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鉄斎は彫師の市右衛門と同じく、この屋敷に昔からいる使用人の一人だ。
医者であり薬師でもあるこの老体は、幼少の頃の元就を何かと世話してきた。
熱を出した時も苦い薬を処方される時も、覚めた顔をして座っていた稚児は、今も尚覚めた顔をしている青年になった。
しかし、今回はその背中に見覚えのある存在が丸まっている。
「……お久しゅうございますな、元就様。そこにいるのは手鞠か?出ておいで」
「やだ!」
「…ここへ連れてくる頃からこの調子よ。貴様、こやつに何かしたのか?」
「以前、甘露と言って与えた飴が、実は漢方薬でして…手鞠は酷い苦味に苦しめられていましたな」
誠にすみません、と謝るのを聞いて、元就が何かを言いたげに手鞠へ振り返った。
手鞠がうずくまったままこっくり頷くので、ため息を一つ吐き。
「……それを渡せ、前者の方よ」
唐突な要求だったが、日頃から遊びに来る童子へ与えるために、いつも近くに飴を用意してある。
二つほど取り出して元就に手渡すと、当人はうずくまっている手鞠の口をこじ開け、そこに飴を放り込んだ。
「!」
手鞠は放り込まれた物に驚いて跳ね起きたが。
舌を動かすうちに甘味が出てきたのか、その内静かになった。
「今の内にさっさと診よ」
「あ、はい」
飴を舐めることに集中している手鞠を触診しながら、ずいぶん手馴れているなあと言う言葉は飲み込むことにした。
それからしばらく手足や胸の音を調べ、飲まず食わずになった切っ掛けと思われる話を幾つか交わした。
手鞠が飴をすっかり舐め終わる頃、鉄斎が一つの答えを出す。
それを口に出す前に、すでに去りたそうにしていた手鞠はさっさと帰した。
元々本人に聞かせるために連れてきたのではない。
「さて、本題に入りましょうか。これが手鞠が走った道のりと思われる地図です」
自分と向かい合う元就の間に古びた地図を広げた。
安芸の屋敷と、一の山、二の山が載っており、その間を赤い線が走っている。
それを確認し、元就も頷いた。
「手鞠の飲まず食わずは何といいますか……まあ、体が驚いているのでしょうな」
「……どう言う意味だ」
「いえ、あの子はずいぶん身体能力が高いでしょう。大体の事なら易々と出来ますから、それで不自由したことも無く生きてきたのだと察せられます」
まあそうだろうな、と元就も納得する。
この半年ほど戦で手鞠を使い続けてきたが、どんな局面でも顔に焦りや緊張を浮かべたことがない。
浜辺で潮干狩りをする時や、自軍の兵士と組手をする時と、何も変わらない顔をする。
体をどう動かせば、どんな結果になるか知り尽くしている。
そんな顔だ。
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