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「その鍵を奪われる時は我の蔵へ敵の侵入を許す時よ。それをどう扱う」
その一言で、頼りない鍵の質量が倍になったような気がした。
作りたてでまだ錆も傷もないそのつるりとした表面は、音もなく手のひらから滑り落ちていきそうだ。
「元就様を殺したい人は皆これが欲しいんだね」
それはほとんど独り言だったが、元就が無言でいるので肯定なのだと分かった。
つまり自分は囮でもあるのだ。
元就に仇なす者が皆一度は手鞠に刃を向ける。
そしてこの鍵を奪われたが最後、蔵にいる元就の無事は保証されない。
この鍵が、いや。
この紐が切られた時点で終わるのだ。
それなら。
手鞠は鍵を自分の喉仏に押し当てると、そのまま穴に通されていた組紐をグルグルと首に巻き付けた。
指を通す隙間もないほどにきつく、がんじがらめに巻き終わると、残りの紐は首の後ろで固く結んでしまった。
元就は手鞠の喉に括り付けられた鍵と、幾重にも縦横無尽に巻かれた赤い組紐をしっかりと見つめ、何度か目を閉じて。
「……それで良い」
それだけ呟いた。
喉に食い込みそうなほどにきつく絡まったその赤い紐は、まるで手鞠の首を走る血管を思わせた。
そしてその生命線ごと紐を断ち切らない限り、決してこの鍵は奪えないのだと、一目見ただけで理解出来たので。
もうそれ以上言うことはなかった。
「…用は終いよ。何処ぞへでも行け」
「はーい」
右手を上げて返事をすると、手鞠はどこにも駆けて行かず少し歩いた先で屈んだ。てっきり一目散に祭りへ飛び込んでいくものと思っていた元就は、踵を返そうとしていた体を止め、眉間に皺を寄せて尋ねた。
「…何をしている」
「この間元就様に教えて貰った貝がすごくおいしくてね、また食べたいなって」
ほら、と見せてきた竹ざるの中には、細長い貝が幾つか並んでいる。
馬刀貝だ。
確かにこの生き物は以前自分が蔵に篭もっている間、その足元で延々と潮干狩りをしていた。
「…あれは干潟の折に出てくる生き物ぞ」
「うん。今満潮だから全然採れない。あはは」
馬刀貝は塩が引いている時に巣穴を見つけて掘り出す貝だ。
なみなみと潮が満ちているこの時間帯に、逆になぜ数本見つけられたのだろうか。
明日まで待てば、また幾らでもとれただろうに。
「だって美味しかったんだもん。お昼ごはんに食べたくなったから」
その感覚が元就には分からない。
より効率的で、労力に見合った成果を得られる場面が必ずあると言うのに、それを選ばない人間の考えが。
呆れをそのまま表情に乗せたのに、手鞠は気にもせずまた足元の砂を掘り返していた。
息の塊が、一つ自分の口から漏れた。
そのまま砂浜と蔵を結ぶ数段の階段に腰を下ろす。
膝に頬杖をつき、ただ波の音を聴きながら海辺を眺めた。
手鞠の半股から伸びる足が、日輪の光を反射して微かに白く浮かび上がる。
ちゃぱちゃぱと頼りない飛沫をあげながら、寄せては返す波の中でまるで踊るように跳ね回る。
稚児の水遊びでも見ているようだった。
だって美味しかったから。
祭りにも行かず、効率的でもないやり方で好物を探している。
それが今の自分と何が違うのか分からなくなり、手鞠へ投げかけようとしていた小言を飲み込んだ。
「……手鞠」
「ん?元就様も貝食べる?」
「いらぬ」
好物に負けたから田舎の鬼と取引をするのだと言えば、目の前のは何と言うか思考をめぐらせてみたけれど。
「あのお餅また食べられるの?ちょっとちょうだい!ちょっとでいいから!」
と腕をワキワキさせてせがんでくる姿しか思い浮かばず、そのくだらなさに口元が緩んだ。
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