あてんしょん

CoCシナリオ『ムーンリットの終点で』の微ネタバレ有り
物語を紡いでくださった緋鞠様に最上の感謝を。




 拝啓、夏の臭い

まるで舞踏をするようにマリアの足は軽やかで、心は穏やかで満ち足りていた。
 穏やかで、本当に穏やかで。神様の御許にいたら、もしかして、こんな風な気持ちになれるのかもしれない。
 調子にのって暗いコンクリートの床を蹴ったせいで、その幻想は淡く消えて、穏やかな世界に一つコツンと音を落とした。
 拍子に、手から木製の柄の其れが滑り落ちて。ああ、ダメよマリア。しっかりつかんでいなきゃとわたしの頭の中で反響する声に、そうねと返して拾い上げる。荘厳で祝福された世界に落とされたそれは聖遺物のように神々しく、自分の神を崇める事が出来る唯一の手法なのだ。手放してはならない。
 これからその神へ贈り物を送るというのも、大事な変わる事の無い唯一の使命で、その稀有な誉に指が震えた。この指でしかできないの。そのことにわたしの心は歓喜に打ち震える。
 少しだけ、この気持ちを分けてあげたくて祝福された彼の人の頭上に口づけを落とす。
酸化した脂の臭いと、汗と汚臭と、それに濁り交じったものがして、口の端にこれから昇華されるものに笑みが浮かぶ。
 もっと尊いものに。わたしだけがささげられる素敵な物。その幸せを分けてあげたくて、彼の人の首筋に、頬骨に手を当てて面を見詰める。
少しだけ、その誉を受けるそれが羨ましく思えど、その誉を沢山の人に与えるという使命がある。マリアにしかできない唯一なのだ。
だから、羨ましくてたまらなくても、思うそれに蓋をした。でも、口から落ちてしまう。

「いいな」 

 本当に羨ましい。お父さんもお母さんも、人を羨んじゃ駄目よって言うけど、そんなの無理だし出来っこない。思いはふつふつ浮き上がって来るし、留めて、無いものと扱うのはとっても難しいもの。
 お腹にナイフを突き立てながら、そう思う。びくりと彼の___だめよ、わたしの神様にあげる贈り物なんだから、動いちゃダメ。ジャケットの布地に食い込み、更に下の襟衣を切り裂いて、____奥の心へと突き立つ。
 だらんと弛緩する手足に満足して、その上から退けようとして、ふと思い立った。思いついたようにその心の周りに沿って、皮膚に、骨にあたって止まるナイフを前後に動かして、切れぬ肉を断ち、骨はどうあっても切り取れなくて、てこの原理で体重をかけて押せば軽い手応えが響く。
 嬉しくなって、粗雑なものになるのも構わず取り出せば、それは本当に綺麗な赤と、肉の色をしていた。コンクリートタイルに囲まれた、わずかな天井から差し込む光に照らされて、なにより美しく輝いている。

 マリア、マリア。だめよ、遊んでいちゃ。遊んでしまっては、神様に折角の贈り物の鮮度が悪くなってしまうわ。

 そんな声に、あ。と声が落ちる。祭壇に早く捧げなければ。わたしの唯一がきっとそれを待っている。音もなく床を蹴って、祭壇へと駆け寄った。やっぱり、足はとても軽くて、まるで現実味が無い。
 そっと祭壇の上にそれを指から滑らすように慎重に落として、嬉しくなって頭上を見上げた。
 祝福のように、キリストの其れとは違うけれど、埃が月明りで舞っていて、静かで、やっぱりわたしの神はそばにいらっしゃるのだと嬉しくなった。
 祈りをささげるのよ。そう、響く声に頷いて一礼をして、神に跪く。
 神様、受け取ってください。どうか、わたしの凡てを。
 恍惚とした自分の声が落ちる。拙い聖句でも、わたしの出せる凡てを此れに捧げる。捧げて、________。

 違うのと喉の奥から金切り声を上げながら飛び起きた。
 頬骨が痛んで、腰と肩、背中がずっと同じ姿勢を強いられていたと不満を私に伝えてくる。

「あ______」

 汗で髪はぐちゃりと濡れて、タンクトップだけでは肌寒いかと着ていたグレーのパーカーは色が変わってしまい、目の前の紙束に書いた文字は滲んでしまっている。手紙を書こうと思って、そのまま疲れて寝こけたらしい。己の失態を少しマリアは呪った。

