(500番キリリク: 🐙くん関連)
(三章オバブロ直後、付き合ってないイデアズ)



ベッドから見た景色が見慣れない光に包まれていて、一瞬ほんとうに死後の世界か何かかと思った。もしそんなものがあるのなら、という話だ。燃えるような赤い光が静かに部屋へ差し込んで、カーテンにぶつかって広がる。スクリーンのようだが、そこに映し出される像は何もない。
陸での目覚めというものを体験したのは、思えばこれが初めてだった。離れた家も、寮の自室だって、アズールが安心して眠りに就くところはいつも海の中だったので。
そこは学園の医務室だった。親しみのかけらもないシーツ、薄い羽毛布団、かたいスプリングのベッド。ベッドの周りを取り囲むカーテンには認識阻害魔法が掛けられていることがわかる。カーテンの外からは誰もいないベッドに見えるという仕様だ。アズールがここで眠り込んでいたことは伏せられていたらしい。
自分に何が起きたか、おぼろげに記憶があった。パニックによる魔力の暴走と、それに伴うオーバーブロット。少しずつ呼吸ができなくなるような心地で、苦しかった。深く息を吸って、吐いて、陸で息ができることを確かめる。そのとき潔癖なほどに清潔な部屋に不釣り合いな甘いにおいが鼻先をくすぐった。あまく香ばしい、胸の内をくすぐるようなにおい。
「……シナモン・ドーナツ?」
重い頭を起こすと、ベッドに掛けられた簡易デスクに紙皿に載ったドーナツが置かれていた。普段なら視界にも入れないように気を付けているような代物だが、机上のそれはシンプルながらもひどく美味しそうに見えた。しかし、保健室の机に何故ドーナツが置かれているのだろう。
「レオナ氏のところのハイエナくんからだよ」
聴き慣れた声がして顔を上げる。イデア・シュラウドが使っているタブレット端末がふよふよと空中に浮かんでいた。目を細めてタブレットを睨みつけてからデスクに置かれた眼鏡に気がついた。
「……こういうとき、ふつうお見舞いは面と向かってするものでは?」
「君のところのおっかない二人がいるところに生身で乗り込んでいけるはずなかろ〜?」
「そうだ、あいつら……ジェイドとフロイドは大丈夫なんですか」
「大丈夫だよ、ずっと君から離れなくて、さっきクルーウェルに引き摺られてシャワーと食堂に連れてかれたところ」
「…………」
アズールは乗り出していた体を枕に埋めた。幼馴染みの二人のことを思い浮かべる。二人はアズールを心の底から信頼しているわけではない。奴らの退屈しのぎに自分がたまたま選ばれて、利害が一致しているから行動を共にしている。退屈させない代わりに、奴らはアズールの両腕となって海で、陸で、動いてくれた。傍にいてくれた。
失望、させただろうか。
「二人とも、君のことすごく心配してたよ」
タブレット越しにイデアが言う。アズールのついた溜め息で、ベッドサイドに飾られたばらの花が揺れる。あのシナモン・ドーナツがラギーからだというのなら、この花の贈り主は聞くまでもない。公には伏せられていたが、学年首席の彼も以前寮内でオーバーブロットを起こしたと聞いていた。
「それで、何故貴方がここにいるんです」
「いやぁ、我らボドゲ部の活動日になってもアズール氏に連絡つかなくて、かわいいアズ氏に何かあったのでは!?と学園施設の魔法の使用状況確かめたら保健室に認識疎外魔法と治癒魔法掛かっててこれは確定ーって飛んできた感じ?優秀なオクタヴィネル寮長サマのスキャンダル、拙者じゃなきゃ見逃しちゃうね。あ、あと氏のスマホにえぐい量の着信とステ爆してるの拙者ですので」
「ほんとうに、顔が見えないと饒舌ですよね……口止め料に何をお支払いすれば?」
「えー……それじゃあ、真実の愛のキッスとやらを……」
「最低ですね」アズールはタブレットに背を向けるようにベッドに体を横たえた。
「じょ、冗談だよ……」
この先輩からの冗談めかした求愛はここ半年近く続いている。いずれも対面ではなく、タブレット越しでの会話やメッセージアプリ内だけのやりとりであった。面と向かっているときにその愛情表現を不器用にもされたら響くものがあるのに、とアズールは思う。あの青く燃える髪や、苛烈な感情が潜む金の瞳や、ふとした瞬間の優しさは悪くない。今だって、タブレット越しにではあるけれど、アズールを心配そうに窺っていることはわかった。
「……双子が帰ってくるまで、少し眠ったほうがよさそうだね」
「えぇ、そうします」
「おやすみ、アズール氏」
掛けられる穏やかな声も悪くはなかった。ただ、アズールがまだ恋というものを知らないだけで。
空が傾いて、燃えて弾ける。東の空には星が光りはじめて、夜の帳が降りていた。そっと瞼を閉じる。ジェイドとフロイドはどんな表情で自分を見るだろう。シナモン・ドーナツは見た目通りに美味しいだろうか。(そしてラギー・ブッチはなぜそれを見舞いに選んだのだろう?)あの徹底した性格の男はばらの一輪をどんな思いで切ったのだろう。タブレットの向こうで、彼はどんな目をしているのだろう。その髪は何故燃えるのだろう。陸の夜に目を覚ますというのは、あるいは朝焼けの中で起きるというのはどんなものだろうか。どんな光が辺りを照らすのだろう。
何もかもに絶望しても、そうしたことのひとつひとつが面白い。知っても、知り尽くすことがない。
きっと最期の瞬間も満足することはない。アズール・アーシェングロットはどこまでも強欲なのだ。
そう思えることで今は少しだけ安心して、眠ることができた。


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