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相変わらず、海は凪いでいた。
偉大なる日輪が沈んだ後も、この安芸の空には幾つもの星が瞬き、柔らかな風を運んでくる。
気配を感じる訳では無いが、恐らく屋敷中、いや国中の人間は皆眠りに落ちているのだろう。
安芸の静寂と波の音に包まれて。
恐らく、自分以外の全ては。
広い布団の上で寝返りを打つと、障子を開け放した外に大鳥居が見えた。
自分にとって、夜の時間ほど空虚に感じるものは無い。
全く眠りの浅いこの体に、この国の夜は静かすぎるのだ。
「……全く、忌々しい」
どんな悪態をついても、波の音がかき消していく。
寝つきが悪く、眠りが浅く、目覚めの早いこの体では、布団に横たわる時間が何よりも長く感じられた。
そうなれば、頭には流れるように日々の雑念が浮かんでは消えていって。
昨日の昼の記憶が流れた時、ぴたりと思考が止まった。
(柔らかくて、あたたかくて、いい匂いがするものが好き)
駒共の指揮を上げるため、あれに報酬の話を切り出したのがそもそもの間違いだった。
相手の核心に触れぬよう話すことも、真実を覆い隠して話すことも、意図も容易く行える自分が。
あんなにもあっさりと口に出してしまった。
あれに、余計な事実を吹き込んだ。
自分にも身に覚えがない訳では無い。
寝つけぬ夜には、波の音が懐かしい子守唄に聞こえた事もある。
何かに包まれていたような記憶も、最期に自分の頬を撫でた母の手の感触も、潮が引いた後に現れる島のように、ふと記憶にのぼってくることがある。
船で揺られているうちに瞼を閉じると。
その緩やかな波に抱かれたまま、もう二度と、開きたくないと思う。
しかし、それが何になるだろう。
それらの良き日の思い出が瞼の奥に痛みを残しても、寝つけぬ夜が終わるだろうか。
この手を取ってくれるだろうか。
慰め癒してくれるだろうか。
手鞠は穏やかに生きていたのだ。
母の面影も知らず、幼き日の残り香のような思い出を抱えてもなお、身近な人間に甘えることですでに満足していた。
代用品だとしても、それが代わりだと気づかなければ、長い間幸福でいられただろう。
あの、気の抜けた笑顔で閉じられていた瞼を。
自分がこじ開けたのではないだろうか。
見たくもない真実を突きつけたのではないだろうか。
らしくもない。
しかし、考えずにいる事もできない。
それはまるで、自分が。
「…っ!」
恐ろしい思いつきを消すように、咄嗟に近くの脇息を壁へ投げつけた。
壁に当たった部分が布地だったため、大した音は出なかった。
(元就様すごいね、どうしてわかったの?)
(……さあな)
は、と乾いた声が喉奥から出てきた。
それは自嘲のようでもあったし、大きく吐いた息のようでもあった。
何かに耐え忍ぶように体をきつく抱え込んだけれど。
もう自分の耳には、静かに寄せては返す波の音以外、聞こえなかった。
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