※2020/7/5


「すごい、海だ」


カリムの短い髪が潮風で揺れる。
砂漠の太陽を嵌め込んだような彼の瞳に、この海はどう映っているのだろう。曇天の空を反射した海面は僅かに薄い雲から漏れ出た光のみを反射して昏く光った。
一度、ウツボの兄弟に誘われて海面に顔を出した時、確かにその境界はこんな色をしていた。頬を打つ波の感触、髪に感じる初めての風。空で弾けて燃える光を見に行った記憶が蘇る。あれも、夏の終わりのことだった。

「カリムさん、海は初めてですか?」
「オクタヴィネルに遊びに行くから海の中には行ったことあるけど、砂浜を歩くのは初めてだ。砂漠ともまた違うんだな、いろんなものが落ちてる」

そう言って身軽に突然屈んでは波で削れた硝子の欠片や珊瑚の死骸を拾った。式典服の裾や袖に白い砂が付く。彼の影たる従者だった人物がここにいればその行動を咎めただろうか。白い骨のような珊瑚を褐色の指が撫でる。

「そうか、アズールは海から来たんだもんな。オレ、学園に来るまで海のことも人魚のことも全然知らなかった。それまでも家の外には絨毯で抜け出すくらいしかしてなかったし、学園に来て世界はオレが思ってるよりもっと広いんだって知ったよ」
「当たり前でしょう」

前を歩いていたヴィルが言った。それだけで恐ろしく様になっていて、この寂しい浜辺が途端に映画のセットのように見えた。背の高い彼がカリムを振り返ると見下ろすような目線になるが、カリムは素直にヴィルを見上げる。

「小さな世界、なんておとぎ話。アタシたちは四年間をこの学園で過ごすだけで、ここを出た後の世界はずっと広いわ。卒業したら皆それぞれ散って、案外それっきりよ」
「さすがヴィルだなぁ、オレなんかよりずっと考えてる」
「アンタたち二年坊主より、こっちはよっぽどシビアよ。まぁ、それより難しいことはそっちの年季の入ったお兄さんに聞きなさい」

四年間、というところをいやに強調するなと思ったら、ヴィルは彼の横を気怠そうに歩くレオナを示した。レオナは面倒臭そうに尻尾を振って、隣のヴィルにしか聞こえない声で何か冗談めいたことを言ったらしい。ヴィルは可笑しくて仕方ないというふうに肩を震わせて笑って、揶揄う声でやさしいメロディの歌を口ずさんだ。美しいあまりに大人びて見える彼も、そうしてはしゃいでいると子供みたいに見える。カリムが嬉しそうに歌に続いて、レオナはやめろと言って二人を小突いた。小さな世界でもっと分け合うべきものがあるというような、確かにおとぎ話のような歌だった。


アズールの隣を歩いていたリドルは大きな目で波の重なりを眺めている。見ている者の胸を打つような、ひどく切実な目をしていた。彼が波の合間に何を求めているのか想像がつく。
気紛れなアズールの“左腕”が、長いこと彼に執心しているのを見てきた。はじめは、少年めいた彼を愛玩動物のようにして楽しんでいるのかと思っていたが、どうやらそれだけではないということがアズールにも解るようになっていた。
時折、リドルの中に強い光の眩さを見ることがある。大きなダークグレーの瞳が真っ直ぐに射抜く光と、ふとした時にそれが陰る瞬間。幼馴染はそういったきれいなものを見つけるのが昔から得意だったので、誰よりも先に自分のものにしてしまったのだろう。

アズールの視線に気が付いたのか、リドルは心底嫌そうにこちらを見上げた。

「……なんだい、アズール。僕の顔に何かついている?」
「いいえ、リドルさんが悩ましげに海を眺めていらっしゃるので」
彼は自分でどんな表情をしていたのか全く自覚していないのか、揶揄われているのだと思ったようで唇を尖らせた。

「僕に助けられることがあれば、いつでもおっしゃってください」
「……ぞっとしないね。少なくとも君の手を借りることはないよ」
「あぁ、つれないですね」

冗談めかして答えて、後ろを歩くイデアをちらりと振り返った。あわよくば──、あわよくば、彼がリドルのように焦がれる瞳で海を眺めていてくれはしないかと望んでいた。盗み見た先のイデアは確かに沖のほうを向いてはいたが、しかし、燃える髪を隠すように深く被られたフードで、どんな表情をしているかまでは解らなかった。

各寮の寮長の集まりの中で、イデアと最も多くの時間を過ごしているのは自分だという自負があった。非社交的で厭世的な希代の天才と確かな結びつきをもっているのは自分だけだと。少なくとも、彼の脳内をそのまま表したような寮の自室に入っても許されるのは彼のメカニカルな弟を除けばアズールだけであったし、守銭奴だとか悪徳金利だとか言われているアズールが無償で甘やかしてしまうのはひとつ年上のイデアだけであった。

