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「ぐぁ…ッ!」
そのまま反対側の壁まで飛ばされ、荒々しく背中を打ち付ける。
恐ろしい威力で蹴り挙げられた体はしばらく言うことを聞かず、銛を持ち続けるので精一杯だ。
「……手鞠、貴様……」
ようやく視界に色が戻った元就が、そこから先を言う事ができなかった。
何故、どうやって、と問う前に。
今自分の耳に届いている荒い風の音が、手毬の肺から溢れているものだと理解したから。
肩で息をする、どころではない。
全身を上下に大きく震わせ、口からでは足りないと言うほどに辺りの空気を肺に取り込もうとしている。
それでも瞳はらんらんと光り、瞬きもせずに元親を睨みつけていた。
走ったのだ。
これは、この生き物は、人間が人間でなくなるほどの呼吸と理性を引き換えにして尚、恐らく。
ただただ、走り抜けて来たのだ。
この夜の闇の中を。
ただ一つの命を目指して。
自分の居場所を目指して。
「長、宗我、部っ…!」
一向に呼吸が戻らないというのに。
ぜえぜえと苦しく喘ぎ、その声すら元の声とかけ離れた物に成り果てているのに、呟く。
首を何度も捻り、よく急所を見ようとする。
崩れ果てた体で、歯を食いしばり牙を剥く。
それはまるで、獣だった。
当たり前のように人でなかった。
しかしそれがなぜか、まるで元の姿であるように、自然だった。
最早立っていられないのか、それでも四つん這いになり槍を後ろに構えた所で、元親がはっと正気を取り戻した。
「……っ待て!あんた、そのままだと毛利まで傷つけるぞ!」
びたり、とその目の前まで振り下ろしていた槍が止まる。
しかし、手鞠の首元にも元親の銛が迫っていた。
「今のあんたじゃ俺に勝ち目はねえ!だがな、この狭い所で暴れてみろ!そんな獣のままでまともに毛利を避けられんのか!」
「!」
は、と目の瞳孔が戻る。
それと同時に、喉に引っかかっていた呼吸が一気に戻り、激しく咳き込んだ。
体の緊張が一瞬にして解けたのだろう。
あらゆる疲労と代償が一度に体を襲った。
「!
おい、貴様…」
元就がその場を動こうとしたのを元親が銛で制した。
「…どんな絡繰があったかは知らねえが、今日は痛み分けで終いだ」
「ちょう、そ……」
「喋んな手鞠……あんたらの事、少しは考え直したぜ」
じゃあな、と言い捨てて、折れたであろうあばら骨を庇いながら歩いていく。
膝をついている手鞠が元就の顔を見たが、それが横に動いたのでそのまま見送った。
部屋の横に止められた船に身を翻して乗り込むと、それは夜の闇に音もなく溶けて消えていった。
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