※未来捏造、遠距離結婚をしているふたり




 元々が器用であるし、命の境界を飛び越えることに抵抗が無い。皮肉っぽい笑みを浮かべて世間一般の倫理観を吹き消してしまう。凡人が思い留まる、生きものをつくることに必要なハードルを蹴り倒して進むような男だ。だから今回も天才の気紛れなのだと思っていた。アズールは厚いカーテンの隙間から窓の外を見上げる。夜になっても冷たい雨は降り止まず、絶え間なく世界の裾を縁取っている。

 イデアとは学園を卒業してからも付き合いが続き、数年に渡る交際ののち結婚という形で将来を誓うことになった。ドラマティックな恋愛の駆け引きというよりは、白熱したボードゲームのようなやりとりの試合結果として。それで何が変わったということはなく、アズールが結んだ契約の証明書が新たに発行されただけだった。
 イデアには通いのラボラトリーで没頭したい研究があったし、アズールは軌道に乗り始めた事業の拠点を海の中にもっていた。忙しいふたりはいわゆる新婚生活の中で、早々にひとところで一緒に暮らすことを諦めることになった。海の中にあるアズールの自宅と陸に構えられたイデアとオルトの屋敷を鏡でつなげても、お互いに忙しく飛び回っているせいでその家にすらいないことが多かった。
 普段イデアは弟のオルトと一緒におそらくは研究や新作のゲームに熱中して、学生時代と変わらず眠ったり眠らなかったりしながら暮らしている。偏屈な海洋学者が住んでいたという海辺の屋敷は古い建物だったが広く、手入れが行き届いていて、オルトもアズールも一目でその家が気に入った。(学者は鯨を追うようにずっと南にある島で隠居生活を送っているそうだ。)その家に残されたアズールの気配は磨かれたシンクや、食器棚に並ぶカップや食器、冷凍庫の作り置きの料理くらいだったが、それでもいつ訪ねてきても不思議と居心地が良かった。イデアとオルトが自然にアズールを受け入れているからだと今だからわかる。陸に上がったばかりの頃は、自分がその場所で異質な存在であることを常に心のどこかで考えていた。自分は陸の生き物ではなく、陸は自分の生きる場所ではない。だからこそこの世界を知りたい、手に入れたいと思っていた。……その野心が消えたわけではないが、それでもアズールはすでにこの世界の一部になっていた。

