消灯した夜の校舎には海の底のような沈黙が落ちる。その比喩は実際に海の底を知る人魚が呟いたものだった。
部屋を訪ねてきていた恋人が少し外を歩きたいと言うので、鏡を抜けて学園をぐるりと歩いていた。見慣れた古い城も、夜にふたりで腕を絡めて歩くとまた違ったものが見える。城を形造る石の静謐さ、今までに数多の学生が星を見上げたであろうバルコニー。中には自分たちのように想い合うものもいたかもしれない。学園で恋をした魔法使いたちはその後どうしているのだろう。イデアは伏し目がちに歩くアズールを見遣った。月の光を受けたアズールの長い睫毛が、僅かな紅潮を残した頬に芸術的な陰を落としていた。
夜の風にはわずかに緑のにおいが含まれている。夏が近づいていた。

城の裏には忘れ去られたようなパティオがあって、(実際、校舎の中庭はもっと美しく手入れをされていた)昼間は城に棲むゴーストがよくのんびりと過ごしているという話だったが、今は誰もいなかった。夜にはゴーストも眠りに就くのだろうか。ファウンテン型の噴水が水を噴き上げる音と、二人分の踵がひび割れた石畳を踏む音だけが静けさの中に落ちる。
並んでその噴水のへりに腰掛けた。アズールは夜歩きに一頻り満足したのか、笑ってイデアの肩に甘えた。他愛無い会話をしながら風を受けて歩いたが、まだお互いに体の火照りは冷め切っていない。真珠みたいに輝く柔らかい髪を撫でて、唇を寄せた。
「あ、まって……魚が」
「魚?」
「魚が見ています」
唇が重なる直前でそんなことを言って、アズールは噴水の中を示した。長い尾鰭を持つ観賞魚たちが月明かりを受けて悠々と泳いでいる。イデアにはその魚に二人の睦み合いを覗き見ようとする感情は見出せない。彼らの目はどこか遠くを見つめているようだった。そしてイデアは──人魚を誑し込めてこんなことを言うのはどうかと思うが──魚という生き物があまり得意ではなかった。僅かに口元を歪めるとアズールは可笑しそうに笑った。人魚ジョークでからかわれたのだろう。悔しいので小さな耳朶に噛み付いてやる。
「……見られてると興奮する?」
「ふふ、お馬鹿さんですね」
「拙者にそんなこと言えるのアズール氏くらいだからね」
抱きしめて、そのまま白い首を甘噛みする。歯の先が首に食い込んで、腕の中のアズールがわずかに身を捩った。太い血管が通るそこは間違いなく人魚だって急所なはずで、性感より先に本能的な恐怖があるのだろう。
「ん……イデアさん、それ嫌です……」
「そうだよね、ごめん」
できるだけ毅然とした口調を装っていても、その声が微かに震えているのを感じ取ってしまう。イデアは自分の中で加虐心にも似た欲が膨れるのがわかったが、嫌われたくないので大人しく噛みつくのをやめた。ご機嫌をとるように噛んでいたところを舐めてやると、アズールは可愛い猫のように感じ入って震えた。制服の首元を緩めても文句を言われないのをいいことに、頭を打たないように気をつけて恋人の体を横たえる。
「イデアさん……」
「なぁに? 魚が見てるから嫌なんじゃなかった?」
「本当に、意地が悪い人」
しなやかな腕が伸ばされて、導かれるままに抱きしめる。満月の下、イデアは獣めいた仕草で恋人の甘美な肌を味わった。

「食べられちゃうかと思いました」
長い口付けから顔を上げたとき、アズールは呼吸を整えながらそう言ってイデアの頬を撫でた。月の光を受けた後輩の男子学生は、くだらない宗教画に描かれる生娘なんかよりずっと美しかった。
「人魚の肉を食べると永遠を生きられるようになるんだっけ?」
「古い時代の言い伝えですけど……うちの祖母は未だに冗談でもその話をすると怒りますよ」
「ふぅん、まぁ気持ちのいい話じゃないよね」
その昔、魔力を持たないものたちがそう信じていたために、哀れな人魚たちが捕らえられ、食肉として売られていたというおぞましい歴史がこの世界の一部には確かに存在するのだ。
かたい噴水のへりから体を起こして、アズールは制服のシャツのボタンを閉じた。イデアは自分の人魚の頬に散った水の飛沫を拭ってやった。くすぐったそうに目を閉じる様子はあまりに無防備で可愛らしい。骨ばかりが浮き出た胸が締め付けられる心地がした。
「……永遠の命なんていらないけど、君のことは食べてみたい」
それがひどく意地悪な衝動なのか途方もない愛情によるものなのか、イデアには区別がつかない。アズールが華奢な眼鏡の奥で薄く目を開けて、イデアを真っ直ぐに見た。海の色を映したような瞳がきれいだ。この気高い少年が強がって隠している、やわくて脆いところを蹂躙したい。彼を大切にしているすべての人から奪ってしまいたい。
……昔々(5ちゃんはおろか、2ちゃんねるもインターネットも無かった時代だ)、冥府を統べる神様は一目惚れした乙女をうまく誘い込んで陰気で昏い死者の国に連れ込んでしまったと云う。冥府に脈々と続く非モテの象徴のような話だと思っていたけれど、今ならその気持ちがわかる。
この碌でもない欲求を受け入れてほしい。一緒にいてあげるよって言ってほしい。抱きしめられて、望まれてその肌に歯を突き立てるのは、飲み込む血液は、どんなにあまい味をしているんだろう。
「……僕はいつだっていいですよ」
アズールは気に入った絵に似合う額を選ぶような仕草でちょっと顎を引いて、挑戦的に笑った。
「うわぁ」
イデアは思わず情けない大声を出して、アズールの体を抱きしめた。両腕が回るほど細くて、いいにおいがした。
「やっぱ無し……食べちゃいたいくらい好きだけど、食べちゃったらイチャイチャできなくなるのつらい、もう無理しにたい」
べそべそ泣き真似をしながら捲し立てるとアズールは呆れたように笑って、イデアの頬にキスをしてくれた。
噴水の飛沫を浴びて笑い合う二人は愚かでみっともない馬鹿なただの学生たちで、神様でも哀れな人魚でもなかった。何よりも、それが一番幸せだと思った。









back