💀🐙が拾った戦争孤児が大人になるまでの話


幼い頃、僕は随分と風変わりな家族に育てられた。海辺に建つ家で、風の吹き方で家の周りの空気はすぐに変わった。魔法に包まれているみたいな、時が止まったような不思議な日々だった。

大きな戦争のあと、僕はひとりぼっちで海辺に転がっていた。たしか八歳か九歳になる年だったと思う。体中がすっかり重たくて、それなのにおなかのあたりは妙にすかすかしていて、変な気分だった。たくさん悲しい瞬間を見たし、泣き叫ぶことにも疲れ切っていた。ひとりぼっちで生きていくのには世界は果てしなかったし、ただ砂の上に転がって空を見上げているとその中に落ちていってしまいそうで、僕は目を瞑った。やがて海が満ちてきて爪先を冷たく濡らしたけれど、起き上がるのも億劫だった。このまま眠って二度と目覚めなくてもいいと思った。
足音が近付いてきて、目が覚めてしまったのはそれからしばらく経ってからだった。
「……ねぇ、アズール」
「おやおや、魚でも無いのに……泳ぐにはこの海は冷たすぎますよ。起きてください、おちびさん」
その呼び方に母親を思い出して、僕は重い瞼を開いた。こちらを覗き込むのは厳しそうな目をした男の人と、不思議な青い髪をした人だった。人は天国にいくときは天使が迎えにくると聞いていたから、この人たちがそうなのかしらと思った。本の挿絵で見る天使とは随分違うんだなと思っていると、ふたりは可笑しそうに笑った。考えていることが口に出ていたらしい。
「あなた、僕たちの家に来ませんか。僕たちもふたりぼっちなんです」
一人がそう言った。行き場のない僕に家≠ニいう言葉はやさしく響いた。うまく動かない頭で僕は彼らの言葉のもつムードを感じとっていた。それは不思議な明るさを持ってみえた。僕が小さく頷くと、上品に話す男の人は僕を抱き上げた。
「決まりですね」
僕はずぶ濡れで汚れていたと思うのに、その人は柔らかいシャツが汚れるのも気にしないで僕の背に腕を回した。
その人の肩越しに見た夕焼けの前の空はきれいな深い青で、燃えているみたいだった。

僕の新しい家族になったふたりはイデアとアズールという名前だった。アズールはスマートで格好良くて、なんだって完璧だった。特に料理が得意で、いつも美味しい食事をつくってくれた。学校が再開すると、勉強を教えるのもすごくうまくて、アズールがテストに出そうだとチェックした問題は必ず次のテストに出た。魔法みたいだと僕が驚いていると、彼は決まってきれいにウインクして見せた。
イデアみたいな大人に僕は初めて出会った。よく作業場にこもっては出てきたときに何か面白いものをつくっていた。僕につくってくれたスケートボードは宙に浮いたし、夏につくった水鉄砲は傑作だった。天才には変わり者が多いというが、イデアはその典型みたいな人だった。僕やアズール相手にはよく喋るのに、ひとたび外に出れば買い物の店員とのやりとりさえ子供の僕に任せた。イデアと勉強をしているといつも別の話になって、僕のノートは二人で描いたロボットの設計図でいっぱいになる。僕の落書きをいつも褒めてくれた。
ふたりとも運動は苦手で、丘の上まで駆けっこをするといつも僕が一番だった。ふたりはどっちも同じくらい息を切らしながら、坂道を走った。
ふたりは恋人同士で、今思えば魔法士だったのだろうけれど、彼らが家で魔法を使うところを僕は見かけたことがなかった。