 その日、アズールが専用の通路である鏡を潜ってイデアの家に着いたとき、サロンの窓辺に一匹の猫がいることに気が付いた。薄いカーテンに紛れるようにして、柔らかそうな白い体毛の猫が気難しそうな目でじっとアズールを見ている。
 猫?
 見間違いかと思い目を細めてそちらを見るが、やはりそれは一匹の猫だった。白猫は長い尻尾をゆっくりとしならせ、周囲の居心地を確かめる。
 アズールが何か言葉を発しようとしたとき、イデアが廊下から痩身を現した。
「ウルスラたん、お出迎えできた?」
 イデアの問いかけに、猫は軽やかに出窓を降りた。その身のこなしに反して、重たそうな着地音がする。ひやりと冷たいフローリングに四本の足が揃う。
「おかえり、アズール氏」
「えぇ、ただいま戻りました」
「んー、なんかまたちょっと痩せた……?」自身の作ったものを点検するときのような仕草で首を傾げて、イデアはアズールを眺めた。
 アズールが陸を離れていたことやイデアが研究に没頭していたこともあり、メッセージや通話アプリ越しでない会話は半年振りだった。それでも自然に微笑むことができる。
「猫なんていつの間に飼い始めたんですか」
「春頃かな、つくってみたんだ」
「つくった?」
「うん」イデアが慣れた仕草で猫をすくい上げるように抱き上げた。腕の中の猫はなめらかに体を丸める。
「ほらここ。テレレテッテレー、AC接続用のホール」
イデアが戯けた声を上げながら長い毛を掻き分けると、たしかにそこには電化製品でよく見るような小さなケーブルの接続孔があった。猫は迷惑そうに体を捻ってイデアの腕を抜け出した。有機的な動物の動きとなんら変わりが無い。
「本物そっくりでしょ」
「えぇ、てっきり本物かと……」
「フヒヒ……いやぁ、やはり拙者天才か?」
 学生時代から猫好きな性質であることは知っていたが、凡人はそれで自分で機械の猫をつくろうとは思い至らない。彼が異端の天才と呼ばれていたことを思い出した。この男は普通ではないのだ。僅かに羨望の滲んだ溜め息を吐いてしまう。そういうところが面白くて、ずっとたまらなく欲しかった。
「なんでこんなにお金になりそうな発明黙っていたんですか」眼鏡を掛け直してイデアに向き直ると、イデアは慌てたように目を泳がせた。
「えっ、あ、アズール氏にも一応相談はしたからね!? 通話したとき、ねこたんと暮らしたいなぁ、ねこたんロボット作っちゃおうかなぁって」
「……僕そのとき何て言いました?」
「掃除機能と合わせたらより売れるかもしれませんねとか言ってた」
 言われてみればそんな会話をした記憶もある。
「完成したときに写真も送ってますぞ」イデアがそう言ってメッセージアプリの履歴を見せた。ねこたん、と書かれたメッセージにオルトが先程の猫を抱えて頬を寄せている写真が載っている。彼の弟であるオルトが近所の猫と撮ったものかと思っていた。その楽しそうな表情で満足して、猫についてあれこれ尋ねたりはしなかった。
「アズールさん、おかえりなさい!」
 ちょうど写真のような笑顔でオルト・シュラウドがいつも通り足音もなく現れる。
「オルトさん、ただいま帰りました」
 この少年と家族になって数年が経つ。アズールがイデアと紆余曲折あった上で結婚を決めたとき、誰よりも目に見えて喜んだのはオルトだった。
 イデアの腕を抜け出した白猫はオルトの足元にうろうろと懐いたあと、細くパワフルな腕に素直に抱き上げられた。オルトに随分懐いているんだ、生みの親をなんだと思ってるんだろう、とイデアが不満そうに言う。兄さんたらウルスラが嫌がっているのに抱きしめて離さないんだもの。オルトが笑った。
 これまでにもアズールの人生にはパレードのように色々な人物が登場してきたが、家族が増えるのは久しぶりのことだった。


「ウルスラたーん、今日もフワフワ女王様でしゅねえ」
 数日アズールが家に滞在する間、白猫は優雅な足取りでその家の中を歩いていた。我が物顔でイデアの膝に乗り、二人の寝室を気紛れに訪ねた。
 ウルスラというのが白猫の名前で、持ち物に妙な名前をつける癖があるイデアにしては美しい名前だった。(家に置いてある不細工な猫のぬいぐるみにはモチと名前がつけられていた。)
 猫に嫉妬するほど狭量ではないと思っていたが、元々猫という生き物が特段好きでは無かったし、(ふわふわした毛並みの大きな犬もあまり得意ではない)アズールと話している間もイデアの視線が猫を追うのは面白くなかった。アズールに触れるその手つきが機械の猫を撫でる手つきと同じだと知りたくなかった。
「この技術を商売に活かすつもりはないんですか?」
 思わずタブレットで進めていた仕事の手を止めてイデアの緩んだ顔をじっと見てしまう。
「いやこれは完全に趣味」
 イデアは指先で猫の狭い額を撫でながら言った。ただの趣味でここまで命に似たものを作り出すのはイデアくらいのものだろう。
「アズール氏もだっこする? ネコチャンの癒やしをご堪能あれ」
「いえ、僕はいいです」
「なんで、絶対にかわいいのに……」
 そう言うイデアの膝を軽やかに下りて、猫はまたどこかへ行ってしまった。猫の自由な歩みを眺めるイデアの横顔を見る。金の瞳がやさしく細められて、繊細な睫毛が影をつくる。
 お互いが常に傍に居なくても大丈夫なように結婚をした。アズールの契約書は破れないし、傷がつかないように魔法で形を変えて二人の薬指に収まっている。たとえ隣にいなくても大丈夫だった。イデアには何より大事な弟がいたし、自分が常に傍にいなくてもいいのだと健康な心で思っていた。
 それとも、イデアは寂しかったのだろうか。すぐ傍にあって抱きしめられるぬくもりが必要なら、出来るだけ傍にいられる方法を探らなくてはと思う。


