| (1111番キリリク:💀🐙withクル先)
錬金術の授業を終えて、大釜を準備室に運び込む。今日は合同授業にイデアを引っ張り出すことに成功し、うまく根回しをして片付けの当番をふたりで担当することができた。元から錬金術は得意科目であったが、今回の出来栄えは満点以上だったと思う。上機嫌のアズールと対照的に、午後の2コマの授業に出席することになったイデアはげんなりとした顔で準備室の扉を開けた。 「先生、失礼します」 「入れ」 デイヴィス・クルーウェルの城である科学準備室の赤い絨毯に革靴の足をとられる。授業を終えた彼は愛してやまないファーコートに身を包み、優雅にデスクチェアに着いていた。 実用的な魔法具の備品管理室でもある部屋に調度品の嗜好を凝らすなんてファッション・ジャンキーの考えはわからないと思いながら、部屋の隅にゆっくりと重たい大釜を置いた。普段片付けや準備のために立ち入ることのある部屋だが、今日は珍しく彼の煙管のにおいがしていない。その上、何やらきゅいきゅいと遠くの海鳥のような甲高い音がする。 「わ!」突然イデアが何か大声をあげた。クルーウェルのデスクのほうを見て目を見開いている。つられて同じ方向を見ると、デスクの横に置かれた豪奢なベビーベッドに何か小さな白い生き物が蠢いていた。イデアはそろそろとそのベビーベッドに近付く。 「嘘、めっちゃかわいいじゃん……」 イデアはその生物にいたく感動しているようだが、アズールにはそのかわいさがよくわからない。白く、片手ほどの小さい生き物が数匹寄せ集まっていて、見ればそれぞれが小さな手足を居心地悪そうに動かしている。部屋に入ったときから聞こえていた海鳥のような音はそれらの鳴き声だったようだ。 何か授業で扱うようなモンスターの一種だろうかと思い、アズールはクルーウェルを見た。クルーウェルは普段煙管の煙を吐き出すような溜め息を吐いて口を開いた。 「友人夫妻の家で生まれた仔犬だ、夫妻と親犬が出掛ける間俺が預かることになった。お前たち生徒より余程手が掛からんからな」 「仔犬、これが……」 改めてベビーベッドの中のそれを見る。街に降りれば犬という生き物を見る機会はあったが、その赤ん坊を見るのは初めてだった。その小さい生き物たちは(数を数えてみると全部で十五匹だった)小魚の群れのようにぎゅうぎゅうと体を寄せ合っている。 「盗んだんじゃないよね」 「口のききかたに気をつけろ、シュラウド。今日の出席点を取り消してもいいんだぞ」 「シツレイシマシター」 早速イデアは背を丸めてベビーベッドを覗き込んでいた。アズールもその横に並ぶ。 「ウッワァ、たまらん!ワンてゃん、ウゴウゴしてかわいいでしゅねぇ」 「気色悪い話しかけ方をするなシュラウド、仔犬の教育に悪い」 ぴしゃりと言い切るクルーウェルも、お前たちもそう思うだろ、と仔犬に語りかける声はどこかやわらかい。イデアはよほど犬たちに夢中なようで、指先で仔犬の体を撫でた後、手慣れた様子で一匹を拾い上げるように抱き上げた。大きな手の中で仔犬は鳴き声を上げたが、クルーウェルは特に咎めない。間違った扱い方ではないのだろう。 「はぁ、まだ目も開いてない……真っ白だけどスピッツ?ラブラドールとか?」 「ふん、彼らの両親は血統書付きのダルメシアンだ」 「ダルメシアン?この子たちぶち模様ないけど」 抱き上げられた一匹はイデアの手のひらの上で所在なく動き回る。手の中を見るイデアはひどくやさしい目をしていた。愛しくて仕方ないものを見るような目だ。イデアのそんな横顔を見るのはアズールにとって初めてのことだった。 「成長していくにつれて模様は出てくる」 「ふぅん、そういうもの。毛皮にでもするの」 「俺がそんな非道な人間に見えるか」 「割と」 「余程成績を下げられたいらしいな」 「冗談冗談」 「……アーシェングロット」 呆然とイデアの手の中を眺めながらその会話を聞いていたアズールにクルーウェルが呼び掛けられて、我に返った。 「お前も触りたければ撫でていいぞ。生き物に触る具体的なイメージは魔法にも役立つ」 「あ、えぇ……」 「たまらんかわいさですぞ。ほら、両手出して」 「はい」 イデアに言われるままに、両手を差し出す。そっと手に掬った水を受け渡すようにイデアが手の上の仔犬を渡してくる。思っていた以上の体温と体の軽さに驚いた。