アズールもイデアもそれぞれ仕事があって忙しくしていたけれど、アズールが仕事に行っている間、家で仕事をしているイデアと僕は一緒に留守番をしていた。お昼にはアズールがつくっていってくれたご飯を食べて、夕方には一緒にアニメを見た。そうやってアズールの帰りを待っているとなんだか胸があたたまった。
僕が眠る前にはいつもアズールかイデアが話を聞かせてくれた。本を読んでくれるときもあったし、強請ればふたりの昔の話を教えてくれる。内緒だけど、とイデアはアズールがほんとうは負けず嫌いでがんばり屋さんなことや、昔彼らが通っていた学園での出来事を話してくれた。
アズールの話はいつもすごかった。借りたものを返さない悪いやつからどうやって大切なものを取り返したのか、アズールは昔いろんな相手をこてんぱんにやっつけたらしい。アズールはほんとうは海からきた人魚で、海の中のことにも詳しかった。
「アズールはいつか海に帰っちゃうの?」いつだったか不安になって聞いてみたことがある。アズールは少し笑って、「僕の家はここです。僕が帰るのはイデアさんと、あなたがいるこの家ですよ」と答えた。ふたりとも灯りを消して部屋を出ていく前には僕の額にキスをしてくれた。
昔のことを話すとき、ふたりの目が少しだけやわらかく滲むのを見るのが好きだった。懐かしい大切なものを思うとき、人はそういう表情をするのだと知った。そして何より、彼らが深く愛しあっていることは幼い僕にもよくわかった。そしてそれが僕にはすごく嬉しかった。

僕たちはよくボードゲームをして遊んだ。イデアの持っているビデオゲームをすることもあったけれど、大抵は三人でできる遊びをしていた。何故かマジカルライフゲームはいつも僕が最下位だったけれど、チェスならイデアにもアズールにも負けなかった。

僕がこの家にきてしばらくして、背の高い男の人がふたりを訪ねてきたことがあった。
「稚魚が稚魚を育てるようなものです」
イデアとアズールの友達だというその人は言った。その口調はアズールによく似ている。
「……大切なひとを喪った悲しみは他の誰かで代えられるものではないでしょう」
「それでも」イデアは口を開いた。僕はイデアがアズールと僕以外の人に口を聞くところを初めて見た。
「それでも……この子には家族が必要だ。僕たちにも、この子が必要なんだ」


ある夜中、目が覚めてしまってふたりの寝室を覗くとイデアが知らない誰かの名前を呼んで泣いていたことがあった。イデアは苦しそうにその名前を呼んでいた。深い傷が静かな夜に痛みだすみたいに。アズールはイデアの背中を抱きしめて、優しく宥めているようだった。
翌朝のテーブルにイデアの姿はない。
「イデア、大丈夫?」
僕が尋ねると、アズールはいつも通りの仕草で紅茶を淹れながら「大丈夫ですよ」と答えた。それはきっとふたりにしかどうにもできないことなのだ。或いはアズールにもどうすることもできないことかもしれない。僕が少し思い詰めているとアズールは、
「お前も慈悲深い子ですね」
と言って僕の寝癖のついた髪を撫でてくれた。アズールは何も言わないけれど、イデアが泣いた翌日はいつも忙しい仕事を休んでイデアと一緒にいてあげることを知っていた。


僕たちは何か嬉しいことがあった日によくダンスパーティーをした。イデアが何か発明した日、アズールの仕事がうまくいった日、僕が運動会のリレーで優勝した日。
アズールが古いピアノを弾いて僕とイデアで踊ることもあったし、レコードをかけて三人で踊ることもあった。卒業前のプロムで一緒に踊れなかったぶん、今踊っているんですとアズールは笑った。イデアはそういうとき困った顔で笑っていて、照れくさそうにアズールに手を差し出した。イデアとアズールが手を繋いできれいな曲で踊るのを見ているのが好きだった。それは映画のワンシーンみたいに美しい光景なのに、どちらかがステップを間違えてふたりで笑いあう瞬間が何よりも尊かった。

