▼
「今から歩いては日も暮れるだろう。
馬役を連れて行く方が懸命だと思うがね。」
「じゃあ馬だけでいいよ。」
「乗馬の出来る遊女などいない。
卿は…ああ、馬は好かなかったな。
失敬失敬。」
「ぐぬぬ。」
断りたがってはいたが、女郎の疲労具合からどうやら観念したようだ。
どこから手に入れたのか町娘の着物に身を包んだ商品を仕方なしにこちらへ渡した。
「鈴お姉さんと密談しながら行こうと思ってたのに。」
「もちろんそれを阻むためだが?」
「汚いさすが松ちゃんきたない。」
「はは。」
まあいいかあ、と案外すんなり息を吐いて、馬の前方に座らされた女郎の顔を覗き込んでいた。
私の土地を借りた時点で多少はこの可能性を予測していたのかも知れない。
「…武将様とは思えないね。」
「おや、知っていたのかね。」
「手鞠に名前を聞いたんよ。
役人の名をかたるなんざずいぶんお広い心をお持ちでありんすなあ。」
手鞠の気に入ったこの気性は健全だった。
「誉め言葉として受け取っておこう。」
それだけ告げて馬を走らせた。
手鞠も並んで走る中、今まさに逃げ出した地獄へ戻されんとする存在はただ前だけを見つめていた。
そして時折は下を。
「鈴お姉さんはどうして逃げちゃったの?」
相当な速度を出しているとは思いがたいほど整った息で手鞠が尋ねた。
「……遠くを見たかったんよ。
廓の外になんざ出たことがなかったからね。」
「でも一度逃げたら、すごく痛いことされるんでしょ?」
「折檻なんざ何が怖いのさ、目ぇ閉じて別のこと考えてりゃ終わる。
わっちらの仕事と大して変わりないだろう。」
「?」
首をかしげる手鞠に、初めて笑顔らしきものを浮かべる。
外を見たい。
遠くへ行きたい。
それは全ての女郎が持っている、共通の望みと言っても良いだろう。
ただ。
「将軍様の馬に同乗した遊女はわっちくらいのもんだろうけど、何分暇でありんすねえ。
連れ戻しの馬役を買って出るなんざ。」
「逃げ出した女郎の顛末ほど好奇心を煽られるものは無いだろう?」
「…あぁ趣味が悪い御人。」
「人間は悪趣味な物ほど心の奥が惹かれてやまないのだよ。
川でさえ下へ下へ導かれるように、堕ちることほど人が求めていることは無い。」
prev / next