長いサマーホリデーの間、アズールは実家のある海に帰っていたので、こうして顔を合わせるのはひと月振りになる。


春学期の最後の日に、イデアの部屋を訪ねて行った時のことを思い出す。
彼の弟はサマーホリデーを前に、仲のいいハーツラビュル寮の一年生と学園を文字通り飛び回っているようで、青い空に白いボディが輝いているのが廊下の窓から見えた。モストロ・ラウンジも休みに入っていたので、日の高いうちから時間を過ごせる。自分が柄にもなく、夏の軽薄な空のように浮かれているのを感じた。イグニハイド寮へ抜ける鏡を通り、揚々と彼の部屋のドアロックを解除するとイデアは、この世の全てに絶望していますというような顔でベッドに転がっていた。MRディスプレイに見たことのない術式が展開されていて、この天才がまた何か思いついたのだということがわかる。
転がる痩身の上に体を滑り込ませたところでイデアはようやく来客に気が付いたというようにアズールの体に腕を回して、口角を上げた。錬金術の評価が学年トップでした、と言うと、さすがアズール氏、ところで飛行術は?と意地悪く問われた。悔し紛れに青白い頬に齧りついて、それも可笑しくて二人で笑う。また暫く会えなくなりますね、と言えば髪に鼻先を押し付けられて顳にキスを落とされた。
何もかも完璧で、寂しいと思う暇もなかった。


こうして人のいる場所で会うと、イデアは普段アズールが見ている人間とは別人のようだった。一緒に歩いているのにどこか一人別のところにいるようで、ヴィルや、カリムや、アズールの声が聞こえているのかさえ解らない。
思えば、式典服姿を見るのは初めてだった。会合というものを劇物のように遠ざけている彼だったが、この集まりを拒まなかったのは何故だろう。自分がいるから、と自惚れていいものかアズールはしばし逡巡し、直接尋ねるのが一番早いと口を開いた。

「──イデアさ、」
「おい、アレは何だ」

反射的に前を振り返り、レオナが顎をしゃくって見せた先へ視線を遣る。
少し先の波打ち際に、何か白い塊のようなものが転がっていた。はじめ、それは白い袋か何かに見えた。誰かが棄てた重そうなものが入った袋を、静かな波が浸している。

「人だ」

イデアの呟きにリドルが小さく息を飲む。確かにそれは人の亡骸だった。
海の方へ体を向けるようにして横向きに倒れている。目を凝らすと、腐蝕が始まっていることが解る。それが生きているものでないことは誰の目にも明らかだった。何かの事故で海に投げ込まれた人間を海の生きものや波が陸に戻したのだろうか。ヴィルは冷たい目をそっと伏せ、アズールは唇を軽く噛んだ。

「大層な出迎えじゃねえか」溜め息を隠そうともせず、レオナが首を振った。
「ボク達が……何かしてやるべきなんだろうか」
僅かに声を震わせて、リドルが言った。魔法医術士を志しているというだけあって、誰とも知れない他人の死に向き合おうとしているのだろう。
カリムは赤く輝く瞳で亡骸を見下ろし、いつになくきっぱりした声で言った。
「いや、夜になれば精霊が迎えにくるだろう。魔法も使えないし、オレたちに出来ることはないよ」

それでも、彼は体に掛けていた鞄の中から笛のような楽器を取り出して、息を吹き込み、音を鳴らした。熱砂の国の弔いなのだろうか、高い笛の音は潮風に混ざり、何も響かせるもののない空に高く吸い込まれていった。







時間は少し遡る。

サマーホリデーの最後の一日。つまり学年が上がる前夜、ナイトレイブンカレッジでは寮長を集めたひとつの儀式が行われる。
学園で最も魔法を使う機会が多く、その分ブロットの溜まりやすい寮長の魔法石を一晩掛けて浄化するのだという。その間、マジカルペンを持たない寮長たちは闇の鏡を通して、危険も魔法を使う必要も無い結界の中に送られ、そこで一夜を過ごす。人の魔力の干渉もない空間で一晩を過ごすことも、浄化には有効的なのだという。

「サマーキャンプのようなものだと思って、気楽に羽を伸ばしてください」
式典服に身を包んだアズールたちを鏡の間に集めて、学園長は言った。

必要無えよ、と舌打ちをしたレオナを学園長は指差して咎めた。
「優れた音楽家は楽器の調弦を自分では行わず、プロの目と腕に任せるものですよ、キングスカラー君。一年間無事に……まぁ多少のトラブルはありましたが……寮をまとめた寮長の貴方たちの慰労会と思って楽しんでもらえれば結構」
慰労会という建前はさておき、そう言われればレオナを含め、トラブルに心当たりのある面々は口を噤むしかない。

「屋敷にはそれぞれに部屋も、退屈しのぎも用意しています。自由に過ごしていただいて結構。あぁ、なんて優しいんでしょう、私!ただし、あちらで魔法を発動することはできませんからそのつもりで……ところで、誰かドラコニア君を知りませんか?」

一泊分の軽い荷物だけを持って、アズールたちは皆、首を振った。例によってマレウスに声を掛けるのを忘れたと見える学園長が、仕方がありませんねえ、きっと彼はブロットの蓄積なんて関係がないでしょうと仮面の下で一人納得し、六人の寮長を送り出した。マジカルペンを学園長に預けて、順番に鏡を潜る。魔法石を伴わない鏡の移動は、人間の姿で海に潜るような妙な心地を覚えた。目を瞑り、鏡が運ぶ先へ身を委ねる。

……明日、アズール達二年生は三年生に進級する。イデア達三年生は最上級生になり、魔法士資格の最終試験、各専攻に合った実務修習が始まる。そして、卒業まで学園には殆ど帰らない。








「見かけのわりに、中は案外綺麗で良かった。ボクは部屋に荷物を置いてくるよ」

鏡を通って出た先は浜辺の端で、ずっと遠くに見えていた今夜の宿舎であろう屋敷に辿りつくのに──途中で歌を歌い、亡骸に出会ったりしながら──小一時間ほど歩いたように思える。砂浜を歩いた脚はひどくくたびれていて、ここで掃除をしなくては寝泊まりもできないなどとならなくて良かったとアズールは密かに安堵した。

