海の中にあるオクタヴィネル寮とは違い、迷路を抜けた先のハーツラビュル寮の庭には春の風が吹いていた。
この庭に咲く薔薇は一年中枯れない魔法で守られているというが、それでもやはり今日のような五月の空気の中でこそ花は薫る。ひどく鮮やかでデコラティブで、陸の春を慌ただしく詰め込んだ旅行鞄をひっくり返したような庭だった。

貴重な茶葉が手に入ったと同級生のリドル・ローズハートから連絡を受けて、アズールはハーツラビュル寮を訪ねていた。彼らの紅茶の趣味は確かなもので、時折、彼らが薔薇の王国から取り寄せた茶葉をラウンジのために譲り受けることがあった。対価として彼らのパーティーにスイーツやちょっとしたオードブルを提供している。普段はジェイドやフロイドを遣いに出していたが、今回はアズールが来るようにと直々に指名されてしまった。大方、前回遣いに出したフロイドが何か無礼を働いたのだろう。
庭木の迷路を抜けた先、ガーデンテーブルに着いたリドルは広い庭を統べる女王の風格でそこにいた。
「よく来たね、迷路は大丈夫だった?」
「えぇ、近道を覚えました」
リドルから茶葉を受け取って(香りの良さからそれがとても上質なものだということがアズールにはわかる)、ふたりは幾らか世間話のようなものをした。紅茶を淹れるコツ、庭の薔薇が美しいこと、もうひとりの同級生の寮長に数学理論を理解させる方法。そう話しているうちに、「美味しいお茶があるのに飲まずに帰るなんて」と引き止められて、そのままガーデンテーブルに着いてアフタヌーンティーを一緒に楽しむことになった。青々と茂る芝生の上、ガーデンテーブルには染みひとつない布が掛けられる。美しい秩序の下、彼が呼びつけた寮生たちによってティーセットと砂糖菓子が用意された。