『拝啓__』

 そう書かれた文字しかないけれど、汗でぺたぺたしていて、到底出せる代物ではない。残念ながらゴミ箱行きになったそれにため息を吐く。序で、捨てようと立ち上がってふらついた体は水を欲していて、台所へと足を向けた。
 真っ暗で、流石に兄のジルも起きていない。手探りで電気をつければいつもと変わらないリビングにシン、と音が広がる。
 適当にコップを一つ、冷蔵庫から冷えた麦茶を注いで、一息に飲み干せば、夢の残滓がマリアの心にインクが滲む様に落ちていく。少しだけ、頭を振って、手持ち無沙汰になった指先を弄り、終いにこの空気の静けさが膨らんでいくようで、心がきゅうと音を立てた。
 怖い。どうしてあんな夢を見たの。そう自分を詰っても、どうしようもない。こんな事で父と母を起こすのは、どうも気が引けて、マリアはやっぱり、自分を何度か呪った。
 ぺこん。と同時にスマホが特有の音を発てた。何でも良いからこの空間を壊したくてスマホを二度ほど机に落下させかけながら、慌てて、通知のあったアプリを開く。

『起きてる?』

 という言葉を目が追って、しばし躊躇いながら、スタンプを押す。間抜けなぺこんという音がして、犬がなぁに?とマリアを見返した。

『いや、用はない』
『どうしたの?』
『んー、暇ってだけ。マリアはなんかしてんの?』

暇、という言葉にふふ、と声が漏れる。

『何もしてないよ。英司君は?』
『ゲームしてる。さっき死んだからちょっと休憩』

 そうなんだ、と打とうとして、少しだけ顔が見たいと思って、文字を消して打ち直す。迷惑かもしれないけど、英司君ならきっと許してくれる。

『見に行ってもいい?』
『いいけど………』
『分かった!じゃあ行くね!ちょっと待ってて!!』

 そう打った頃には心は浮足たっていて、さっきの夢の残滓なんてどこかへきれいさっぱりいなくなっていた。タンスから服を引っ張り出して、軽くシャワーだけあびて、濡れた髪を適当にタオルで拭いて、英司君と私がお決まりのように夜遅く遊ぶ時にだけ使う合図をベランダからする。
 からりと音を立ててお向かいの窓が開き、これも、なんだか久しぶりで、わくわくしてしまう。

「マリア……っと、こっち渡れるか?」
「うん! だいじょうぶ!」

 その浮つく心が抑えきれなくて、元気よく返事をしたら「近所迷惑だろ」と顔を顰めながらしーっとされた。

 ベランダに足をかけて、いつものように。渡ろうとして、ベランダにしては太めの縁に立って、風が吹いた。

 軽やかで、足が、軽くて。まるで、夢みたいなそれに先刻の夢が重なる。恐怖は無かった。ただ、あの祝福されたような心の浮つきが膨らんで。

「マリア!」

 英司君の声に思わず、そのまま飛んで、思ったよりもお向かいの方の縁が遠く感じて落ちると思ったけど、きちんと足先はそっちに着地した。勢いあまって英司をつぶしながらベランダの中へ落下する。

「ご、ごめんなさい!!」
「ま、重いだ…ろ…おまっ、潰れる潰れる」

 また二人でバタバタしながらベランダで一騒動起こして、煩すぎたのか、お姉さんに「煩いよ!」と声をかけられて、やっと二人で顔を見合わせてそろそろと、ベランダから中に入った。

「マリアのせいで姉貴にバレただろ…」
「だって英司君が急に呼ぶからでしょ」

 やいのやいのと騒ぎ立てながら、廊下に出ると二人で声を落として、英司君の部屋まで泥棒になったように忍び足で進み、早くと急かされ、静かに開けようと思ったドアが思ったより大きな音を発てて、それに飛び上がりながら二人で中へ入り込んだ。

「心臓止まるかとおもった……お母さん起きたらどうするの…!」
「大丈夫。それより、マリア声がでかいだろ……静かにしてろよ」
「ふんだ…」

 別に悪い事をしているわけじゃないけれど、こっそり忍び込んだり、夜更かしを推奨してるみたいで、会うと緊張してしまう。
 流石に英司君のいい方があんまりだと、マリアは鼻を鳴らしながら低位置のベッド前へクッションを抱きながら陣取る。テレビにはアクション系らしいゲームのコンテニュー画面が映っていた。

「……やる?」
「2Pなら…」

 頷きながら、英司君の手元と揃いの白いコントローラーを握る。1Pは基本的に矢面というか、操作するキャラクターはアクションが多いが、2Pは非力でサポートが主だ。ゲームや細かい作業が苦手なマリアにとって慣れ親しんだ役割の方である。

「じゃあいつも通りだな」

 そういう英司はマリアの横に座り、膝上にいつものクッションを置いてその上にコントローラーを載せた。最近、受験勉強もあってきてないが、変わらないその様子に少し安堵する。久しぶりにするそれはやっぱり見ている分には面白いけれど、自分の操作となると難しくて、何度も失敗が重なる。

