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それは松永の屋敷で女中と戯れていた時、ふと目の前を通り過ぎていった。
思わず顔を上げてぱちぱちとまばたきをする。
「手鞠ちゃん?」
隣で呼ばれても全く気にとめず、自分の小袖に鼻を近づけたり、女中の着物に顔を埋めたりもしたけれどそれらではなかった。
廊下の先からそれはする。
「ちょっと行ってくる。」
「あら、気ぃつけてねー。」
ぱたぱたと見送る女中に手を振って、目に見えないそれを追い出した。
ちょっとした足の動きで掻き消えてしまいそうでひっそりと足音を忍ばせる。
辿るのはずいぶんと通り慣れた道筋。
確かこの先にあるのは、と想像がついた時にはもうその部屋の襖を開けていた。
いつも自分が来たらそうなるように、それはそこにあった。
引き寄せられるよう座るその背に近づくと、ぺちゃっと体ごと広いそこへ張りついた。
「……まさかとは思うが、卿かね?」
「むん。」
顔も押しつけたため声がくぐもる。
流されるかと思いきや、背にしがみつく手もそのままに松永が本を閉じた。
自分からくっついてくるという前例のない行動故、何が手鞠にこんなことをさせるのか皆目見当がつかない。
「いい匂いがする。」
「…何?」
「松ちゃんいい匂いがする。」
廊下にいても分かった、とどこか眠たそうな声で呟く。
匂い。
確かにそう発した。
「嗚呼、昼に香屋が来たのだよ。」
「焚いたの?」
「偶にはいつもと違う品を試すのも良いかと思ってね。」
どうやら効果はあったらしい。
そうかそうかと頷いては、へふへふ頬を背に押しつける。
「卿はこちらの方が好ましいと見えるな。」
「んー…松ちゃんのいつもの、渋いから…」
そう言われこれ見よがしに肩をすくめると、寄りかかっている手鞠の身がずり落ちそうになる。
見かねて後ろに手を回しその首根っこを掴み、自分の膝まで引き落とした。
意識を呼び覚ますか身を起こすかのどちらかだと思った。
が、案外あっさりとそのままあぐらの膝に顎を乗せ、こてんと横になる。
またたびを与えた猫と愉快なほどに重なった。
「…松ちゃんどうして顎の下撫でるの。」
「いや、もしやと思ったんだが。」
くすぐったいです、と撫でていた手を押しのけられ、眠るまではいかないもうとうとしだす。
高い所でしか眠らない手鞠の貴重な姿といって良い。
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