※卒業数年後、未来捏造


「あは、疲れた顔してるねぇ」
 クリニックを出たところで大きな影がリドルを待ち構えていた。学生時代の同級生であるところのそれにもすっかり慣れたものだけれど、彼を見慣れない人からしたらかなり威圧感があるだろうと思う。Tシャツにスポーツメーカーのパンツという出立ちだったが、彼が身につけると頭の天辺から爪先まで、どれも一級品に見えた。
「来るなら来ると連絡しておくのが礼儀というものだよ、フロイド」
「だってぇ、ついさっき金魚ちゃんに会いたい気分になったんだもん。駄目なの?」
 悪びれずそんなことを言って首を傾げてみせる。片耳のピアスが星が海に落ちたような音を立てた。こうして顔を合わせるのは三ヶ月ぶりだというのに、その点について思うことはないらしい。リドルは半分パフォーマンスの、半分は本物の溜息をついた。
「追い返すような真似はしないよ。ハートの女王も突然やってきた迷子の少女を可愛がったと言うし」
「えぇ、オレ迷子の少女なの」
「似たようなものだろう」
 いつまでもクリニックの前を塞いでいるわけにもいかないので、クリニックの裏手にある駐車場の愛車までフロイドを導いた。リドルのささやかな城であるクリニックは白い煉瓦造りの建物で、ぐるりと周囲を薔薇の生垣で囲んでいた。学生時代を過ごした島では背の高い生垣は珍しかったが、リドルにとっては故郷の庭のつくりに馴染みがある。フロイドは生垣を覗き込めるほどの長身で大人しくリドルの後ろを着いてきた。
 リドルが数年前に購入したスポーツカーは美しい流線型をしている。購入に際し、マシンに詳しい後輩に意見を求めたところ、リドルよりも熱心にカタログを眺めてあれこれと検討していた。リドルも時間を見つけては手入れをしているので、数年間毎日走らせていても庭の薔薇のように赤く、ナパージュされた苺のように輝いている。
「それで、今日は一体何の用なんだい?」
「だからぁ、金魚ちゃんに会いたくなったんだって」
 器用に体を屈めてフロイドは車高の高くない車に乗り込んできた。その様子は同じ学園にいた頃にプールで見た彼の本当の姿を想起させる。
「それだけ?」
「そーだよ」
 フロイドはシロップみたいに甘い声で言って、リドルの前髪を軽く指先で払った。
 彼は相変わらずかつての学友たちと仕事で各地を飛び回っているらしく、今日もそのついでにリドルの暮らす薔薇の王国にやってきたのだと思っていたので少々肩の力が抜ける。
「じゃあ今日は休暇か何かなの?」
「んー、ジェイドもアズールもなぁんか面倒くさいことやってるから黙って出てきた」
「それじゃあまるで子供の家出じゃないか」
 思わず笑うと、フロイドは目を瞬かせてリドルを見た。
「せっかく来たならどこか観光していくといい。ボクも明日は診療がない日だから、少しなら付き合える」
 リドルはそう言って車のエンジンをかけ、ギアを操作した。箒で一回転をしてみせるように、すでにこの車はリドルの体によく馴染んでいた。
「フロイド、移動したければシートベルトをする事だね。キミのせいで減点されるなんて御免だよ」
「シートベルトってこれ?」
 フロイドは心底理解できないという表情で肩の少し下からシートベルトを引き、かちりと嵌め込んだ。運転席から身を乗り出して、ベルトの位置を調節してやる。
「よろしい。それで、どこか行く宛は決まっているのかい?もしキミにスケジュールというものがあればの話だけど」
「あは、そんなの無いって知ってるじゃん」
「そうだろうと思ったよ」
 リドルはそう言って車を発進させた。宛てもなく出掛けるというのはリドルには難しいことだったので、時折ひとりで向かう街外れのコーヒースタンドを目指すことにする。爽やかな甘味のベリータルトが人気の静かな店だ。お茶の時間には遅かったが、カフェラテをドライブスルーで購入していくのもいいかもしれない。
「金魚ちゃんは、海に太陽が沈むの見たことある?」
 甘くあたたかいイメージを膨らませていたせいか、フロイドの言葉に反応するのが僅かに遅れた。
「海に太陽が?」
「うん」
「あったと思うけれど」
「オレそれが見たいな」
「海……」呟くようにして、頭の中で薔薇の王国の地図を思い浮かべてみる。賢者の島よりは大きいとはいえ、薔薇の王国もひとうの島である。今から車を走らせればフロイドの要望通り、夕方にはどこかの海岸線には着くと思われた。
「いいだろう、車を出すよ」
「イェーイ」フロイドはシートの上で姿勢を崩して器用に口笛を吹いた。いずれも、リドルには出来そうにない仕草だ。ついさっきまで普段と変わらない日を過ごしていたはずなのに、予定外のルートを車は走ろうとしている。フロイドがいるといつもこうだと思った。


