タオルケットに包まれる


唐突に心が決壊する瞬間というのはある。何が原因かは分かっていて、でも今である理由なんて、恐らくはない。
 寝る前に深酒なんかするんじゃないよ。といっそ数時間前の自身を殴りたい気分だったが、あくまでもそれは要因のひとつであり、其れだけが原因とならないのを与謝野はよく理解していた。
 だから、漠然と悪夢に飛び起きて尚止まらぬ汗と動悸、そして勝手に涙腺を占有する感情と綯い交ぜになった恐怖から流れる涙にどうしようも無い疲労が混じる。イモムシのようにタオルケットに丸まって、泣き疲れるのを待つしかないとは思うものの、幼子のように熱を持った身体は簡単に意識を手放してはくれない。
 横でもぞりと寝返りを打つ気配がして、しゃくりあげそうになった口を抑えた。だめだ、だめ。泣いたら気付かれてしまう。せっかく良い気分で寝ているのに、酒をたらふく飲んで笑って、それで起きたら横でぼろぼろ泣く女がいるなんて最悪だ。彼に、そんなアタシを見られることが何より嫌だった。
 女々しいとか、強がりとか、そういうのを飛び越えてしまった感情が更に足されて涙を吸って膨らんでいく。陽だまりのそばにいる時くらい、湿った顔をしたくない。初めて会った時の匂いが、別たれたタオルケットを通り越して伝って、更に涙が滲んだ。
 きっと、泣いているのを見ても、彼は与謝野を見て同情したり憐れんだり、蔑んだりしないだろう。
 いっそ怖いくらいに彼は彼だけの持つ名探偵特有の其れではなくて、江戸川乱歩という眼がアタシを見て、惨めにさせる。
 アタシはそれが酷く嫌いだ。だから、知られたくない。弱ったアタシは彼の眩しさに縋ってしまう。弱い心と言うのは酷く空虚で、恐怖の痛みに甘える自身の弱さが許せなかった。
 それに、乱歩さんはアタシの恩人で、幼い少女から脱却した女の甘えは、ぞっとするほど悍ましいものになりそうで疎ましい。
 だから、なんともない顔をして起きて、子供時分と変わらぬ調子で、朝の弱い彼にしょうがないといった様子で「朝ごはんが出来てるよ、乱歩さん」と言えば、それがいつもの与謝野晶子と江戸川乱歩だ。
 乱歩さんは食べるのが遅いから、先に食べ終わったアタシは頬杖をつきながらフォークを遊ばせる手指を眺めて、時折取り留めも無い会話をしながら食後の珈琲を飲む。ふわり、といつかあった日常が与謝野の中で空想と絵空事の数時間後を描こうとする。ただ、それは煙の様に掻き消えて文字だけが躍った。
 夢すら描く事ができなくて、はく、と息が零れる。まるで酸素の足りない金魚のように、喉が詰まって空気を求めるしかできない自身がひどく滑稽で、アタシの口端がゆがんだ。
 もう少ししたら、起きて洗面所へ顔でも洗いに行こう。ぐちゃぐちゃのまま寝たら朝には息が出来なくて死んでいるかもしれない。こんな事で死ぬ人等いないに違いないが、その笑ってしまいそうな死因が本当の現実になるかもと怯えるくらい、与謝野は冷静ではなかった。
 癒えない恐怖が胸を抉って、辛くてたまらない。夢は所詮夢だと普段なら笑い飛ばせてしまえるのに、どうしてこうも今日は心が脆いのか。
 甘えたアタシの奥底が嘯く。甘えたら良いじゃないか。乱歩さんはアタシを無下にはしないだろう?
 本当に無下にはしないから、嫌なのだ。ぐるりと心が回って、口の形と空気だけを震わせるように、乱歩さんと紡ぐ。気付いてほしく無くて、気付いてほしい心がぐらぐらとしている。
 
 ぐるんと、視界が回って、ああ、やっとこの体は疲れたのだろうと安堵した。彼を起こす前に泣き疲れて早く意識を手放せる事を素直に喜べないアタシをぬるい体温を持ったタオルケットが包んで、背中を優しくとんと手が叩く。
 