屋敷はホラーハウスのように寂れた煉瓦造りの建物で、縦に長く取られた飾り窓が印象的だった。中もオンボロ寮のような有様だったらヴィルが帰ると言いかねないなと思っていたが、リドルの言う通り、屋敷の中は古い造りではあるがじゅうぶんに整えられていて美しい。吹き抜けの玄関広間には品のいいシャンデリアが吊るされていた。

一階には広い食堂と、空の暖炉が設えられたサロンがある。モストロ・ラウンジほどではないが広い厨房には調理器具と食材が揃えられていて、食べ物の心配も不要だと学園長が言っていたことを思い出した。割り当てられた自室よりも先に厨房を確認してしまうのは職業病というものだろうか。
「ふむ」
冷蔵庫に入っていたオレンジジュースの栓を抜いた。新鮮な果物の香りが広がる。

「タコ野郎、俺にもそれ寄越せ」

気付かない内に隣に影が落ちて、レオナがアズールの持つ瓶に手を伸ばした。
「僕の名前はアズール・アーシェングロットです。ご存知いただけていませんでしたか?レオナ・キングスカラー先輩」
レオナが胡散臭いと嫌う笑顔を向けて、瓶を強く握る。アズールの表情を見たレオナは面食らったように眉を片方上げ、ふんと鼻を鳴らした。

「はいはい、アズール寮長殿。喉が渇いたんだよ……早く寄越せ」
「ではその棚からグラスを出してください。僕もいただきます」
「けっ、お前よく俺を使えるよな」
「お互い様では?」

文句を言いながら、レオナはガラスの食器棚に並んでいたグラスをふたつ取り出した。曇ることもなくよく磨かれたグラスにオレンジジュースを注いでいく。並々とジュースの注がれたグラスを掲げてレオナは厨房を出て行った。
同級生に彼に甲斐甲斐しく世話を焼く男がいるが、彼はレオナが学園を離れたらどうするのだろう。太陽の影のように揺れる長い髪を見てそんなことを思う。先輩であるレオナの我儘に振り回されながら、白い歯で笑う彼はいつもどこか楽しそうだった。


もう一つグラスにジュースを注いで、寝室が並ぶ二階へ上がる。それぞれの扉に寮長の名前が金の文字で彫られていて、その中には不在のマレウス・ドラコニアの名前もあった。吹き抜けをぐるりと囲む廊下の右端から二つ目の扉を片手でノックする。珍しく、扉は薄く開かれたままになっていた。
ノックに返事が無いままに扉をゆっくりと開く。正面に細長くつくられた窓から薄く光が差して、人物のシルエットを逆光で照らす。

「イデアさん」
イデアは目を落としていた本から顔を上げて、いつも通りにやりと笑った。ホリデーの間もメッセージや短い電話での遣り取りはしていたが、こうして顔を合わせて話せるとやはり嬉しくなってしまうものだ。緩みそうになる頬を眼鏡を上げる素振りで誤魔化した。

「これはこれはアズール氏」
「それ僕の真似ですか?下の冷蔵庫にジュースがあったのでお持ちしました」
「さすアズ仕事が早い。探索フェーズで早速アイテム入手とは、やりますなぁ」
「そういう貴方は?目星は成功しましたか?」

冗談のつもりで返したアズールに、イデアは手に持ったものを少し掲げて見せた。彼の部屋の本棚に置いてあったものだろう、古い召喚術の本のようだ。ぱらぱらとページを捲ってみると、その半ばのページに一枚の手紙が挟まれていた。一度目を通して、もう一度その言葉を確認するように頭から読み直す。

「これ……」
宛名も自署もない、青いインクで綴られた文字は恋人に宛てられたものだろうか。
会いたいと願っていること、住む世界が違うことが苦しくて仕方ないということ、毎日海を眺めて過ごしていること、今生で会うことが叶わないのなら次の命で結ばれたいといった言葉で締めくくられていた。

「遺書、ですか」
「アイデアロールも成功」
手紙から顔を上げればイデアは口の端を上げて笑った。

当然、思い浮かぶのはあの浜辺に横たわった亡骸だった。
彼女はアズール達のようにある期間この屋敷に滞在していたのか、或いはこの屋敷はそもそも彼女のものだったかもしれない。この土地が学園長が用意したものか闇の鏡が作り出した空間なのかはわからないが、どちらにしてもいい趣味をしている。アズールは無意識のうちに指を噛んだ。

絶望して海に入る人間の気持ちが、アズールには解らない。イデアはこれを見つけてどう思ったんだろう、心を痛めただろうか。イデアはさりげなくアズールから本を取り上げて、口元の指を外させた。
ふと、彼女の恋い慕う相手は海に棲まう人魚だったのではないかと思い至った。この屋敷で恋人が帰っていった海を眺めて過ごしていたのなら、それはどんな心地がするだろう。

いや、近いうちに自分は同じ思いをすることになるのだ。アズールは思う。
去っていった先を海のように眺めることができないぶん、ましなのかより酷いのか解らないが。

「…………イデアさん」

名前を呼んだところで、階下から大きな音がした。

「カリムさんがまた何かひっくり返したんでしょうか」
「待って」
その先を続けることが出来ずに部屋を逃げ出そうとしたアズールをイデアが静かに止めた。大きく骨張った手が髪に差し込まれ、優しく頭を撫でられる。