 しばらく走っていると車が窮屈だと言って騒ぎだしたので幌を上げてやった。風がふたりの髪を揺らし、シャツの袖を打って後方に流れていく。フロイドは子供のように声を上げて喜んだ。
「すっげぇ、空が近いね!」
 風の音に紛れてしまうので、リドルも大声を上げる。
「夏が近いからだよ」
 島の東西をつなぐ大きな道は車も疎らで、リドルはストレス無く車を走らせることができた。フロイドが運転を代わろうかと言ったのをもちろん断って、ギアシフトを駆使する。
 それからフロイドは思い出したようにカーステレオを操って音楽を流しているラジオにチャンネルを合わせた。普段リドルはカーラジオなどというものを聴かない。リドルの頭の中は元から言葉でいっぱいだったし、そこに音楽が流れ込む隙など無かった。
 カーステレオから軽快な音楽が流れる。このままどこか遠く連れてってくれないか、とラジオは歌う。オルタナティブロックというのか、これがパンクロックというものなのか、リドルには判別がつかない。おそらくフロイドもそんなことは気にしていないだろう。音楽がリドルとフロイドの鼓膜を震わせ、風に乗って流れていく。


「コーラみたいな海」
 夕暮れが近い海を眺めてフロイドが言った。海岸線の切り立った崖の近くで車を停めて、リドルも静かに体を伸ばす。穏やかな風は辺りから潮のにおいを集めて、広がる海の向こうに吹き込んでいった。
 海のほうへゆっくり落ちようとする太陽は大きく丸く、赤いキャンディのようだった。あるいはフロイドの言うようにコーラのグラスに添えられたチェリーのようで、そのグラスの大きさを空想した。グラスの中では自分たちは小さな泡のひとつでしかない。
「フロイド」
 呼び掛ければフロイドはまっすぐにこちらを見た。夕日に照らされて、フロイドの頬も髪もすべて赤く染まって見える。
「ずいぶん昔に見たことがあった気がしていたけれど、こんなふうに海に日が沈むのを見るのは初めてだったかもしれない」
「ふぅん、それじゃあ今日見られてよかったねぇ」
「うん」素直に頷いた。夕日と水平線の境は薄い雲で曖昧になっているが、ゆっくりと確実に太陽は海の向こうに滲んで沈んでいく。しばらくふたりで黙ってその様子を眺めていた。そうしているうちに、やがて自分の胸の内にあった深い悲しみや後悔が遠い海の向こうに溶けて沈んでいく気がした。海鳥がどこかで奇妙な鳴き声を出した。
 フロイドは地面に座り込んでこちらを見上げた。
「金魚ちゃんて、スゲー魔法いっぱい使えるしオレらと違って飛ぶのも上手いのに何で車乗ってんの」
 突然そんなことを聞かれてリドルは何度か目を瞬かせた。車を買い求めたときでさえ、誰もそんなことは尋ねなかった。
「魔法が無い自分がどこまで行けるのかと思ったんだ。実際に遠くまで出掛ける機会はあまりなかったけれどね」
「セーシン科なんて魔法で治せないことしてんのもそういうことなの?」
「そう……かもしれない。魔法で体の傷や不調を治すよりも、それでは癒せないひとたちと向きあうことを重要だと思ったんだ」
