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ふと、今まで浮かべていた空気のように軽い笑顔が掻き消えた。
月が雲に隠れるように、氷が水に戻るように、何の感情も無い顔が現れる。
「顔が熱くて、頭がじんじんしてて、食べ物を食べたいって気持ちにならないの。眠たくも、ならない」
「いつからだ?」
「あの夜から」
あの、間一髪の夜から、と呟いた。
「私って今まで、したい事は大抵出来たし、出来ないなら出来ないで、別にそれでも良かったんだ。だから悔しい気持ちも、悲しい気持ちも知らない」
でもあの夜は。
走っても走っても屋敷までの距離がまるで縮まらないと感じたあの暗い暗い夜道は。
「怖かった。これが怖いってことなんだって、初めて知った」
「……怖い?」
それは元就の想像していた答えとは随分違ったし、到底手鞠の口から出そうもない言葉だった。
槍を持たせれば相手を好き放題に出来る力を持ち、走らせれば恐らくどこへだって行ける。
そんな人間が何を恐れるというのだろう。
「考えて考えて、やっと分かったの。私、あの場所に間に合いたかった。それが出来なかった時を考えたくもないくらい」
だから間に合って良かった、と話した。
間に合ったのは良かったの、だけど。
「それからずっと、体が怯えてる。何があっても大丈夫なようにガチガチで、お腹もすかないし眠くもならないよ」
「…今もか?」
「今は、何だか大丈夫」
ねえ元就様、と呟いて、困ったように笑った。
「私は、何があんなに怖かったのかな?」
それは自分で埋めた餌の場所を忘れてしまった栗鼠のように見えたし、帰り道を乞う迷子のようにも見えた。
奇妙な生き物だと思う。
大体の事は持ち前の本能で理解する事が出来るのに、自分の事となるとまるで稚児のような理解力しか持っていない。
全く、なぜそんな簡単な事が分からないのだろう。
「それは貴様が、我をう……」
ぱりん、と何かが割れた音がした。
それが心の警告であると、すぐに気づいて目を見開いた。
今自分は、何を言おうとした?
「……元就様を?」
続きを待ち望むようにこちらをのぞき込む手鞠の顔から、無意識の内に目をそらす。
以前、その目があまりに真っ直ぐに、自分の処分を約束したのだ。
安芸に不要となった自分の後始末を買って出たのだ。
それでもあの夜、これは自分を殺さなかった。
生かすために、自分の中の決まり事を一つひっくり返してまで駆けつけた。
それが何故なのか、これは本当に分からないのだろうか?
自分はもしかして、分かってしまったのか?
「元就様ー」
ゴンッ!
「た!」
気づけば輪刀を振り下ろしていた。
そのまま手鞠が顔を上げられないよう、輪刀で押さえつけたままにする。
「……よく食べ、眠れ。これは命令ぞ」
「え、えー。難しいよ…」
「知るか。知った事か。分かればさっさと行け」
今日は元就様が気分屋だ、と捨て台詞を残し、言われた通りその場からさっさと走り出して海岸の果てへ消えていった。
遠ざかっていく軽やかな足音とは裏腹に、重たさを感じるほど重要な一つの考えが頭を占めている。
気付かないようにするには既に遅すぎた。
その日の夜、全く目が冴えてしまう二人の人間が、いつまでも寝床で寝返りを打っていたという。
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