「ン、髪乱れてた」

眉を下げて微笑まれるだけで喉の奥がきゅうと詰まり、鏡舎に集まってから他人行儀だったことを気にしていた自分に気が付いた。こんな些細な触れ合いで顔が熱くなるくらいには調子が狂う。
「あ、ありがとうございます」
開いたままのドアを一瞬確認して、すばやくイデアに向き直り、少しだけ顔を上げて頬にキスをした。ぼわり、と髪の炎が勢いを増した。
「ヒ、さすが神対応、これは勝ち……」
イデアはにやにや笑いながら何か呟いていたが、じとりと睨むアズールに観念したように額に軽く唇を落とした。







雲の中で日が沈んだようで、窓の外には夜の闇が降りた。
不思議と空腹は感じず、アズールは手持ち無沙汰に厨房で紅茶を淹れていた。小さい頃から実家のリストランテで食後の紅茶とコーヒーのサーブを手伝っていたためか、その作業をしていると心を落ち着かせることができた。
イデアはあれきり部屋の扉を閉ざしていて、一階に降りてくる気配は無い。

軽いヒールの足音が聞こえて振り向くと、厨房の入り口にリドルが立っていた。

「リドルさん。紅茶を淹れますが、貴方もいかがですか?」
「ハートの女王の法律で、夜のお茶はハーブティーにすること、と決まっているんだ。ありがたいけど、遠慮しておくよ」
「あぁ、それは失礼しました。お湯は沸いたところですから、どうぞ」
「ありがとう」

リドルは食堂の棚から柔らかい香りのする茶葉を取り出して(案の定この屋敷にはハーブティーも存在していた)、華奢なティーカップにそれを淹れた。アイボリーのタイルが敷き詰められた厨房にあたたかな湯気が昇る。

「波の音がしますね」
「そうだね、ボクの育ったところは海から遠くて、あまり馴染みが無いんだ」
「リドルさんは薔薇の王国のご出身でしたね」
「うん」

頷く声は僅かに沈んだ色をしていて、アズールはリドルを見遣った。細い指がハーブティーの香りを楽しむようにカップを持ち上げて、髪と同じ薔薇色の睫毛が伏せられる。
彼がその小さな体躯に故郷や家族に対する複雑な感情を収めていることを情報として知っていた。学年主席の厳格な寮長がオーバーブロットを起こした原因はそれとなく漏れ聞こえてきていたし、ホリデーが近付くと腹心の片割れは常々「イヤな思いするなら帰らなきゃいいのにねぇ」とラウンジのソファに転がりながらぼやいていた。そしてリドルもまた──青いインクの文字を思い出す──、人魚に絡め取られてしまった人間なのだ。

「アズール、まだ先の話かもしれないけど、キミたちは……学園を出たあとのことを考えている? 例えば、海に戻るかどうかとか」
「八方に手を回してはいますけど、どのルートを採るかは……考え中です」
「ふぅん……まぁ、さすがは思慮深いキミといったところだね」
「おや、褒めていただけました?……あの兄弟が海に帰ると言うかは僕には解りませんが、心配しなくても、元々ウツボはつがいの元に通う習性があるようですよ」

笑ってみせればリドルはじとりとこちらを見て、不貞腐れたように言った。
「……情報の押し売りかい? 対価は何が必要かな」
「では、紅茶を運ぶのを手伝っていただきましょう。サロンに皆さんいらっしゃるはずです」
「……ねぇ、アズール。キミには誰か──」

微笑みをつくって言葉の続きを制した。聡いリドルは咳払いをして話題を変える。

「トレイに持たされたクッキーがある。これを運んだら取ってくるよ」
「それは嬉しいですね」

彼が何を問おうとしていたのかアズールには察しがついた。
キミには誰か、離れがたい人はいるの?
その話題を避けたいと思っていることを、リドルが感じ取ってくれて有り難かった。今そんなことを聞かれては、天使像のように美しい彼に跪いて、胸の内で渦巻く不安や泣き言を洗いざらい吐き出してしまいそうだったから。




サロンに紅茶を持っていくと、退屈そうに本のページを繰っていたレオナとヴィルはゆったりと体を起こした。
ヴィルは大きな椅子に腰掛け、レオナは豪勢な絨毯に横たわり、最近二人に懐いているカリムもその横に加わっていた。服が皺になるとヴィルが叱りそうなものだが、もうこの二人については諦めたのかもしれない。壁に取り付けられた灯りがサロンに優雅な光を落としている。

「いやに気が効くわね、退屈してたのよ」
ヴィルはカップを持ち上げ、香りを嗅ぐ素振りでさり気なく毒を検分してから口に含んだ。人畜無害そうな微笑みを浮かべて、アズールは両手を広げてみせる。

「トランプで何かゲームでもしますか?」
「キミ、トランプまで持ってきていたのかい?」
「ボードゲーム部ですから」
「ババ抜きかブリッジしか知らないけど、どっちでも負けたことないぞ」
「いいですねぇ、コントラクト・ブリッジは僕も好きです。そういえば、僕の寝室にボードもありました」
「ババ抜きは昼間明るいうちにしなければならないと、ハートの女王の法律で定められている。たぶん、夜やり始めると妙に熱中するからやめておけということだと思うけれど」
「じゃあブリッジね、どうする?ここには五人いるけど」
「俺を巻き込むな」
「そうしたらボクは十時まで付き合って、レオナに譲ろう」
「勝手に決めるな」

アズールは自分の鞄からトランプと、スコア表にするための万年筆とノートを取り出した。
いつもボードゲーム部の活動ではあらゆる勝敗をタブレットにつけている。元々幽霊部員が多く、実部員が二人しかいないような部活だ。イデアが遊びで開発したスコア記録アプリには、その都度のゲーム点数と二人の累計の勝敗数が記録されている。イデアが勝つたびに髑髏のアイコンが高笑いをし、蛸が怒るアニメーションが展開される碌でもない仕様だった。


