恋を棄てる
僕は最早十と八と少しの齢ではあるが、僕は生まれてこの方、父母から一葉、一葉と可愛がられるこの女を1度たりとて姉と呼んだことは無い。
この女がよく出来た孝行娘だと誰彼となく言った。
僕の学費の支払いに、困窮する父母が営む事業の助けに、一芸を売り、身を売り、最早身請けされるその日になれども、慕うことすら無いというのに僕を自慢の弟だと言うあの目を口を、物心ついた時から不思議に思っていた。
酷く腹立たしい程に、あの女は僕を呼ぶ。最早鬱陶しいを通り越して無関心になり、嫁に行くと聞いていっそ清々した程だ。
だから、夫になる男があの女を仕事柄の通名である奈津と呼ぶのは滑稽であれど、特別何とも思うものも無い。
僕は学問に励み、その先はまだ決まってはいないが、あの女は家庭に入って子を産み育て上げ、良妻賢母とやらに成るのが道理。
だから、嫁に行く前の夜明けに抜け出すあの女に、僕がたまたま寝付けぬまま起き出して背を追ったのら変わった事では無い。
嫁入り前に身体を冷やさぬようにと気にかけただけの事。
ただ、ひどく虚ろな足取りで冷えた土間へと降り、からからと乾いた音で鳴く引き戸をあける背に、声のかけ方を忘れた。
否、なんと呼べば良いのか分からない。何せ、あの女は呼ばずとも僕を気にかけ傍に寄るのだ。話しかけた記憶すら危うい。
なんと呼ぶか考えながら其れを追う。
戸を開け放したまま、白い息が行く手に浮かばねばまるで幽鬼も同然だ。
嫁に行くのが嫌になって逃げ出そうとでもしているのかと思えば、なんということも無くはた、と足が庭の木の元で止まる。
其れを熱心に見つめ、数分経てども動く気配が無く、這い上がる寒さに腹が立って声を掛けた。
「___姉上」
と声をかければ、それは文字の通り飛び上がるような様子で振り向いて、きょろきょろと見回し、僕をやっと認識した。
「龍之介! こんなに寒いのに何してるんですか!」
先程の幽鬼の様子は霧散し、慌てふためいた様子で僕に駆け寄り、手をとって白い顔が青く染る。
「姉上こそ、嫁入りする日に何をしているのかと思えば」
「私はいいんです! ただ、その…桜が咲いているかと思って」
「草履も履かずに?」
手は何方も冷たく、肉の無い僕と比べた所で差などない。
「草履…? あっ」
そこで漸く、自分の足元を見つめて気がついたらしい。呆れた表紙に溜息が出た僕を見て青くなったのが今度は赤に染まった。
「裸足で。縁談が嫌なら断るべきでは?」
「あっ、ちが、違います! 多分寝惚けていて…龍之介、嫌とかではないんです。本当に」
ただ、本当に桜がみたくて。と俯きがちに蚊がなく様な声で絞り出すのに、なんとも言えぬ静寂が落ちる。
「……残念ながら、姉上が祝言を挙げる時分に1輪咲くか咲かぬか、くらいだとは」
「そう、ですね。」
朝は寒いが、昼になれば近頃の陽気の良さに、本当に咲きそうだとは思う。よくよくみれば、蕾は色づいてふくらみ、開きかけであった。
「…嫁入り先も、庭に桜くらい生えているのではないか」
「ええ、梨や花梨、梅も生えていると。でも、今じゃなきゃだめなんです」
困ったようにそうして眉を寄せる。何かを悩み、苦悩して、諦めきれない様子で。
「でも、きっともう諦めろと言う意味なんでしょうね。私も、嫁に行くと決めましたから」
「桜に約束事でも?」
「約束、ではないですが、決めていたことがあったんです」
でも、今回は無理がありましたね。困り顔のまま、ため息とも笑い声ともつかぬ音が落ちる。普段何処で見る表情も変わり映えのしない笑顔ばかりなだけに珍しい。
「ふふ、何年ぶりでしょうね、龍之介とこんなに話せるなんて」
「嫁に行っては、戻ることも無いでしょうから」
ほんのりと、笑みが戻る。
「いっそ、この弟など忘れた方が姉上の身の為になるとは」
冗談ではなく、何度と思い口先まで登って飲み込んだ本心である。この女に慕われる謂れはなかった。実に薄情で何かと蔑ろに無遠慮不躾に扱ってきたのだ。むしろ、何故ここまで心を砕いて、他の男の元へ今日この日に行くという時まで僕の事すを気にする必要があるのか。
「墓に入るまで忘れません」
微笑したまま、寂しそうに言うのは何故か聞くのも憚られた。
「そうか。___数刻も寝れぬが、このまま桜が綻ぶまで起きているつもりか?」
「いえ、戻ります。ふふ、嫁入りの最中に寝こけては、折角見受けしてくださったのに悪いですから」
石畳を冷えた足がぺたりぺたりと踏んでいき、なにを思うたか、女はくるりと振り返った。日が昇りかけた世界の中、その白さが浮き立つ。
「龍之介」
「…、何か」
「龍之介、私は、貴方の姉になれましたか?」
不安に塗れた声であった。芥川の家に生まれ、世間から言えば、立派な孝行娘であっただろう。此れには是であるが、しかし、この問いの答えにはならない。
姉として、僕はこの女を見たことが無い。しかし、よくよく思えば、努力していたのだろう。家族として、姉として、僕に接しようと。
しかし、それには決定的な物が抜けていた。
「否、と言えば何か変わるか」
「何も変わりません。私はそうしてある事に等々と、失敗したのでしょう。ですが、最後までそう在れば罪じゃありません、でも、それではダメで」
ねぇ、と口にはさむ言葉に、生を得て初めてではないかと思いながら姉の顔を見詰める。
「龍之介。私は、貴方が好きでした。_____こんな姉をむしろ、忘れてください」
死ぬまで自分は覚えているというのに、早く忘れろという。
「僕は勉学以外に於いて、他の覚えは良い方ではない。姉上の事等一月二月程度で消えゆく」
「知っていますよ。だから、少し安堵しています」
僕の良く知る笑みを浮かべた女はそういって、今度こそ、そのまま部屋へと戻った。
嫁に行って、数日もすればあの女がいない平穏にも慣れた。時折母に届く手紙には、相も変らぬ女がいて、庭では桜がいっそ姦しい程満開になって、散っていた。
そのうち活動写真が当たり前になって、或日其の写真で見た、幼い子を抱いた、よく知る女の顔に似た姉とその夫が映るそこには、家で良く見たそれがいて、芥川ではなくなったのだと理解する。
そうして、少しだけ僕にはそれがなんであったか理解した。嫁に行く女は、恋を棄てた。恋など知らぬ僕には其れがどれ程の物であるか分からない。ただそれだけが、事実垣間見たものであるからあの女の顔は忘れ得ぬ。
葉桜はとうに満開であった。