 壊れた時計にバターとジャムを塗りつけるような具合に、人のからだを切り開いてそこにある物理的な問題を取り除くことや、からだの不調で起こる痛みを魔法で解消させることがあまり得意ではなかった。それよりは、このユーモアに欠けた世界を生きていく中で息苦しさを感じるいかれたヒトたちを苦しみから解放してやりたい。うまく生きられなくても、おかしくてもいいのだと。
「間違っていると思うかい?」
「オレに聞くのが間違いだよ」
「それもそうだね」フロイドはヘテロクロミアの瞳でじっとリドルを見つめた。
「何かおかしいかな」
「金魚ちゃんが笑ってるから」
「そうか」
 頬を触って確認すると、フロイドはますます嬉しそうに笑った。確かに学生だった頃こんなふうに笑うことは(少なくともフロイドの前では)殆ど無かったはずだ。今こうして彼の前で自然に笑えることが不思議に思える反面、もしかしたらあの頃もこんなふうに笑顔になれたのかもしれないと思う。寮生たちとはまた違ったやり方でリドルの心の鍵穴に潜り込んできた男だった。
「キミは致命的に破綻しているけれど、ボクが出会った誰よりもまともなのかもしれない」
「オレからみたら、金魚ちゃんだってチメイテキにハタンしてるよ、ずっと」
 フロイドはそんなふうに言って花が綻ぶように笑った。まったくいかれている。


 やがて東の空から夜がやってきて頭上を丁寧に覆い、ふたりは車に戻って眠ることにした。
 幌を開けたまま空を見上げると、街中では見えないほど奥行きをもった星空がぐんと迫って見える。
 シートを倒してもフロイドの長い脚は収まりが悪そうだったので、特別に靴を脱いだ足をダッシュボードに上げることを許してやった(躾に厳しかったリドルの母親が見たら卒倒しそうな格好だ)。
 運転席に横になったリドルからはフロイドのオリーブの右目が見えた。左右で異なる色の虹彩は独特なムードをもっていて魅力的だったが、深い色をした瞳に星空の光が映り込んでいるのも悪くなかった。
 こうして大人びた横顔だけを眺めていると、学生の頃から時間が経ったことを改めて感じる。あの頃はまさかフロイドとこんなふうに静かに星空を見上げるなんて思わなかっただろう。顔を合わせば嵐か竜巻を巻き起こすような男だった。
「フロイド」
「なぁに」
「ありがとう」
「何が?」
「ここに連れてきてくれたこと」
「連れてきてくれたのは金魚ちゃんじゃん」
 またしても簡単そうにフロイドは言った。太陽は西に沈むとか、ティーポットに眠りネズミがいるとか、そうした当たり前と同じことのように。それでもその声にリドルの言葉を拒絶するような響きはなかった。リドルが言ったことはきちんとフロイドに伝わっているのだとわかる。だからこそ、力を入れずに笑うことができた。
「それもそうか」
「変な金魚ちゃん」
 明日の午後の診療までにはクリニックに戻らなくてはいけない。リドルをチメイテキに必要としている人がいるし、彼らを見過ごせない責任感や重圧は常にリドルの首元を締めつけていた。それでもこんなふうに笑えるようになった。見知らぬ星空の下まで来ることができる。フロイドといるとどこまでも伸びやかな気持ちになれた。
 流れ星のような、つかの間の旅だ。この地上では誰も星にはなれないから、たまにこうして星になる夢を見るんだと思った。







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