カリムとアズール、リドルとヴィルがそれぞれ向かい合って絨毯の上に座る。二枚のジョーカーを確実に抜き、よく切ったトランプを全員に十三枚ずつ配る。全員が手札を確認した。

「うーん、ダイヤを切り札にして八トリックで勝つ」
「ハートを切り札で八トリックで勝つ」
「僕はパスです」
「アタシもパス」
「んじゃあ、ハートを切り札で十トリックで勝つ」
「カリムさん……」

カリムは勝敗に大きく関わるオークションで、あっけらかんと難しい目標を挙げてみせる。トリックと呼ばれる一巡の勝負を競い合うゲームで、難しい目標を達成すればそれだけスコアに反映されるが、達成が遠ければその分相手ペアの得点になる。
ここでは最も目標値の高いカリムの宣言、コントラクトが採用された。パートナーとなるアズールも同じ目標を達成するように動かなければならない……手札をいくら睨んでも勝ち筋は薄く思えた。熱砂の国の富豪の息子は、さすが怖いもの知らずというか、負けることを心配していないようだ。アズールはやれやれ、と首を振った。

向かい合ってカードを切っていくと、改めてカリムの勝負の仕方は恐ろしいほどにギャンブラーで、迷いが無かった。そのためアズールは必死に出すカードを悩んだし、カリムの赤い瞳の奥を覗き込もうとした。しかし不思議と彼の思惑は味方のはずのアズールにも透けず、一体何の根拠があってこんな大胆なコントラクトを定めたのかと思う。
カリムがブリッジをする時、そのパートナーは恐らく生まれた時から一緒だという従者が演じていたはずだ。その蛇のような視線で彼だけは、ジェイドのユニーク魔法も届かないカリムの心を汲むことができるのだろう。
疚しいことがある人間を思い通り動かすことは容易い。それがアズールの信じる交渉術で、社交術だ。そうだとしたら、その最も対極に位置するのが目の前で屈託無く強いカードを切ることのできる同級生だった。

「アズールの番だぞ?」
赤い瞳に見つめられて手札に目を逸らす。やはりカリムが何を求めているかは解らないが、アズールはその場の最善を尽くした。

あらかじめ決めていた十回勝負で、リドルがハートのエースで最後のトリックを取り、コントラクトを達成したところで柱時計の鐘が鳴った。

「あぁ負けたぁ」
「後半に巻き返されましたね。一番に固執するお二人の負けず嫌いを煽ってしまいましたか」
「ふぅん、妙に棘のあることをお言いだね?」
スコア表を見返してわざとらしくしょげてみせると、リドルはむすっと唇を尖らせた。ヴィルは勝者の笑みで、何となく煽り甲斐が無い。

「何を賭けるか決めておくのを忘れたわね」
「賭け事は禁止だ……」

リドルが話している途中でぎゅうと目を瞑ったので、何かと思えばどうやら欠伸を噛み殺したらしい。

「坊っちゃんはもう寝る時間か?」
「うるさいな……就寝時間くらいは守らせてもらうよ。いつまでも鼻にジャムを塗りつけられているキミとは違うんだ。それじゃあ皆、おやすみ」
「おやすみなさい、リドルさん」
「おやすみなさい」

リドルが階段を上がっていき、ヴィルが転がるレオナを引き寄せて自分の向かいに座らせた。
大きな欠伸を隠すつもりも無いレオナの、勝利への執着は既にマジフト大会の一件で知っている。彼の能力はその体や獅子のパワフルさだけで無いことも解っていた。……何せ積み重ねた契約書の束を砂にされたのだ。気怠げに髪をかき上げるのをじっと見つめていたら、翠玉の瞳がアズールを見て、お見通しだとばかりに口の端を上げて笑われた。
ここで何か言ったら挑発に乗せられたことになる、とゲームボードを向き直ると、次の勝負に向けてカードを切り直していたカリムがうとうとと船を漕いでいた。

「カリムさん」
「うん……」
「眠たいなら部屋に……」
そう言っているうちにカリムは絨毯にを擦り寄せ、溶けるように眠りに落ちてしまった。普段の寮の就寝時間になるともれなく眠くなるように体内時計が設定されているのだろうか。改めて彼の従者の苦労を労いたい。

同学年であるカリムやリドルが健康的な時間に眠りに就いているのに比べ、ちっとも眠気が訪れないアズールは自分ばかりが夜更かしをしているような気になった。十時と言えば普段ならモストロ・ラウンジのクローズ作業が終わり、執務室を兼ねたVIPルームで売上げを確認している頃だ。アズールにとって日々の中で最も血が滾る時といっても過言ではない。

「仕方ないわね、ねぇ、最後にミニ・ブリッジでいいわ。一戦やりましょう」
「と、言ってもカリムさんはこの通りですが」
「アンタのパートナーは部屋に引き篭もってまだ起きてるんじゃない?アタシたちに勝ってみせたら……そうね、次のモストロ・ラウンジの新メニューをマジカメでレビューしてあげてもいいわ」

