。思えばこうした草原に来るのもオルトにとっては初めてのことだった。ずっと先まで同じ景色が広がっていて、遠くには岩山のようなものも見えたけれど、地平線のカーブを見る限り、この星も他の星同様にそう大きくないことはわかった。10分もしないでこの星を一周できるかもしれない。 うつくしい青い羽をもつ小さな蝶が目の前を羽ばたいていった。少し先で、誰かが草の中に横になっている。 「レオナ・キングスカラーさん」 サバナクロー寮長のレオナ・キングスカラーが気怠げに寝転がっていた。彼はオルトの姿を見ると、大儀そうに体を起こして大きな欠伸をした。 「お前がここに来るとはな」 「うん、兄さんが苦しまなくていいようにするために星を旅してきたんだ」 「アイツを救うことなんてできるのか?」レオナが目を細めて言った。暗がりの草原でもその緑色の瞳は光って見える。オルトと同じように。 ほんとうに兄を救うことができるのか。星を巡る中で、オルトはずっとそのことを不安に思っていた。未だにその答えを見つけられていないのだ。 「救えないなら、どうして僕たちは兄弟になったんだろう」 「さぁな、兄貴のほうだけじゃ抜けてるところがあったんじゃねえか」 「兄弟同士で補修しあっているということ? レオナ・キングスカラーさんにもお兄さんがいるよね」 「ふん」レオナはその話はおしまいだとでも言うように尻尾を振って、また草の中に横たわった。鼻を鳴らす仕草もさまになっていた。 「……隣で星を見てもいい?」尋ねると、レオナはぶっきらぼうに好きにしろと答えた。 背中を地面に預けて星を見上げる。隣にいるレオナはリラックスした様子だが、その横顔は普段学園にいるときよりも幾分か寂しそうに見えた。 「星がきれいだね」オルトは横で転がるレオナに話しかけた。 「ずっと昔の王たちが空で見守っているんだと聞いたことがある」 「夕焼けの草原の言い伝え?」 「あぁ、大昔のな」 星のひとつひとつが誰かの魂であることをオルトは想像してみる。 この星のどこかひとつに自分のたった一人の兄がいるのなら、宇宙全体が自分のホームタウンであるように思えるだろう。帰る場所があるから、こんなに遠くまで来られた。 兄さんがいるから僕はどこまでも行ける。 そう思った途端、オルトの胸にプログラムされていない強い寂寥が押し寄せた。星の中へ落ちていきそうな途方もない寂しさ。 青く燃えて瞬く星、その微かな光から目を離せない。 「……僕、兄さんのところへ帰らなくちゃ」 「お前一人のほうが、よっぽど気楽でいいじゃねぇか」レオナは言った。 「それでも兄貴と居たいって?」薄く笑うレオナを、オルトは見つめ返す。 「うん。僕は兄さんの傍にいなくちゃだめだったんだ。兄さんが僕と一緒にいるのがつらくても、傍にいて励ましてあげられるのは僕だけだったんだ。兄さんにとって僕は星の光にならなきゃいけない。──僕たちは兄弟なんだから」 そう言い切ってしまうと、胸が震えるような心地がした。ようやく、兄のためにできることがわかったのだ。 「じゃあせいぜい早く帰ってやれ」 「ありがとう、レオナ・キングスカラーさん」 オルトはそう言って、草原の星を旅立った。
こうしてひとりきりになると、オルトにとって銀河はあまりに冷たくて広かった。いつの間にか渡り鳥の姿も見えなくなって、どこへ向かえば兄のいる学園に帰れるのかわからない。随分長いこと旅をしているような気がした。オルトは暗闇と無数の星の中で自分の指先がうまく動かなくなっていることに気が付いた。 「兄さん」 ……迷子になりそうなときは先に進むといい。リドルが言っていた謎掛けのような言葉を思い出して、最後のエネルギーを振り絞る。 そうして、オルトは六番目の星に辿り着いた。 そこは茨の生い茂る広い星だった。オルトはボディに傷がつかないように気をつけながら着陸をしたが、それでも白いボディにはいくつか引っ掻いたような小さな傷がついた。 「まさか小さいシュラウドがこんなところまで来るとはな」 愉快そうな声に振り返ると、つい先程まで近くに生体反応はなかったはずなのに、いつの間にかそこにディアソムニア寮長のマレウス・ドラコニアが立っていた。