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「まあ、つまりあの子は必死になった事が無いのですよ。あの持て余す力を出し切るような事が無かった。体もそれに慣れていた」
しかし、と机上に置かれた地図を筆先で叩いた。
それは地図上では短い線に過ぎないが、実際の道のりとしては気が遠くなるほど遠いと、当主の自分が一番よく知っている。
「今回、あの子は持てる力を全て出し切らなければならないほど緊迫していたのでしょうな。今まで生きてきた中で有り得なかった事が体に起きたわけです。それが不眠や食の乱れに繋がっているのだと思います」
「…そんな事があるものか?」
「頭が一度に膨大な知識を与えれば混乱するように、体にも膨大な刺激が与えられれば、もちろん混乱します。しかし、落ち着いて整理すれば頭も元に戻るでしょう。体も同じことです」
「……具体的な方法を言え」
確かに、と鉄斎は苦笑した。
「先程の様子を見れば、元就様の命令ならば食事はしますよ。しかし睡眠は精神に直結してますから…難しいかと」
その言葉に、ふと自分に置き換えるものがあった。
それでも今は関係のない事なので、頭の外に追いやる。
「昔から、人は安心なくして眠れません。何があの子の安心なのか、聞いてやってください。数多の兵を操る元就様であれば、それを聞き出すのは容易いでしょう」
「……全く、手間のかかる事よ」
そう言いながらも、速やかに退室していく様子を見て苦笑する。
その足音が遠くなってから、やれやれ、と目の前の地図を畳んだ。
「貴方のために頑張りすぎたのです、休ませてあげなさい。と言って伝わるならこんな物はいらないのですが…」
――――――……
医務室を出たばかりの元就でも、手鞠の居場所はすぐに分かる。
(夜の見張りの人も、屋根で寝ている手鞠ちゃんを見かけないとかで。何でも夜中じゅう海辺をぶらぶらしていると)
だから、何も考える必要はなかった。
自分が蔵に篭ろうと、部屋で執務をしようと、これは大体浜辺にいる。
元より、自分の声が届かない場所には行かないのだ。
三日の間、食べも眠りもせずにいる「それ」は、まるで何も変わらない姿で浜辺を走り回っていた。
何となく分かった。
これは恐らく、やせ細り、やつれ衰えるのではなく。
きっとある日、絡繰のぜんまいが止まるように死ぬのだ。
聞いてやれと鉄斎は自分に言ったが、そんな方法は知らなかった。
人の話を聞いてやれるのは、自分の話を聞いてもらったことがある人間だけだ。
「手鞠」
「!」
呼べばすぐに、海岸の端にいたのに駆け寄ってくる。
いつの間にかこの行動も当たり前になっていた。
「元就様、もう夜だよ。寝ないと」
「…貴様がそれを言うか。何故かような所におる」
「眠たくならなくて」
「何故だ」
そう尋ねると、手鞠の体の動きが止まった。
ただ元就を見上げて、口をつぐむ。
「よく、わからない」
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