「ご馳走になってしまっていいんでしょうか」
「気にしなくていい。ボクはこの季節のお茶会が一番好きなんだけれど、ひとりでお茶会というのも変だものね」
互いに勉強や寮長の仕事に忙しいことを知っているので、ふたりでこうして優雅な午後を過ごすなんて思いもよらなかった。春の陽気も相まって夢の中に迷い込んだ心地がした。
テーブルの上に並べられた砂糖やバターがふんだんに使われているだろう菓子類をほんの少しだけ摘んだあと、アズールは紅茶を楽しむことに専念した。流石、ハーツラビュル寮長が好むお茶には間違いがない。カップからは豊かな花の香りが広がって、飲み込めば胸の中であたたかく憂鬱が晴れていくようだった。
「どうかな? 気に入った?」
「素晴らしいです」
アズールが素直に述べると、リドルは満足そうに微笑んだ。こうした表情を見ると、同じ二年生の寮長と言っても、リドルと自分の特質は随分違うように思える。同級生の笑顔が眩しく、アズールは持ち上げたティーカップに視線を落とした。浅瀬のようなパウダーブルーに金の縁取りがされていて、繊細な持ち手のつくりが特徴的だった。
「ティーカップも美しいですね」
「寮に伝わるものだよ。キミにはそれが似合うと思って」
「リドルさん直々に選んでいただけるなんて光栄だ、それもこんなに綺麗なものを」
丁寧に磨かれてきたのだろう、柔らかく上品な青色は陽の光の下でつややかに輝いた。不躾にならないようにティーカップを眺めるアズールを見て、学年主席の彼は教科書を諳んじるように、人魚が美しいものを好むというのは本当なんだね、と呟いた。
茶葉のことも併せて何か対価をお渡ししなくては、と申し出るとリドルは少し考える素振りを見せてから細い首を傾げた。
「……ボクはおとぎ話のようなものをあまり聞いたことがないんだ、語って聞かせてくれないかな?」
「おとぎ話ですか」
まるで子供のような願いにアズールは目を瞬かせた。ずっと小さかった頃、同じように親にせがんだことを覚えている。今まで海でも陸でも、何人もの願いを聞いてきたけれど、そんなことを頼まれるのは初めてだった。
「えぇ、勿論、語って差し上げましょう。どんな話がお好みでしょうか? 強い魔女が出てくるものだとか、恐ろしい怪物が出てくるものだとか? うぶな人魚が人間の男に騙されて海のあわになってしまう話なんかもありますが」
「そうだね……」
リドルは摘まみあげたマカロンを小さな口に頬張って、アズールを見た。深いグレーの瞳に、髪と同じ色の睫毛の縁取りが精巧に作られた人形のようだ。もっとも、人形が持ち得ない彼の苛烈さはよくわかっているつもりであったが。儚い音を立ててマカロンが咀嚼されていく。アズールはその甘さを想像する。
「アズールという名前の男の子の話が聞きたいな」
薄く色付いた唇を軽く持ち上げて、リドルは言った。アズールは眉を顰めるのを一度の瞬きで抑え、紅茶を一口飲む。
「……貴方、紅茶はこんなに美味しいものを選んでいるのに、そういうところだけ趣味が悪いんですね」
「くだらない噂話で聞くよりも、キミの口から語ってほしいと思ってね。それとも、ボクの願いが叶えられないのかい?」
大きな瞳がこちらを見つめる。それがただ単純に輝いているだけなら、その辺の愚かな稚魚同様に扱うことができた。強固な信仰は愚直であることに等しい。しかし彼は、彼自身が強さだった。命を燃やして輝くひとつの星のようだった。時折その輝きが曇る日が来ても、また真っ直ぐに立つことができる。アズールにはこの生き物がひどく眩しく見えた。
悔しいから決してこの感情を憧憬などとは呼ばないけれど。
「……わかりました」
そうして語ったアズール・アーシェングロットの物語を、リドルは熱心に聞いた。蛸の人魚の少年が初めて魔法を使ったときの気持ちを聞きたがり、彼が蛸であることを理由に蔑まれたときには自分のことのように憤慨し、力を身につけていったときには目を輝かせて喜んだ。二人は紅茶を何杯かずつ飲み干して、途中で寮生に新しくティーポットを持って来させた。アズールは(ある程度秘密を隠匿した)そのストーリーを語って聞かせながら、リドルの幼少期に思いを馳せないわけにはいかなかった。おとぎ話を寝物語に聞くことはなかったのだろうか。他愛なく、そして大抵の場合は救いもない絵本を読むことは?
秋に彼がオーバーブロットを起こしたことや、その原因となった騒動も耳には入っていた。本来子供であって然るべき時期に、彼は大人に成らざるを得なかったのだ。その小さな体躯にあった欲求を満たすことができないままに育ってしまったのだろう。
アズール少年が意地悪な人魚と契約して、ジョークのセンスを最低なものに変えたくだりでリドルははじけるように笑った。物好きな兄弟が彼の蛸壺を訪ねてくるようになるところで、寮塔の大きな鐘が鳴った。気がつけばすっかり時間が経っていた。そろそろラウンジに戻らなくてはいけない。アズールのもとへ相談に来る生徒のアポイントメントが数件溜まっていた。
「もうこんな時間か、楽しい時はあっという間だね」
「……続きはまた今度にしましょう、陛下」
「ふふ、楽しかったよ。続きが楽しみだ」
冗談めかして席を立てば、リドルが優雅な所作で手の甲を差し出した。アズールは求められるまま手をとって、その華奢な手の甲に恭しい真似でキスを落とした。さながら王に物語を焦らして聞かせるシェエラザードだと思ったが、おとぎ話の類を聞いてこなかったという少年には伝わらないだろうか。
「次はリドルさんという少年の物語も仕入れて来ましょうか」
リドルは少女めいた眉間に思い切り皺を寄せて、アズールの慇懃さを鼻で笑った。
「絶対に御免だね」
物語の続きが語られる頃、二人の関係はどんなふうに変わっていくだろうかとアズールは遠く思う。
五月の風がやわらかく二人の間を吹き抜けた。咲き誇る薔薇は赤く、晴れた空はどこまでも青い。

麗かな春の午後だった。






back