 イデアとオルトがラボに出掛けていった日、アズールはキッチンの整理をしていた。明日には再びこの家を離れて海の自宅へ戻る予定になっている。作り置きができるような料理を順に作っていく。この家に普段暮らすものの中で食事を摂らなければいけないのはイデアだけだ。それぞれのメニューや食べ切る目安をオルトに向けたメモをつくる。兄思いの彼なら、こまめにチェックをしてイデアにうまく食べさせてくれるだろう。
 どこかの窓辺で猫が窓枠から降りた音がする。静かな部屋に自分以外が立てるささやかな物音がするというのは存外に落ち着くものであることを思い出した。猫のほうもアズールがキッチンで作業する物音に耳を澄ませているかもしれない。ひとつの空間に別々の時間が流れている。
 料理を終えて片付けを進めているとスマートフォンがメッセージの受信を報せた。
 『人が来るの忘れてた! アトリエのケースを渡してもらえればわかるはず』
 イデアからのメッセージで、何かのアニメのキャラクターのスタンプも送られてきた。この家の作業部屋には何度か作業の手伝いで入ったことがある。部屋のロックを解除して確認すると、彼ら兄弟の頭脳のようにカオスとコスモスが混在し、美しく飛躍する理論の下に組み立てられたプログラムと、子供のおもちゃのようなパーツや作りかけの機械が放り出されている。
 部屋の作業台の下に楽器が入っているような黒い革張りのケースがあった。製作物の納品か何かだろうか。ケースにはイデアの走り書きで今日の日付と見慣れない人名のメモが貼り付けられている。何にしても確認してみようかと留め具に手をかけたところでちょうど玄関のドアベルが鳴った。
 イデアの作ったホームセキュリティシステム越しに確認をすれば、訪ねてきたのは一人の老紳士だった。静かな雨の中を歩いてきたのか、丁寧な所作で傘を閉じて、扉を開けたアズールに上品に微笑んだ。人に気に入られるための方法を徹底して身につけたアズールからしてもその仕草には自然と好感が持てた。
 老紳士が名乗ったのはやはり黒いケースについていたメモの名前だった。応接間に通してアトリエからケースを運ぶ。
「こちらをお渡しするようにシュラウドから聞いております」
「ありがとう。確認しても?」
「もちろんです」
 アズールが頷くのを待って、老紳士は屈み込んでその箱を開ける。新しいパーツか何かだろうかと思っていると、ビロードの敷かれた箱から小さな動物が飛び出してきた。眠りから覚めたばかりの子供のように鳴き声を上げてはしゃぐそれは耳の尖った小さな犬だった。
「あぁ、尻尾を振るようになっている。直してもらってよかったなぁ」
 嬉しそうに仔犬を撫で、優しい声色で語りかける。仔犬はふさふさと長い尻尾を大きく振って、アズールの足元にもじゃれついた。海の中で八本の足の先を小魚が泳いでいく感覚を思い出す。
「失礼ですが、こちらは?」
「修理をお願いしていたんです。この子も彼の発明品ですよ」老紳士は笑顔で言い、仔犬の小さな頭を皺だらけの両手で愛おしそうに包んだ。仔犬の澄んだ黒い瞳が窓の薄明かりを反射させる。
 白猫が遠巻きにそのやりとりを見ていた。あるいは自分と同じように機械仕掛けの生き物を見て思うところがあったのかもしれない。
 イデアは猫をつくったことをただの趣味だと言った。紅茶を淹れて差し出す。
「ありがとう」老紳士は少し驚いたように瞬いた。この家にティーカップがあることさえ意外だったのだろう。人嫌いのイデアのことだ。オルトに対応を任せて自身は部屋に隠れている姿が目に浮かぶ。
「あのひと、こういうこと何もしないでしょう」
 アズールが言うと、老紳士は笑った。「それぞれ得意不得意はある」
 老紳士は近くで暮らしていて、この家の元の持ち主と親しかったという。彼が南の島へ行った後、そこへ越してきた変わった家族(兄弟のことを指しているのだろう)のことを気にかけていたという。そんな中、庭でアクロバティックに遊んでいたオルトを通じて二人と知り合った。
「妻を亡くして一人だった私にこの子をつくってくれた」
 イデアは他にも家族を亡くした孤独な人のところに匿名で猫や犬のロボットをつくって届けているらしい。
「一緒に暮らしていた犬と似ているわけではないんです。私の愛犬はもっとずっと大きかったし、雨の日が好きだけれど雷を怖がっていた。ただそばにいてくれるだけでいいんだが、妻も亡くして……ぬくもりのあるものをこれ以上看取るのはあまりにも悲しい」
 老人はそう言って目を伏せた。遠く離れた恋しいものを思うような目はイデアが時折見せる寂しげな表情によく似ている。
 身近ないのちを喪った人は、ぬくもりのある生き物とまた暮らすことが難しい。きっとイデアもそれを身をもって知っているだけに機械の動物を作ったのだろう。元から鼓動もぬくもりもなければ永遠に別れなくて済む。
「…………」
 白猫を撫でるイデアの手を思い出す。やわらかい体を持ち上げて頬を擦り寄せて笑っていた。
「さて、そろそろお暇しよう。ありがとう、君の淹れるお茶はとても美味しい」
「恐れ入ります」経営するささやかな店にはアズールよりもうまく紅茶を淹れる男がいるが黙って微笑んだ。
 大切そうに仔犬を抱えた老紳士を見送って、家には再び猫とアズールの二人だけになった。