イデアのことを示されて、アズールは咄嗟に平静を装った。スーパーモデル自ら広告してやると提案をされては乗るしかない、というような支配人の表情をつくる。

「それは魅力的なお誘いですね、僕が負けたら何をしましょうか」
「砂浜でも歩いてくりゃあいいじゃねえか、端から端まで」

レオナはカリムの切っていたカードを拾い上げて再び切り始める。
窓の外の浜辺は暗闇に包まれていて、波との境が解らなくなっていた。横たわっていた彼女はどうなっただろう。カリムが言っていたように夜になれば精霊が亡骸を迎えに来てしかるべきところへ連れていくはずだが、それが済んだのかもここからでは見えなかった。
一般的にはレオナの提案は罰ゲームということになるのだろう。実際に負けたときのことを考えると憂鬱なのは恐怖よりもむしろ砂浜を歩く身体的な疲労だったが、勝ったときのメリットを考えれば負ける選択肢は無かった。

「わかりました。イデアさんに声を掛けてきます」



再び、二階の右から二番目の部屋を訪ねる。金でイデア・シュラウドの名が綴られたドアはぴたりと閉められていて、中からは物音もしない。

「イデアさん、僕です」

ドアをノックすれば部屋の鍵を開ける音がして、イデアが顔を覗かせた。

「今ヴィルさん達と下でブリッジをしてまして」
「絶対に行かないけど……?」
「先回りするのをやめてください。僕たちボードゲーム部の先輩後輩じゃないですか、あのお二人の負けて悔しがる姿、見たくないですか?」
「無理無理かたつむり、あんなキラキラしゃらんしゃらん空間混ざったら死ぬ溶けて死ぬ」
「そんなことおっしゃらずに。カリムさんもリドルさんも眠ってしまい、僕にはパートナーがいなくて……しくしく」

わざとらしい演技に顔を顰めてはいるが、そのままドアを閉めないでいるあたりやはりイデアはアズールには甘い。もう一押しで落とせるな、とアズールは心の中で密かに見積もった。賭けのために賭けをしていると思わなくもないが、この際仕方が無い。

「一戦だけ付き合っていただければ、学園に戻ったら貴方のしたいことに何でもお付き合いしますよ」
「ん?今何でもって……」
「えぇ、何でも。学園に戻ってからですよ、この屋敷じゃあ貴方のお得意の防音術も使えませんからね……」
「アズール氏のエッチ」
「そんな、僕、何をされちゃうんでしょう。怖いですねぇ」

計算され尽くした角度で小首を傾げてみると、イデアは声を出さずに叫ぶという器用なことをしてその場に蹲った。微笑みを絶やさないアズールを顔を覆った指の隙間から見上げて、(ぐらつく瞳が可愛らしいと思ってしまうあたり、アズールも半分はイデアに負けている)イデアは地の底から吐き出すような溜め息を吐いた。



「アンタその隈どうにかならないの?」
式典服のローブのフードを深く被ったままサロンの床に座ったイデアにヴィルは呆れたように言う。イデアはぎくりと体を震わせて、何も答えずに手札がきちんと十三枚かを確認した。
 
「ヴィルさん、僕の先輩を萎縮させないでいただけますか?……十三トリックの一回勝負ということでいいんですね?」
「えぇ」

各自が配られた手札を確認して点数の計算をする。手札にエース、キング、クイーン、ジャックが多く、持ち点が最も高かったアズールがディクレアラーとなり、パートナーのイデアが床に手札を広げた。

「ノーゲーム、トランプは……スペードです」

思えば、イデアと部活や彼の自室で行うゲームは大抵がワン・オン・ワンの一騎討ちだった。稀に彼の弟が加わって、三人で双六に興じたこともあったが、こうしてブリッジのようなゲームをするのは初めてになる。
今回、イデアはダミーと呼ばれるディクレアラーのパートナーの役割で、アズールの指示通りにしか手札を使うことができない。折角ならイデアの混沌としていて明晰な頭脳がカードを選ぶのを見たかった。

順番に、カードを捨てていく。ヴィルが美しい指先でカードを選び、アズールはイデアの公開された手札から出してほしいカードを指定する。レオナが手札を見て──パートナーであるヴィルに僅かに目配せをしてカードを捨てた。このトリックは最も強いカードを出したヴィルが取った。

……これまでアズールは手札を開示してきた。ある程度は。欲しいものを得るためには自分の能力を見せて、相手に欲しいものを選ばせなければいけない。
イデアの“特別”が欲しい。家柄や頭脳は関係無く、いや、家柄を誇れず卑屈になるところも、その頭脳と感情のあわいで苦しむ姿も、すべてをひっくるめて、彼の特別になりたい。
その欲望をアズールは言葉にして、腕と時には八本の足で、あるいは唇で伝えてきた。

でも、切り札は見せられない。それを提示したところで勝負には勝てないことはわかっている。
上級生たちは粛々とカードを出していく。

「イデア、アンタはどうするの」
「ぼ、僕はダミーだから」
「ブリッジじゃなくて修習の話よ」
「それは」
イデアが視線を落としたまま、アズールの指示に従ってカードを出した。


「……冥界に帰るよ」

知っていたことだった。
それでもイデアの口から改めて聞かされると、アズールの視界は暗くなる。

イデアは分野からして魔法工学の研究を続けるのだと思っていたが、彼は四年次の修習から故郷の嘆きの島で人の魂の分析研究をすると言う。
異端の天才と名高い彼が決めたということは、それは彼の弟を生き存えさせるためにどうにも必要だったのだろう。彼が自室で組んできたプログラムも術式も論理も、すべては弟のために考えられたことの副産物だった。イデアはずっと、彼の弟のために生きている。


