※いつもの卒業後遠距離結婚設定


 窓の外の音をすべて飲み込むように雪が降り続いていた。この土地の冬は朝晩が格段に冷え込み、海の向こうから運ばれてくる風が雪を運んでくることも珍しくない。古い屋敷だが、そのぶん冬の寒さや嵐に耐えてきたということで、ぴたりと閉じた窓からはすきま風のひとつも無かった。窓ガラスだけが氷のように冷たく、外の寒さを伝えている。いずれにしても、窓の外のことはモニタ越しの景色と同じようにしか思えないイデアにはあまり関係のないことだった。
「アズール・アーシェングロットさん、まだかなぁ」オルトは食卓の椅子に腰掛けて、つややかな足をぱたぱたと動かした。
 今晩からアズールがこの家に帰ってくる予定だった。彼はイデアやオルトの学生時代の後輩にあたり、数少ない友人と呼べる人物で、学園を卒業したあともイデアと人生を共にする契約を交わした相手だった。親しく思う人物を友人や恋人以上の親密さで迎えることはまだどこか不慣れで、クリア前のゲームを進めるときのような気持ちになる。
 普段、海の中で仕事をしているアズールは忙しい合間をぬっては陸で暮らす彼らの家に帰るようにしている。イデアもオルトも研究所へ出入りしているので、休みが合うときは稀だったが、そうして過ごす週末はささやかだけれど確かに幸福だった。
「もうすぐ仕事終わらせて来るんじゃないかな」
「ねえ兄さん、アズール・アーシェングロットさんにこの間のマシン見せたら喜んでくれるかな?」
「そうだね、アズール氏のことだからすぐ売上げ見込んで大喜びすると思うよ」イデアは苦笑しながら弟の髪を撫でた。オルトもアズールの気質を理解しているから愉快そうに笑う。それからどちらともなく日が落ちてもまだ薄明るい窓の外を見遣った。
 思えばアズールがこの家に帰ってくるとき、大抵天気が崩れているように思う。この前も、新しい靴を買いにとオルトとアズールが傘を差して出かけていったのは記憶に新しい。そう言うとオルトはわずかに考えるようにして「そうだね」と言った。
「ほんとうに、運がないというか出目が悪いっていうか……確率でいうとどれくらい?」
「アズールさんが来たときの天気でソートする? それともここに滞在している間?」
 そんなふうに話し合っていると、鏡の置いてある部屋から覚えのある魔法の気配を感じ取った。噂をすればなんとやらということらしい。
「おかえり、アズール氏」
 鏡を抜けたアズールは完璧な形を保っている帽子をとり、少しだけ目を細めてこちらを見た。彼は学生のときから大人びた仕草を(おそらく意識的に)していたけれど、今はそれが美しく馴染んで見える。
「ただいま、イデアさん、オルトさん」
 うすく息を吐き出すようにアズールは笑う。イデアは笑ってみせて、片手をひらひらと振った。以前アズールがこの家に来たのは少なくとも雪の気配なんてなかった頃だ。こうして会うのは久しぶりのことだった。アズールは応接間である部屋をぐるりと見渡す。
それから窓の外を見て「陸ってあまり晴れないんですね」なんて言うから、オルトと二人で笑ってしまった。
「君が帰ってくるときはなぜかいつもね。ミスター・レインマン」運とか偶然というものを信じていないアズールはちょっと口を歪めて肩をすくめた。
「今日の天気を知らないんですか? それを言うならスノーマンですよ」
「それはちょっとニュアンスが違うんじゃないかな」子供がつくるみたいな雪だるまを想像して笑った。
 海の中のオフィスから鏡を抜けてそのままこの家に着いたはずなのに、アズールの羽織ったコートは冬の空気を含んでいるような気がした。真珠層みたいに輝く髪がやわらかく波打つ。
 出会った頃から変わらない、真っ直ぐにこちらを見つめる青い瞳。影の中ではグレーに見えるその目は冷たい冬の海を思わせる。それが寒々しいだけでないことをたぶん彼の家族だけが知っていた。

 普段ひとりで眠っている寝室で眠りについたはずなのに、目を覚ますとそこにアズールはいなかった。
 カーテンの向こうは昨夜と変わらず灰色の空が広がっている。もうすこし一緒にだらだらと過ごしてくれてもいいのに、とネットで見た猫の動画を思い出した。飼い主のベッドで一緒に眠りたがる猫はかわいかった。そんなとりとめのない思考が流れていく。そのままもう一度眠ってしまうか迷ったけれど、今自分が求めているものは空想のぬくもりじゃないと思い、ベッドの外の冷えた空気の中に這い出した。
「おや、めずらしい」
 キッチンに立つ背中に歩み寄ると、アズールは振り返っておはようございます、と言った。
「何つくってるの」
「ホットケーキです」
 フライパンの上で生地が膨らんでいく。平和な光景に、朝まで一緒に眠ってくれなかったささやかな恨みは瞬時に消えていった。
「ジェイドが、僕がその手の甘いものをつくるのが得意でないと言うんです。カロリーを前にすると尻込みするとか」
「へぇ」
「それで、イデアさんに判別してもらおうと思って」
「拙者ホットケーキの味の良し悪しなんてわかりませんぞ」
「いいですよ、美味しいかどうかだけで」
 食べ物の評価基準がいまいちわからないのだけど、と思ったけれどフライパンを見つめる横顔があまりに真剣で口を挟めなくなってしまった。
 アズールがフライパンを揺すって、器用にホットケーキを裏返す。ぱたん、と軽い着地音がする。そのまま写真素材に使いたいくらいの焼き色だ。顔の前で小さく拍手するとアズールは得意そうに唇の端を持ち上げた。
「バターを切らしていましたね」
「そうだっけ」冷蔵庫の中のことはアズールとオルトに任せているのでイデアはほとんど何も知らない。
「虎でも走らせる?」
「虎?」アズールは指先をくるくると回した。計量カップの中のミルクが渦を巻くように立ち上がり、ほろほろと崩れ落ちそうなバターになった。難しくない変化魔法だけれど、料理をしながら調整することは並の魔法士ではできないだろう。イデアは昔どこかで聞いた絵本の内容をかいつまんで話した。
「なぜ虎がバターに?」眼鏡を掛け直しながら、アズールは映画俳優のように眉を顰めた。
「魚が人間になるんじゃあるまいし」肩をすくめる。アズールにとっては理解し難いセンスのようだった。
「童話に理屈を求めないでよ」イデアは笑った。
 昨日と比べて少し水気を含んで重くなった雪が降る。
 たまに夜更かしをせずに眠ると昨日と今日の区別がはっきりつく。ホットケーキを裏返すみたいに、新しい日がきたのだという気分になる。
 でも眠れない夜があるからわかる。昨日も今日も当たり前に地続きで、その変化は緩やかなものだ。雪はわずかに形を変えながら降り続いて、時間は絶え間なく流れる。ぐるぐる回る虎が少しずつ溶けていくみたいに。
 もうすこししたら、イデアが起きていることを感知したオルトもスリープモードから目を覚ますだろう。アズールを抱きしめて頬を擦り寄せた。ふかふかとあたたかいホットケーキのにおいがする。
 朝食を食べる。生活は続く。




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