ここからならつま先くらいなら届くか、いや膝ももう少し伸ばさないと……
「……ううー…」
やってしまった。
登ったは良いけど降りられないなんて、幼子か小さい動物のすることだ。
刑部だったらどちらに私を例えてからかうだろう。
そうやって苛められるたび、もっと注意深く生きようといつも心に決めているのに、どうして忘れてしまうのか。
(なに、人など忘れる生き物よ)
私が誰かに失態を見られたことを恥ずかしがると、刑部はそれについてからかった後に必ずそう言ってくれた。
向こうは長々覚えてなどいないから気にするな、ということを言ってくれてるんだと思う。
その気持ちが嬉しいから、そう言う刑部にいつも笑ってお礼を返した。
でも少しだけ、信じていなかった。
刑部は絶対に絶対に誰かからされたことを忘れないから。
よく言えば義理深い、あくどい言い方をすると執念深い。
そんな刑部が近くにいたから半信半疑だったのに、今こうして自分の忘れっぽさを自覚するとどうにも真理のような気がする。
ああ、じゃあ刑部のあの言葉は慰めと一緒に、自虐でもあったんだ。
きっと。
駄目だ、何だか物悲しい。
なんだかんだで刑部といる時はいつだって好きに動けるのに、一人になるといろんなことを考えてしまう。
特にこんな黄昏時は。
どうしよう、どうし……
「さて、ぬしは誰であろうな」
ぱちくり、と俯いていた目が瞬いた。
自分でも驚くほどの速さで顔を上げると、正面よりやや右の空中に、いつもの刑部が佇んでいた。
あんまりにいつもどおりに。
初めて入り日色に包まれて。
「刑部……」
「ぬしは誰であったか」
「…ぎ、」
多分、刑部のいつものからかいなんだろうけれど、今の私にはそんな余裕なんてちっとも残っていなかった。
泣きそうになって、でもなんとかこらえる。
それでもそれはありありと顔に出たらしく、刑部が少しぎょっとしたのがわかった。
「そんな、こと…」
ふるふる、体が震える。
「そんなこと言っちゃいやだ…」
多分私は、刑部が忘れないでいてくれることが嬉しかった。
それが人らしくないことだとしても、私の良かったことも悪かったことも全部記憶してくれている刑部が安心の源だった。
だからこんな他愛ない一言にこんなに揺らいでしまうんだと思う。
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