アズール・アーシェングロットが生まれた日のことをイデアは思う。
それはきっと美しい日だった。二月の冷たい風の中に春の気配が含まれて、長い冬のあいだ降り積もった雪を吹き流していくような、そんな日だ。
あるいはひどい嵐の中のことでもいい。強い風と雨が大きな波を起こす晩。うねり、黒く深い渦をつくる荒れた海の下でこの美しい男が呼吸を──それがイデアと別の呼吸法であれ──始めたのだとすれば、それは尊いことのように思えた。
いずれにしても、悪戯っぽくイデアの一歩先を行くあたたかな春の光も、うねる暗闇の海も、彼の知的な瞳を覗き込めばそれらはいつもそこにあってイデアを魅了した。
アズールが生まれたのは今からちょうど十七年前で、イデアは一歳を少し過ぎたころだった。その日は自分にとってどんな日だったのだろう。イデアはその頃には既に大人たちの発する言葉の意味は理解していただろうし(何しろ当時から天才少年だった)、もしかしたら簡単な二語文くらいは発していたかもしれない。自分と他者の境界が曖昧な世界で、イデアはその拙い発声で一体何を伝えようとしていたのだろう?

「何を考えているんですか?」
睦みあったあと特有のあまったるい空気の中で、アズールがイデアの髪の先を指先で梳かしながら尋ねた。イデアのベッドで、ふたりはくたくたのテディベアみたいに縺れた体とぬくもりを重ねあっていた。もうすぐ日付が変わる時刻で、アズールの十七歳の誕生日は次第にほどけて形を失いかけている。
「昔のこと」
イデアは答える。嘘ではなかった。たとえ本当のことだとしても、君のことを考えてたよ、なんて台詞はいつになっても言えそうにない。
ふぅん、とアズールは少しだけ興をそがれたようで、イデアの浮きだした鎖骨や、捕まえた長い指を検分する作業に戻った。
「僕の知らないような昔のことですか」質問のかたちをとってはいるが、拗ねたような口ぶりが隠しきれていない。それがたまらなく可愛くて、真珠色の髪に鼻先を埋めて、清潔な花とミルクみたいなにおいを吸い込んだ。
「なんですか、もう」
「アズール氏がしょげてて草なんだが」
「しょげてません、誤魔化さないでください」アズールがぺちぺちと手のひらでイデアの頬を軽く叩く。小さい頃オルトとそうした以外に、イデアにそんなふうに触るのはアズールくらいだった。
「ヒヒッ、かわいい、かわいい」
アズールはぷすぷすと怒ったふりを続けながら毛布を被り直した。笑って、毛布ごとアズールの体を抱きしめる。もこもこの毛布のおばけみたいになったアズールの表情は見えない。イデアはそっと口を開いた。
「君が生まれてくるまでの一年ちょっと、僕はどんなふうに生きてたんだろうって思ってた」
「そんなに昔のことを考えていたんですか?」
「うん、おかしい?」
「まともじゃないですよ」
「そうかな」
「えぇ、あなたって本当に……」
アズールは毛布から顔を出して、イデアの頬にキスを寄越した。眼鏡を外して、裸でいるときのアズールの少し掠れたあまい声が好きだった。普段は誰よりも言葉を重んじる彼だからこそ、こうしてふたりでいるときのほんのわずかに甘えた響きが際立つ。イデアはアズールの青い目を縁取る長い睫毛を指先で撫でた。アズールも白い腕でイデアを抱き寄せて、同じ毛布の中に引き込んだ。ふわふわとやわらかい髪が素肌にくすぐったい。
二月の寒い夜に毛布の下で肌を触れあわせていると、まるで自分たちが寝ぐらで春を待つ獣になったような気がした。ふたりでずっと深い目をして、お互いの目を覗き込んで、その先に待つ春の景色を探る。気持ちが途方もなく遠くに行ってしまったら、相手がここにいることを確かめるように口付けあった。何度も、何度も。
こんなふうにじゃれあっていると、もうずっと前からこうしているような気がしたが、ふたりが出会ってからはまだ一年と少ししか経っていない。それでもこんなに満たしあえることが不思議でたまらなかった。アズールがきれいな目を瞬かせてイデアを見上げた。
「待たせてしまってごめんなさい、イデアさん。僕が生まれるまでの間、待っていてくれてありがとうございます」
いいよ、とイデアは答えて微笑んでみせた。いいよ、今こうして一緒にいられるんだから。額をくっつけあってふたりは笑った。
このまま少しずつ溶けあってひとつの生き物になれたらいいのにと思う。
この気持ちを伝えるための言葉を探したけれど、それは明晰なはずのイデアの脳内でも形をつくらずゆるゆると溶けていってしまう。きっと十七年前のアズールが生まれた日からずっと同じだ。あの発声もままならなかった頃よりは格段に持ち得る言葉の数は増えている。
ずっと伝えたかった一番大切な言葉を、今なら言うことができるだろうか。



(Happy Birthday 02.24)





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