「……ら…んぽ、さん?」
 
 枯れた声に、タオルケットに埋もれたアタシの唇を柔らかく指と思わしきものがとんとんとなぞる。しぃ、と乱歩さんの寝起きの掠れた声がして、びくりと背が震えた。
 どうして泣いているの、とか、何かあったの? とは、聞かなかった。ただ、ただ、優しく、細くて、慣れない手が子をあやすように背を何度も柔く撫でていく。泣いて空虚になった妾の中が干からびるんじゃないかと思うくらい、涙が際限なくあふれ出した。
 真っ白と、豆電球のオレンジの柔い闇色の視界で、何が起こっているかは分からないのに彼のよいしょという掛け声と、胴が一瞬だけ浮いて、もっとあつい熱がタオルケットを通して伝わった。
 左右にゆれるあつい熱が与謝野をしっかりと抱きとめて、ゆりかごに揺すられるような心地よさに、目を閉じる。
 
「あついよ、乱歩さん」
「与謝野さんは冷たい」
 
 こつん、と額がぶつかって、くぐもった声が耳朶を撫でる。くすりと笑い声がアタシから零れ落ちて、乱歩さんの手が背をとんと、優しく叩いた。不慣れな手が愛おしくて、空っぽの肺腑に音が響いて、恐怖が緩んでいくと同時に申し訳なさが広がった。
 
「与謝野さん。手、出せる? もう少し右手出せると思うんだけど」
「御免…重いんだろ、乱歩さん。アタシが寝付けなくて悪戯に呼んだりしたから」
「はぁ?」
 
 少し強い音に、思わず肩が跳ねる。次いで、ため息を吐く乱歩さんの顔を伺う事は、残念ながらタオルケットに阻まれて叶わない。
 
「僕、別に呼ばれてないよ。与謝野さんをタオルケットで包みたくなっただけ」
「___窒息したらどうするんだい」
「しないよ、ほら」
 
 ばさりと柔らかな毛布が取り払われて、暗さに慣れた目に乱歩さんが一杯に映る。オレンジの豆電球が作り出す陰影の中で、暗いエメラルドの海を宿した眼と得意げな笑みが広がって、アタシはよっぽど間抜けな顔をしていたのか、乱歩さんの笑みがもっと深くなった。
 
「ね? だいたいさ、僕が与謝野さんを殺すなんて有り得ないからね」
「____そりゃ、まぁそうだけろうけど…」
 
 見つめられて、涙は止まれど、泣きはらした眼が熱くて目を逸らす。真直ぐな眼に見つめられて、惨めさが沸き上がる衝動を堪える様に、下を向きかけたら鼻頭が彼の鎖骨にぶつかってアタシのうめき声が上がった。目の前で星が回るのと、締め付けるような二つの腕が痛くて、降参とばかりに軽く叩く。
 
「痛いッて。アタシは大丈夫だよ、ほら、タオルケットも堪能したし」
 
 二枚のタオルケットが絡まって、アタシと乱歩さんの間でつぶれている。するりと妾アタシの右手を乱歩さんの左手が包み込んだ。
 
「だめ」
「何が?」
「与謝野さん、僕はまだタオルケットで包まれてないんだけど」
「……何馬鹿な事言ってるんだい…乱歩さん、ほら、寝るよ」
 
 仕事に支障をきたすのはよくない。寝なければと当たり前のように告げて、乱歩さんだって、寝坊したくはないだろう? と口にしかけて渇いた涙をなぞる指に、アタシの動きが止まった。塩辛いだろう跡がなぞられて粉になっていく。疲労した身体は、今ならよく眠れそうだった。
 
「しょうがないねェ、乱歩さんは」
 
 口実を口にして、ばさりと乱歩さんの頭から背中へタオルケットをかけてやる。嬉しそうに笑むその表情に、少年と青年の境等なくて、今の与謝野にも少女と女の境が曖昧になりそうだった。抱きしめた身体はタオルケット越しにも熱くて、燃えてしまいそうだ。思えば、夏も近いのだったか。空調機クーラーを効かせた部屋に、そんなものは関係ないと決め込み、体を抱き寄せた。
 子供のように頬を寄せれば、酒を得た時より、与謝野にはわからない高揚感が心を支配したが、不思議とよく眠れそうなほど気持ちは凪いでいて、ゆるゆると眠気が忍び寄って来る。
 
「与謝野さん」
「なんだい」
 
 タオルケットからもぞもぞと乱歩さんが顔を出した。シーツお化けの様で少し愛らしいその姿に、眠気に支配された頭の中へぼんやりと可愛いなと感想が浮かぶ。
 
「死んだりしないよ。僕は名探偵だからね」
 
 真剣な声音で、意味なんて最早理解できるほど与謝野の頭は働いていない。言葉が右から左へ流れていくだけの事に、与謝野は眠たげに微笑む。口から、吐息交じりの柔らかい少女の言葉が紡がれていく。
 
「知ッてるよ。乱歩さんは____名探偵だから」





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