 夜になっても細かい雨は音もなく降り続いていた。イデアとオルトはまだ帰り着かず、アズールは一人ベッドに体を横たえた。ひやりと冷たいリネンに自分の体温が馴染んでいく。
 学生時代の気楽な関係はいつでも根底にある。それだけではいられない年月を過ごしてきた。価値観の相違やつまらない嫉妬に苦しむときもあった。それもワインが時間をかけて価値を含むような、思い返せば悪くない日々だ。
 それでも、何年経ってどんなにしあわせでも、イデアの奥底にある強い恐れのようなもの──もう大切な人を失いたくないという願いを完全に拭い去ることはできなかった。どんなに遠い先のことであっても、いつか二人は離れ離れになってしまう。
 たとえ死んでしまっても離れる気はさらさらないし、学生時代から自分が彼の寂しい心をあたためてあげたいと思っていたけれど、そもそもぬくもりがないことで救われることもあるのだろう。アズールにはできない方法で、猫はイデアの脆い心を支えているのだろう。
「寂しくて不幸せなひと」
 それでも落胆するほど健気でもない。自分にしかできない方法でイデアの傍にいたかった。自分が悲しみの底から救われないと信じ切っている男を幸せにしてやりたかった。何よりも自分自身のために。
 白猫が音もなくベッドに乗り上げてきた。
「一緒に帰りを待ちましょうか」
 空を映したような青い硝子の目が細められる。やわらかそうな毛は灯りを透かして銀色に輝いて見えた。
 部屋の中はひどく静かで、つくりものの呼吸がほんのわずかに空気を揺らしていた。猫は夜になると静かになる生き物なのだろうか。それともイデアがナイトモードに設定しているだけなのかもしれない。いずれにしてもアズールの海は静かに凪いでいた。美しい夜はいつもどこか寂しい。
 アズールは初めてその毛並みを撫でる。






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