アズールは春学期の間にイデアから相談を受けていた。彼自身の話としてではなく、彼の弟のメンテナンスを頼みたいという──モストロ・ラウンジを訪ねてきての依頼だった。


冥界に帰ることにした。造られた体に生命を完全に宿す方法を何とか見つけたいと思ってる。オルトを連れて行くと冥界から引き上げた魂がボディとのコネクトを絶ってあちらへ還ろうとするから、連れて行くことはできない。召喚術の抗えない弱点だ。その間のオルトの定期的なメンテナンスとパーツ交換を依頼したい。
対価は、メンテナンス時の処分パーツと、まだどこにも出回っていない、僕がテストで造ったプロトタイプの魔導パーツ五ダース。
他に頼める人がいないんだ。僕は二度とオルトを喪いたくない。

VIPルームで向かい合って座っている間、イデアは一度も顔を上げなかった。


……モストロ・ラウンジの支配人、アズール・アーシェングロットは、慈悲の精神で以てその依頼を受諾した。



「……オルトは友達もできたみたいで学園に残りたいって言うから、オルトのことはアズール氏にお願いした。この儀式から帰ったら準備を整えて、週明けには学園を立つ」
「……そう」
ヴィルはアズールを一瞥し、クイーンを一枚差し出した。アズールは手札で最も強いスペードのエースを出して、このトリックを勝ち取る。

「アズール、アンタ切り札の使い方が下手ね」
「……勝ちどころと負けどころは理解しているつもりですが?」
「本気で言ってるの?勝ち得たいものがあるなら、もっと見極めることね」
ヴィルは眉を下げて、哀れなものを慈しむような声色で言った。

最終トリックでレオナが隠し持っていたスペードのキングを出し、アズールとイデアの負けが決まった。アズールの手札にもイデアの手札にもそのカードが無かった時点で、普段のアズールであればキングに警戒することができたはずだった。

「久し振りに愉しかったわ」

ヴィルは美しく笑う。ゲーム中、度々ヴィルとレオナの間に意味深な目配せがあった。こちらはこちらで何か作戦立てをしていたのか、元々互いの肚を見透かしあい、お互いの嫌がることを言い合っているような二人だ、それが妙に作用したのかもしれない。この上級生二人を相手取ったことを後悔した。

「はぁ、モストロ・ラウンジの宣伝にご協力いただくのは今回は諦めましょう、また次の機会に」
並べられたトランプを集めてしょぼくれてみせるアズールに、イデアはやっぱりねと口を歪めた。

「その機会があれば考えてあげる」
「じゃあ、お前の好きな”コントラクト”を果たしてもらおうか。精々、風邪引かねぇようにな」
レオナが皮肉った口調で笑う。本当に、いい性格をしている。
「カリム、お前いい加減部屋で寝ろ……クソッ」
レオナが背後ですやすやと寝息を立てているカリムに声を掛けるが、彼が目を覚ます気配は無かった。舌打ちをして、荷物を担ぎ上げるように眠るカリムを肩に載せた。イデアの部屋で見せられた、親猫が子猫を運ぶ様子を思い出す。

「あぁクソ、なんで俺が草食動物の面倒見てんだ」
「じゃあ、お先に」
「えぇ、おやすみなさい」

カリムを肩に担いだレオナとヴィルが二階へ上がっていった。イデアとアズールだけがサロンに残されると、二人の沈黙を埋めるように外のさざ波が音を立てた。立ち上がって式典服の裾を払う。

「僕は少し外を歩いてきます、あの怠惰な王子の思いついた罰ゲームなので」
「……一緒に行くよ」

イデアの瞳が灯りを反射させて揺らめき、それだけで不意にアズールの胸を震わせた。





屋敷の玄関を出ると、二人の頭上には闇が広がって、空に張られた紗幕のような薄い雲が星を巧妙に隠していた。遠くに浮かぶ満月だけが砂浜を照らしている。

「イデアさんといると、いつも辺りは静かですね」
闇の中でイデアの髪は青く烟り、微かな笑みを青白く照らした。

波の先に、人の死に集まる精霊が集まっていた。精霊の銀色の翅が闇の中で淡く光る。彼女の亡骸を迎えにきたのだろう。イデアが静かに死者を送るための言葉を呟く。アズールも真似をして僅かに首を垂れた。

「死ぬほど誰かを愛せるなんてね」

イデアは諦めに似た口調で呟いた。その響きの寂しさを拭おうと、わざと嘲るように言う。
「おや、貴方恋したことがないんですか?」
「恋、恋ね……」
言葉の感触を舌先で確かめるように呟いてから、イデアはアズールを見た。金の瞳が細められる。

「してるよ、海に溺れるようなやつを」

伸ばされた左手はアズールに触れることなく、少し空を彷徨ったあと、思い留まったように下ろされた。イデアは困ったように笑う。
「でもヴィル氏が言ってたみたいに、僕も君も学園を出たら離れて生きていかなきゃいけないことも、賢い君なら分かっていたでしょ?」
そう言ってイデアはこちらに背を向け、暗い浜の先へ歩き出した。その表情は見えない。

彼の言う通りだった。
いくら努力して優れた魔法が使えたとしてもアズールはまだ十七歳の人魚で、イデアは冥界を統べる一族の息子だ。本来なら出会うことも無かった。それが学園で出会って、同じ時を過ごす内、何の因果か想いあって、結ばれたいと願ってしまった。棲む世界が違うというなら、イデアとアズールだってじゅうぶんそうだった。
頭上に星は見えない。
イデアはこちらを振り返ることなく静かな声で言った。