仔犬の体はやわらかく、もちゃもちゃと手の中で動き回る。 陸の動物に触るのは初めてだった。その鼓動と呼吸、体温はアズールにとってまったく未知のものだ。 昔、海の中にいた頃小さな魚をこうして手の中に閉じ込めたことがあった。手の中で小さな生き物が身動ぐのはそのとき感じたくすぐったいひれの動きとはまた違った心地がする。あの時アズールの手に触れていたのは実際のところ海の水で、こんなあたたかさはなかった。 「かわいいね」イデアがそう言うのに、小さく頷くのが精一杯だった。ほんとうはまだこの生き物がかわいいのかどうか、判断がついていない。 「よし、そろそろベッドに戻してやれ」 そう言われて、手の上からベッドにゆっくりと下ろした。仔犬はまた鳴き声をあげて兄弟たちの体にむずむずと鼻先をこすりつける。アズールはそこでようやく長い息を吐くことができた。 「満足したらさっさと行け、仔犬ども。俺はこれからお前たちのレポートの採点をしなければいけないんだ。シュラウド、ご自慢のタブレットを実験室に忘れているんじゃないか」 「そうだった……アズール氏、タブレット取ったら部室行くから待ってて」 「わかりました」 「バイバイ、ベイビーちゃん」 イデアはひどく名残惜しそうにベビーベッドの仔犬に目線を遣ってから、慌てて準備室を出て行った。クルーウェルは手元にレポートの束を引き寄せて既に作業に入ろうとしている。アズールも優等生らしく一礼をして部屋を出ようとした。 「アーシェングロット」 クルーウェルがレポートに視線を落としたまま呼び止める。 「仔犬はどうだった」 「えぇ、なんというかやわらかくてあたたかくて、手に収まるくらい小さいのにせわしなく動いていて──海ではこういうぬくもりのある生き物に触れる機会がなかったもので、興味深かったです」 「そうか」 アズールが思ったことを素直に述べると、クルーウェルは静かに、しかしきっぱりとした口調で言った。 「シュラウドも同じだ」 「同じ?」 「あいつも体温のある生き物に触れることがなかった、少なくともここしばらくの間は」 そこで言葉を区切って、クルーウェルはレポートから一度視線を上げて真っ直ぐにアズールを見た。その目に自分の倍近い時間を生きてきた人間の経験値を感じて、知らずに背筋が伸びる。彼は教師の目線から三年間イデアを見てきたのだ。学園にいる厄介な教え子のうちの一人として。 「良い友人になってやれ」 イデアの孤独や<弟>と共に過ごす危うさを誰よりも理解しているのは自分だと思っていた。しかし、自分がイデアに向ける親愛と、教師たちが一生徒を理解しようとする思いはもしかしたら同じくらいの深さを持つのかもしれない。 また、同時に自分も彼や教師にとって保護し、教育すべき多くの生徒のうちの一人なのだということもアズールにはよくわかった。 「……えぇ、勿論です」 アズールは一礼をして、仔犬の鳴く準備室を出た。
部室に連れ立って向かう道すがら、イデアは仔犬がいかにかわいかったかと嬉しそうに話した。彼もぬくもりのある生き物に触れることがなかったのだと、クルーウェルはそう言っていた。彼が嘆きの島の出身であることや、機械のボディの弟のことをアズールは考える。 「アズール氏、どうしたの?犬怖かった?」 「いえ、そうじゃなくて……」 イデアは眉を下げてアズールの表情を窺ってくる。 隣り合って僅かに触れたイデアの手の甲はかたく、ひんやりと冷たい。その手もやわらかくあたたかい時期があったのだろうか。誰がその感触を知っているのだろう。もっと知りたいことがたくさんあった。具体的なイメージ。手にとって触れるようにイデアのことが知りたい。良い友人になるためには一体どんな対価が必要なのだろう。イデアのことが好きだというだけではだめなのだろうか。 「ぬくもりのある生き物のことは僕にはよくわかりません」 そう言うと、イデアは少しだけ息を吐き出すように笑った。 「僕も同じ」 顔を上げて、イデアの瞳を覗きこむ。その瞳は深い孤独を湛えているが、わずかな雪解けの気配も潜んでいるように見えた。 ヒトのかたちをとってこの学園に来たのだから、ぬくもりのある生き物として今、彼の隣にいるのだから。彼の心や手を少しでも、あたためる存在になれたらいいと、心から思う。
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