彼らの卒業校でもあるナイトレイブンカレッジの馬車が迎えに来た日のことをよく覚えている。
学園に入ることが不安だった僕に、アズールは学園の七つの寮の話をしてくれた。どんなに立派な魔法士がいたか、そして彼らがそれぞれの寮に何を遺していったのか。イデアは僕が家を出ることを信じたくないようで、ぎりぎりまで部屋にこもって泣いていたらしい。
僕はアズールとイデアから頬にキスを受け取って、家を出た。その頃には僕の背丈はアズールに追いつこうとしていた。
イデアがアズールの肩を抱いて僕を見送ってくれたことを覚えている。夜の波の音が鼓膜を震わせて、胸の奥の鐘が打たれるようだった。


一年生のときに星送りのスターゲイザーに選ばれた。イデアも学生だったときに選ばれたことがあると、アズールがお酒を飲んだときによく話していた。ふたりが懐かしく思う時間を追体験するようで嬉しかった。
僕は早速家に手紙を書いた。スターゲイザーに選ばれたこと。イデアのスターゲイザー姿の写真があったら見たいということ。
イデアの筆跡で、写真は残念ながら(ここだけ強調されていた)無いけれど、星送りの成功を願ってると返事が来た。しかし、きっとアズールがこっそり同封したのだろう、その時の新聞の切り抜きが入っていた。変わらず格好いいんです、カラーでないのが惜しいですが、と万年筆の走り書きはアズールの字だった。
僕はふたりの幸福を星に願った。彼らが幸せであるように。僕の家族が、笑っていられるように。

星送りが終わったあと、学園に僕の父方の叔父が訪ねてきた。彼は僕の父と仲が良く、僕がずっと小さい頃よく面倒を見てくれた人だった。彼は僕が先の戦争で両親と一緒に死んだと思っていたらしい。十年近く行方がわからなくなっていたのだから当然だ。彼は僕を新聞の星送りの特集記事で見つけて慌てて学園に連絡を入れたのだという。叔父は僕が父に似てきたと言って涙をひと粒こぼした。
思えばあの家にいた頃、両親を思い出して泣くことはなかった。イデアとアズールの奇妙な優しさや愛情は僕を癒やしてくれていたし、なによりも僕は幼く、彼らとの暮らしは楽しくて、それまでの生活を忘れさせてくれた。
叔父夫婦には子供がなく、彼らは僕を養子として迎え入れることを提案してくれた。
「でも、僕には親が……」僕は僕を育ててくれたイデアとアズールの話をしようとした。しかし、そのとき僕はあの家に帰る道がわからないことに気が付いた。ふたりのファミリーネームさえ思い出せなかった。部屋に戻ってもやりとりをしていた手紙にはすべて差出人の情報が無かった。長い夢から覚めたように、窓から吹く夏の風が僕の頬を掠めていった。
その日を境に、僕はあの家に帰るすべを完全に無くしてしまったのだった。


それから僕は叔父夫婦に引き取られ、不自由なく幸せに育てられた。学園を卒業して、初等教育の教育者になる道を志したときも応援してくれた。
「稚魚が稚魚を育てるようなものです」
授業を褒められると僕はいつも返す言葉がある。大抵の人は首をひねるが、僕は続ける。
「僕たちはともに励ましあっています。彼ら、子供たちには僕が必要だし、僕には彼らが必要だ」

僕がふたりに連絡をとる方法は変わらず無かったけれど、大人になってからも、誕生日にはいつも差出人のわからないカードが届いた。洒落た金の縁取りのカードに、美しい青いインクで僕の成長を祝い、幸福を願う言葉が簡単に書かれている。書き出しはいつも決まって「僕たちの天才少年」。いつだって僕を立派な紳士として扱ってくれた人と、いつまでも僕と一緒で子供のままみたいな人からのバースデイ・カードだ。
あの頃の思い出を語ると、笛吹き男か、ムーミン一家と暮らしていたんだねと僕の恋人は微笑む。
僕もきっとそのようなものだったのだと思う。海面に起こる竜巻のような、暖炉で薪が爆ぜる音のような、そんな一瞬のまぼろしみたいな時間だった。
それでもたまにあの家がたまらなく恋しくなる。
風変わりな家族、静かな海辺の家。

きっとふたりは今でも手を取りあって踊っている。





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