「次は君が手札を見せて」

革靴で砂を踏む。月の光で漂白されたような珊瑚の死骸が僅かに輪郭を持っていた。顔を上げれば、イデアの背中が見えた。足を進めて、その隣に並ぶ。
俯いた横顔の通った鼻筋が美しいと思った。フードから覗く髪に、いつものように触れたい。

「僕も、学園に来て恋をしました……燃えるような恋です」

イデアは薄く唇を開き、躊躇ったのちに小さく尋ねた。
「……後悔してる?」
「後悔?」
繰り返して、その言葉の薄っぺらさを鼻で笑う。

「ねぇイデアさん、貴方は知らないかもしれませんが、人魚は生涯で一度だけ恋をします」

満月で持ち上げられた波は静かに穏やかに寄せて返す。アズールは光を含んで織られる波の模様を瞼の裏に浮かべた。海にはたくさんのものがあったけれど、それでも満たされることは無かった。
ナイトレイブンカレッジに入学して、イデアとテーブルを挟んで意地悪な顔で笑われて、穏やかな声で美徳を挙げられて、手を握られて、触れ合った。その度、あの時海面から見た花火みたいに、胸の内で光を伴う炎が燃えた。

それが狭い学園で過ごす一時の、単なる憧憬の類だなんてアズールには思えなかった。

イデアはいつもアズールの想像を超えている。すごくすごく変なひとで、かなしくてやさしいひとだ。
何度その不器用な言葉に、不慣れな指に救われたか解らない。同じように、いつも昏いところを覗き込んで一人業火に焼かれようとするイデアのことを、アズールは救いたかった。同情でも慈悲でもなく、ただ一人の恋人として。

「これが恋でないのなら、僕はきっと人魚じゃない」


突然、体が引き寄せられ、イデアの腕に強く抱きしめられた。
「イデアさん……」
「アズール……、僕の可愛いアズール……!」

背中を抱く腕に力が籠り、イデアは掠れた声でアズールの名前を呼んだ。
骨の浮き出た肩に顔を埋めるとイデアのにおいがする。抱きしめ合ったときはいつもこのあまく冷たい空気で胸が満たされた。
ただ、彼が学園を離れればこうして触れ合うことも叶わなくなる。頬をくすぐる髪、強く体を抱きしめる両腕。二人で過ごした部室も、彼の部屋も、訪ねてももうそこにイデアはいない。アズールの瞳から一粒涙が転がった。

「イデアさん」
「ごめん、意気地なしで……本当は君を手放したくない……」
「……予防線を張りすぎるんです、貴方は」
イデアはもう一度ごめんと言って、撫でるようにアズールの頭に片手を回した。顔はお互い見えないはずなのにアズールが泣いていることに気が付いたようだった。そういう下手くそな優しさも好きだと思った。

「僕は……欲しいものは必ず手に入れる、貴方のことだって諦めたりしない。知っているでしょう?」
「うん……」
「なら、僕を置いていくな……この臆病者!」

言わずにいようと決めていた言葉を吐き出すと、感情が昂ぶった所為で溜まった涙がぼろぼろと溢れた。海とは違って涙は重力に従ってを伝い、抱きしめられたイデアのローブに染みをつくる。それは間違いなくアズールの切り札だった。
イデアの魔力ならアズールの自由を奪って連れ去ることだってできる。それでも彼はアズールが今まで通り学園の内外で自由にしていることと、何より唯一の弟の無事を願った。
他の大切なものをすべて棄てて二人きりになるには、まだ二人は幼すぎる。
子供のように泣きるアズールの背中を、イデアの手が優しく撫でた。ごめんねと囁く声が苦しいほどに切ない。月の光とイデアの髪が、影のような二人の姿を照らした。

やがて、イデアはアズールの目元を拭うようにに手を添えて、顔を上げさせた。
真っ直ぐこちらを見据える金の瞳が、言葉よりも雄弁にものを語る。たとえ二人が離れても、過ごした時間や重ねた思いは夢のように消えたりしない。

「……これは取引だよ、アズール。僕は君が欲しい。いつか君のすべてを僕のものにする」
「……対価が重要ですよ」
「対価は、僕のすべて」
「ここに契約書が無いのが残念です……」
この一言一句を、夜の海の静けさを、この体の熱を書き留めたい。が緩むとイデアもようやく安心したように笑った。

「……何か担保をください、魔法以外で」

イデアがいつもアズールにするように、イデアの頬をくすぐって挑戦的な笑みを投げかける。さすが、と小さく笑われて、肩をやさしく抱き寄せられた。
静かに唇が重なる。人間に焦がれた愚かな人魚が求めたという真実の愛のキス。初めてみたいに呼吸が止まった。この時を、きっと一生忘れない。




二人で手を繋いで、来た道を屋敷へ帰っていく。精霊たちは銀色の光だけを残して闇へ溶けていった。苦しい恋のうちに旅立った彼女は、恋人と再び会うことが叶うのだろうか。命を賭しても、それは解らないものなのだろうか。
打算を抜きにした同情なんて虫酸が走る。それでもアズールは彼女の思いがどうか報われるといいと願った。月が波を導くように、人の思いには何かしらの魔法めいた力があるのだろう。

「海と冥府はきっとどこかで繋がっていますよね」
「うん、きっと」
絡めた指先は冷たい。満月はゆっくりと移動して海面に金の光を落とし、波が二人の足跡を攫っていった。イデアはゆっくりと瞬いて笑う。

「きれいな夜だね、アズール」
「貴方となら」

二人で歩く夜が、こんなにも美しいことを知ってしまった。
後悔は無い。



初めての恋だった。




fin.




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