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「待ちたまえ」
「ん?うわっ」
その辺にあった誰のものともしれない、黒い小袖を投げ与えた。
彼女がなぜ白装束に身を包み、雨によるものとは到底言えないほど濡れそぼって、履物も履いていないのか。
そんな事はもう聞けないが。
「女子が体を冷やすものではないよ」
「ありがとう、おじさん」
「私にも名はあるんだがね」
何ていうの?と聞かれて、僅かな間思考を巡らせたが、そのうちどうでも良くなって首を横に振る。
「松永弾正久秀…なに、好きなように呼ぶといい」
「じゃあ松ちゃんだね」
「…君は本当に新種の人間だな」
こちらの言葉を聞いているのかいないのか、少女は大人用の黒い小袖に見様見真似で腕を通し、余った布を腰元で縛り上げた。
「行く宛はあるのかね」
「無いよ。でも、最初から無かったから大丈夫」
「では賊に気をつけ給え…私のような、ね」
「うん!」
少女ははちきれんばかりの笑顔で頷いた。
別に楽しげな台詞では無かったはずなのだが、足取り軽やかに歩き出す。
去り際に一度だけ振り返り、手を振って見せた。
行く宛もない、帰る宛もない中でなぜあのように笑っているのかと考えたが、すぐに答えがわかった。
私と同じだ。
浮かべる笑顔に理由も意味もないのだ。
そうして少女は森の奥へ続く小道へ消えていった。
それから二年後。
「あれ?」
「ん?」
ばったり、という音が聞こえそうなほど、素直に私達は出くわした。
さして広くもない道の途中。
自軍が近江へ向けて足を進めていた山の麓で、その斜面を駆け下りて目の前に降り立ったのが少女だ。
「ん…?おじさん、会ったことあるよね」
「…私にも名はあるんだがね?」
「あー!松ちゃん!」
「よく覚えていたな」
その台詞はこちらにも当てはまる。
中々無い出会い方だったとは言え、あれは二年前、それも夜半の出来事だ。
一瞬の邂逅ですぐに思い出せたのは相手が女だった事もあるが、少女があの時とまるで変わらない格好をしていたせいでもある。
黒い小袖、白い半股、背中には相変わらず等身を超える槍を背負っていた。
「広い日の本でまた君と相見えるとは」
「道は繋がってるんだもん、どこかで会うよ」
「嗚呼、その通りだ」
少女は以前に与えた小袖をずっと着ている、訳では無いようだ。
それは明らかに真新しい物で、とてもあれから二年着倒している風ではない。
「上背が伸びたな。歳も十は超えたんじゃないか」
「歳は良くわからんなー。松ちゃんはおじさんになったね」
「昔から君にはそう言われるな。まだ三十の坂を超えたばかりだと言うのに」
少女はカラカラと笑う。
たった一度会っただけの人間に、昔から、という言葉を選んで使ったことが、自分でも少し意外だった。
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