銀河と同じ色の髪が静かな風で揺れる。 「マレウス・ドラコニアさん」 「ちょうど退屈していたところだ」マレウスは学園の制服姿だった。彼が歩くとまるで星全体を従えているように空気が変わる。 「僕、随分遠くまで来ちゃったみたい。夢から覚めるにはどうしたらいいの?」 「ふむ……お前はどこまでだって行けるのだろう。もう帰るのか?」 「兄さんのところに帰りたいんだ」 「何のために?」 マレウスは心底楽しそうに笑った。エメラルド色の瞳が細められる。 「兄さんの傍にいたい。時間をかけて、兄さんに僕がいるよって伝えたい。僕が兄さんのしあわせのためにできることはそれなんだ」 そう答えると、マレウスはきょとんとした表情で瞬いて「人の子はやはり面白い」と呟いた。自分をヒトの子と呼ばれたオルトも不意をつかれたように驚く。 マレウスは大きな杖を持ち直して、簡単な呪文がある、と切り出した。 「踵を三回鳴らして、目を閉じる。やっぱりおうちが一番、と唱えるだけでいい」 「やっぱりおうちが一番?」 イデアと授業に出ているオルトでも聞いたことのない呪文だった。茨の国に伝わる古い魔法なのかもしれない。 「遠い家に帰るときの魔法だ。帰りたい場所を強く思い浮かべろ。お前の兄のことを」 「ありがとう、マレウス・ドラコニアさん」 オルトは兄が作ったギアの踵を三回ぶつけ合わせて、目を閉じた。銀河が広がるように瞼の裏に星が散ったが、きっと気のせいだろう。 兄のところへ帰りたい。長く恐ろしい夜が終わるまで、一人きりで苦しんでいる兄さんの傍にいたい。 「やっぱりおうちが一番……やっぱりおうちが一番……」 そうして呪文を唱えていると、やがて視界が光に包まれた。青く淡い光。砂漠の砂のような、青い海のような光だ。蠍の火はまだ燃え続けているのだろうか……。
「オルト!」 大きな声で目を覚ますと、目の前に青い炎が揺れていた。オルトと同じ、イデアの燃える髪だ。何度か瞬きをして、視界のピントを調節する。部屋にいたはずのイデアがひどく慌てたようにオルトの顔を覗き込んでいた。よく見ればオルトもイデアも水に入ったように体が濡れている。 「……兄さん? 水に濡れているみたい。表面を乾燥させなきゃ」 そう言うと、イデアが強くオルトのボディを抱きしめた。 イデアが言うには、オルトが寮を出てしばらくしてから、オルトのバイタルサインを示すモニタにエラーが表示されたらしい。慌てて部屋を飛び出して探しに行くと、学園の敷地の外れにある小さな川の中にオルトが倒れているのを見つけたのだという。何度声を掛けても反応がなかったが、気が付いてよかったとイデアは震える声で言った。 「兄さん、心配させてごめんね。僕、夢の中をずっと旅して少しだけわかったんだ。僕にできることは兄さんの傍にいることなんだって……兄さんが苦しいときや、不安なときも。僕はそのためにいるんだよ。だって僕は兄さんの弟なんだから」 オルトはそう呟いたが、それが音声になったかはわからなかった。ただイデアの金の瞳が揺れるのを見上げていた。それは銀河で見た星の瞬きに似ている。 「僕、兄さんの傍にいていいかな」 「……当たり前だろ。兄ちゃんを、もう一人にしないでくれ」 イデアは尖った歯を見せて下手くそに笑った。イデアが恐ろしい夜の中、自分を探しにきてくれたことを、オルトは嬉しく思った。兄のつくった心は、時折どうしようもなく寂しくなる代わりに、こんな時に自分を内側からあたためてくれる。まるでヒトの心みたいだ。それも複雑なプログラムなのかもしれないけれど、イデアが自分の心を分け与えてくれたようにオルトには思えた。 「さぁ帰ろう、オルト」 「うん、兄さん」 オルトはずっと空高く星空の中も駆けていけるけれど、今はただ兄と一緒に夜の中を歩きたかった。たとえ、イデアを訪ねる過去の記憶がオルトの姿をしていても、再びそれに脅かされるときがきても。 どれだけ遥かな時間が掛かっても、世界でたったひとりの兄にとって──ただひとつの存在になりたかったのだ。
Fin.
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