「…やれ、どうした」
「だって、だって刑部が……」
「誰(た)そ彼、よ。知らぬか?」
「知って、る、けど…」
夕暮れ時、互いの顔がよく見えない時間では橋の上や少し離れた所にいるのが人なのか魔物なのかわからないから、皆人影を見つけたら「あなたは誰か」と尋ねた。
誰そ彼、だから黄昏。
「いやはや、飼ってた兎が見当たらぬでな。見れば木の上とくる」
しかもこのような禍々しい刻に、と付け足した。
「…だから、私が誰か聞いたの?」
「われを誘き出す魔物の罠であったら困りもの故、そう根にもってくれるな」
そうして多少口元を歪ませて、初めて私の頭へ触れた。
それが微かに密やかだったように思う。
「さて、今宵はここで夜を明かすか?」
「…乗せてください」
「おや急に耳が」
「乗せてください!ごめんなさいー!」
わあわあ嘆きながら両手を伸ばすとそのまま輿に引き乗せてくれた。
人恋しさに首もとに抱きつくとよしよしと頭を撫でられる。
包帯越しにくっついた刑部の体は温かい。
刑部の体は温かいときと冷たいときがはっきり分かれている。
からかったと思えば、嫌いな黄昏時にわざわざ外へ出てきてくれたこの人みたいに。
「何故このような所へ登った」
「あ、昔木に登ったことがあるような気がして…」
くるりと木を振り返ったとき、熟した柿が視界に入った。
そうだ、これ柿の木だったんだっけ…。
「そういえば、昔刑部に柿取ってもらったことあったね。会ったばかりの時だったっけ?」
「…ああ、そうさな。あれが始めよ」
「そっかそっか」
思い出せて良かった。
きっと刑部は覚えていてくれただろうけど、やっぱり自分で持っていたい記憶もある。
もしかしたら私がこの木に登りたがったのは不明瞭な木登りの思い出よりも、これが柿の木だったからかもしれない。
ふよふよと夕日を背に屋敷へ戻っている途中、高めに浮いている刑部の腰から現実感のない高さを見下ろしていた。
「刑部は私が忘れたことも覚えていてくれるね」
「ぬしが忘れやすいだけよ」
「うう、それを言われたら身も蓋も…」
「…相手決めの時のことも忘れたか?」
「え?」
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