「うー……このコンボって難しくない…?」
「…どうだろ……。難しいなら代わるか?」
「いい、やる…英司君にできて私にできないはずがないもの」
「へいへい」

 静かに闘志を燃やすマリアを英司は軽くあしらって、画面を見て欠伸を一つした。何度も繰り返されるそれに飽きつつも、幼馴染という間柄もあって、マリアを尊重してくれるところは有難い。英司君には絶対言わないけど、とも思うが。

「ぁ、いけ、いけっ!」
「ちょ、マリア声っ」
「あっ、ごめ……ぁああああ!!!」
「……わり、今の惜しかったな」

 惜しいところでボタンのタイミングが外れて、ふっと何もかもがどうでもよくなってしまい、ベッドにもたれかかったままぺしぺしとコントローラーで英司を叩く。

「おい、マリア痛い」
「英司君のせいだ…」
「悪かったって。でも声は小さくしろよ…」
「うん……」

 ごめんなさい、と呟いて、英司はしょうがないなという顔をした。これでは英司君の方がマリアよりよっぽど年上らしい。そのどうしようもないものに狡いともう一回ぺしとぶつけて、クッションに顔を埋めた。

「マリア」
「……怒った?」
「怒らねぇけど。その、なんかあったろ」

 決定的には分からないが、何かに勘付いていた。英司君は鈍いように見えて勘は鋭い。なんでか、お互いに何かに勘付くような、嫌でもそういう風に一緒に居たら、そうなってしまったのかもしれない。

「怖い、夢を見たの。あの……無かったことになった、あの夢」

 本当は、無かったことになんかならない。自分の手を汚したものは消えない。数か月たっても、自分に纏わりついて消えない。あの色は、臭いは、思いは。自分が捨てたくても一生捨てられない。きっと、みっともない顔になっている。怖くてこんなのよくない。怖がってばかりで向き直らなきゃいけないのに、逃げるなんて、許されない。

「マリア」

 ため息交じりの英司君の声にギクリとする。英司君は、関係なかったのに巻き込んでしまって、本当は後悔している。一人では背負いきれないものだったから。それで、甘えて、今もそうやって幼馴染という立場に甘えて年下の彼に重荷を背負わせようとしている。

「一緒に背負う…償うって約束しただろ」
「英司君は、ひとつも悪くもないのに?」
「はぁ……泣き虫のくせに、一人でとか、マリアには無理だろ。絶対、途中で投げ出すから」
「だって、逃げたら楽になれるよ、どうしても、誰も追いかけられないのに」
「だから、終わるまで隣に居るって。引きずってでも向き合わせるからな。逃げるのだけはだめだ」
「英司君、無理だよ。どこかで、英司君だって行っちゃう」

 人って、ずっと一生一緒にはいられない。そんなの、今大人へ向かう真っ盛りのマリアがよく知っている。誰もかれもどこか遠くへ行く。どれほど仲が良くても、道は分かたれていて、歳を得るたびに、大人になる度に難しくなる。

「なら、そん時が来たら考える」

 クッションを剥がして横目で見た英司君の鼻にはちょっとしわが寄っていた。

「簡単に一緒にいるとか、いつか後悔するんだからね」
「するわけないだろ」
「なんで。だって、英司君向こう見ずなんだもん。いつか言った事後悔するでしょ」
「しねぇって。言っただろ。向き合う方法なんて世の中五万とあるって」

 お前みたいな幼馴染、一人置いてくとか、絶対泣いて煩いし。と言って、小難しい表情になってそっぽを向かれた。

「……置いていかないでくれて、ありがとう」
「ああ……。ほら、続きやろうぜ」

促されて、放置されていたコントローラーを握る。

「ねぇ、英司君」
「なんだよ」

 怪訝そうに此方をむいた英司の顔はもうゲームの方に気を取られていて、マリアの事は見ていない。

「____明日、プール行こ」
「_____はっ?」

何でプールなんだと怪訝そうな顔をする英司にマリアはにんまりと笑みを浮かべた。

「海は遠いから、電車に乗らなきゃいけないし。でも市民プールは自転車で行けるもの」
「寝不足で行く気か…」

 時計はもうとっくに丑三つ時を超えていて。でも、多分ゲームも終わるまでは結構先がある。
 もう残暑も厳しくなくて、夏と言うには微妙だ。それでも、あの夏の記憶を払しょくするには。あの夏を上書きできるほどの思い出は、多くはないから。
明日何時に起きれるかを考えて、脳裏に人の少ないそれを思い浮かべたら、鼻奥に、少しだけあのプール特有の塩素の臭いがした。


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